下北沢通信

中西理の下北沢通信

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平田オリザ小論

 大規模なロボット工場と研究拠点があり、大勢の研究者・従業員がいた日本のとある地方都市。円高による空洞化などで町は衰退し、工場は撤退。現在はかろうじて小さな研究所のみが残る。先端的なロボット研究者であった父親の死後、この町に残され生活する3人の娘たち。かつて、父親の部下だった研究者の一人の海外赴任が決まり、別れのあいさつに姉妹の下に訪れ、そこにかつての父親の同僚らも顔を見せる……。チェーホフの「三人姉妹」の設定を日本の近未来に移し、凋落した日本の様相をシニカルに描き出す平田オリザの最新作がアンドロイド版「三人姉妹」だ。日本での初演(10月20日〜11月4日、吉祥寺シアター)の後、つい先日フランスを代表する演劇フェスティバルであるフェスティバル・ドートンヌに参加しパリ郊外の劇場「ジュヌヴィリエ国立演劇センター」(12月15〜20日)でも上演されたばかりだ。
 「三人姉妹」は演劇としてだけでなく、世界有数のロボット学者・石黒浩教授(大阪大学)と平田の共同研究プロジェクトとしてもロボット工学の世界からも注目を集めている。平田・石黒のコンビはロボットらしいロボットである「ロボビー」が登場するロボット演劇「働く私」や本物の人間そっくりのアンドロイド「ジェミノイドF」が登場するアンドロイド演劇「さようなら」などを製作。その上演を通じてノウハウの蓄積に努めてきた。今回の「三人姉妹」はロボビー、ジェミノイドFの双方が登場し、ロボット・アンドロイド演劇としても、平田の方法論に基づいて制作された群像会話劇としても集大成となった。
 ロボット・アンドロイド演劇をはじめとする平田作品はフランスを中心に欧州各地の演劇フェスティバル・メディアアートフェスティバルなどに招へいされている。アビニョン演劇祭フェスティバルでは「ソウル市民」連作の一挙上演の準備も進んでいる。平田作品は演劇の枠を超え日本を代表するパフォーミングアート(舞台芸術)として高い評価を受けているのだ。日本における認知度こそまだ差があるが、海外での評価は高まりつつあり、小説の村上春樹、映画の北野武、現代美術の村上隆に現在のところは及ばぬにしても、その域に近づきつつあることは間違いない。多くの戯曲がすでに翻訳されており、日本の劇作家として安部公房三島由紀夫に並ぶ存在と位置づけられるなどフランスでの評価は特に高い。日本においては「役者はロボットである」などの挑発的な発言は反発するアンチ派も生み出したが1990年以降の日本現代演劇では平田はもっとも重要な作家でその存在を無視して日本の現代演劇を語ることはできない。
 11月には初の小説作品であり、高校演劇に打ち込む女子高校生を描いた「幕が上がる」(講談社)が出版され小説家デビューも果たした。想田和弘監督によるドキュメンタリー映画「演劇1」「演劇2」も10月から順次、全国公開され話題となった。これは平田オリザ青年団に想田監督が数か月にわたって密着し自らカメラを回し続け、その姿に迫ったものだ。2本を合わせた上映時間が5時間42分という長大なドキュメントなのだが、なかでも「演劇1」は執拗なほど粘着質に稽古場を撮り続けて、平田がどのようにその作品を演出しているのか、役者たちが実際にどのように演技を組み立てているのかについてを微細に克明に紹介する貴重な記録となっている。
 私が平田の舞台と最初に出合ったのは「ソウル市民」(1993年4月、下北沢ザ・スズナリ)だった。当時、「静かな演劇」ないし「静かな劇」と呼ばれていた平田の舞台について、その呼称には違和感があったもののそれがなにであるのかは分からず、困惑させられた。だが、戦前のソウル(当時の呼び名は京城)にあった篠崎商店のある日の午後の応接間の出来事を描いて、人間に潜む不作為な差別の構造を冷徹にえぐり出した作品からはそれまでの演劇にはないスリリングな刺激を受け面白く、東京公演の後すぐに韓国プサンの公演にも追っかけていくことになったほどの衝撃を受けた。その後いくつかの作品も続けて見て、平田オリザによる群像会話劇を「関係性の演劇」と呼ぶべきではないかと確信し、それは平田以降相次ぎ輩出した当時の演劇作家らを批評していく際のキータームともなった。
 「関係性の演劇」とは登場人物の関係性をそれぞれの会話を通じて提示することで、その設定の背後に隠蔽された構造を浮かび上がらせるという仕掛けを持った演劇のことである。平田の作品をこう呼ぶことにしたのは「静かな演劇」と呼ばれていながら、一部では新劇(リアリズム演劇)への回帰とも当時、解釈されていた平田の演劇は西洋近代劇の理論的支柱と目されていたスタニスラフスキー(そしてその後継であるメソッド演劇論)が前提としていた内面を持つ個人としての全人的存在である人間を否定して、人間というものはいわば複数の関係性を束ねる結節点のようなものとして存在しているにすぎないというまったく前提の異なる人間観をもとに構想されている。そういう違いがあることをそこに見てとったからだ。
 平田の演劇には「関係性の演劇」であることに密接に関連した2つの特徴があった。それはまず第1に「現代口語演劇」であること。そしてもうひとつがそのほとんどの作品が「群像会話劇」であることだ。「現代口語演劇」は平田自らが著作のなかで何度も繰り返して強調している最大の特徴だ。平田の演劇は「リアルな会話とはいかなるものか」という現代の私たちが日常話す話し言葉の精密な分析からスタートしている。
 これまでの演劇がリアルでなく、そのセリフ回しにリアリティーが感じられないのは普通の会話体としては使わないような言葉(セリフ)を俳優に強いて、そういうものを説得力のある台詞として語るのが俳優の技術であるとされていたからで、「それは間違っている」と平田はそれまでの演劇のありかた(これは特に直接的にはスタニスラフスキーシステムとその現代化された応用ともいえるメソッド演技の内面の再現という神話)に批判の目を向ける。そして平田はよって立つ理論的な基盤を現象学に置いた。フッサール、メルロ・ポンティらに代表される現象学である。
 この辺の理論的な詳細については平田自らが著書に記しており、ここではあまり詳しくは踏み込みまないが、現象学はともかく平田の方法論を単純化すれば、それまでの「リアリズム演劇」だとそれぞれが個人として独立している登場人物の内面を想定して、そのセリフを登場人物がどんな心情で述べたのかということなどを内面から想像し、自分の演技に落とし込んでいく(内面と演技の一致)。一方、平田(青年団)の場合、個々のセリフの内容やそれが発せられた時の個人的な感情よりもコンテクストないしその会話によって立ち現れる登場人物の関係性の方をより重視したところにそれまでにない新しさがあった。
 それがどんなものかはこれだけでははっきりとは具体像を結ばないかもしれない。実は映画「演劇1」はそうした疑問にこたえる貴重な映像資料にもなっている。興味を持った人はぜひ参照してほしい。特に注目したいのは「東京ノート」の3人の姉妹(ひとりは弟の妻で義理の関係)による会話の場面だ。故郷から上京してきた長姉(松田弘子)が美術館のロビーで妹・義妹と出会い、会話を交わす場面なのだが、そのなかで3人の関係性やその背後にある問題がそれとなく提示されていく。この長女と義妹の関係はこの舞台の後半に夫との関係を解消して離婚することになるため、おそらくこれが彼女にとっての義姉と会う最後の機会になるだろうということが告白されて、それはこの「東京ノート」が下敷きとした「東京物語」と重ねあわされる重要な場面となるのだが、これは一見さりげな会話いを装いながらもそこにいく前のきわめて重要な場面だからだ。
 平田はここでともすれば役に感情移入して「入り込んで」しまいがちなタイプの義妹役の女優に対して、セリフの「間」「強さ」「ニュアンス」についての細かいダメ出しを何度も何度も執拗に繰り返す。ここでの演技・演出法はその義妹の心持ちをつかめば自ずとその演技の仕方が了解されるといった普通よく行われると思われる役柄へのアプローチとまったく逆で、特にここで重要視されているのがセリフの間の指定でこの部分についての平田の指示は「あと○○秒長く」などときわめて具体的で揺るぎがない。映画で紹介された演出風景で興味深いのはノートパソコンにの台本と役者の演技を同時に見ながら、平田が右手で机を軽くタップするようにリズムを取っている姿。それは私には楽譜をチラリと見ながら指揮棒を振るオーケストラの指揮者を連想させた。
 いわばここでは「演技のデジタル化」が志向されていると考えることができるわけだ。ここでもうひとつ別の例えを導入すれば旧来のメソッド演技的な演技法と青年団の演技の関係はちょうど音楽における実際の楽器の演奏とMIDIデータを入力しての打ち込み音源の制作の関係になぞらえることができるのかもしれない。
 音楽ではある種の音楽ジャンルにおいてはパソコンに入力されたMIDIデータがあれば演奏者や場合によっては初音ミクに代表されるボーカロイドの出現で歌手もいらないのがむしろ普通のこととなっていて、演奏者もそういう状況を嘆くことはあっても反発することもあまり聞かないのだが、それを考えると演劇界では一部に激しい反発を受けたが平田の「役者=ロボット発言」はそれほど突飛なことを主張しているわけでもないことがうなずけるのではないだろうか。
 そして、それを体現したのがロボット・アンドロイド演劇であるという風に考えがちであるが、実は話はそれほど単純ではない。アンドロイド演劇、ロボット演劇というとアンドロイドやロボットがあたかも人間のように演技する演劇だと想像するが、平田の演劇では人間が人間を演じるのと同じようにアンドロイドはアンドロイドを演じ、ロボットはロボットを演じるのだ。
 アンドロイド演劇「さようなら」を例にもう少し分かりやすく説明しよう。詩を読むアンドロイドと死に至る病に侵された少女の物語が「さようなら」だ。この舞台では「死すべきもの=人間」と「そうでないもの=アンドロイド」の交流を通じて短い上演時間の間に私たちが生きてそして死んでいくことを考えさせる。このように言えば通りはいいが、物語自体は正直言ってSFにはよくありがちな設定でしかない。石黒の製作したアンドロイド(ジェミノイドF)は一見驚くほど人間によく似ていて、やりかたによっては短い時間であれば人間と錯誤させることはできそうではあるが、平田はそうはしない。どういうことかというと「さようなら」に出ているアンドロイドは人間として出てくるのではなく、アンドロイドとして登場する。それは病気の少女の父親が娘のさみしさをなぐさめるために買い与えた高価な玩具で、プログラムに従い人となめらかに会話ができ、自分のデータベースから状況に適応するような詩句を自由に選び出して、それを朗読するいう機能が付与されているという設定だ。
 最初、「どのくらいに人間にそっくりなのだろう」と彼女を凝視するが、舞台上のジェミノイドFは実際には人間と区別がつかないというほどではないことに気が付き少しがっかりする。だが、しばらくするとそれは技術的なあるいは演出的な限界というわけではない。必要があればもう少し人間と誤認させるように登場させることも可能なのだろうが、意識的にそうしてないんだろうということが了解されてくる。例えばアンドロイドの声は本体からではなくて少し離れた位置にあるスピーカーから発せられる。また、人間の声質とは少し違う声に設定されている。人間のように見えることが目的であるならば、そう見えるように演出することも十分に可能だろうと思われるが平田はそうしない。ところがわずか15分ほどの芝居ではあるのだが、見ているうちに不思議なことが起こる。機械仕掛けの人形のようであったこのアンドロイドが少女との会話を通じて、まるで実際に意識や内面を持ち人間同様に生きているように見えてくるのだ。
 ここでアンドロイドが生きて意識があるように見えるのは何もそれが人間に似ているからではない。それはここに登場した少女がアンドロイドをあたかも生きていて自分同様に意識のあるように見なして会話を交わしているからだ。その関係性を観客は読み取り、そこに実際にはない意識のようなものを読み取るのだ。 
 平田オリザの演劇を「関係性の演劇」と名付けたのは平田の演劇が現代口語の会話を通じて、登場人物相互の関係性を浮かび上がらせるからで、そこで実際に生きた人間がリアルに存在するように見えるのはその関係性が現実生活において私たちが経験している関係性を反映しているためだ。実際には不可視である登場人物の内面のためではない。つまり、ここでは内面のない俳優から観客が内面や意識を読み取るのと同じ原理をアンドロイドにも使っているわけで、そこでは人間とアンドロイドの間に有意な差異はない。
 実はアンドロイド演劇「三人姉妹」では同じジェミノイドFを起用して、さらに複雑な仕掛けを平田は用意している。平田版「三人姉妹」では三女がアンドロイドの姿で登場する。具体的に示されることはないのだけれど、研究室にいた研究者らの対応などから、物語中で最初は奇異な存在と考えられるこのアンドロイドはどうやらもう亡くなってしまっているらしい三女の似姿として天才科学者であった父親が製作した形見である、というようなことが了解されてくる。これは近未来というような仮定では納得しがたい設定ではあるが、この設定は明らかに手塚治虫の「鉄腕アトム」を下敷きにしたんだろうと思わせる部分があるから、一応納得したような感覚のまま舞台は進行していく。
 実はこの三女が今回お別れにきた研究者とかつて恋愛関係にあって、彼の恩師であった彼女の父親も2人が一緒になることを期待していたというエピソードが出てくるに至り、物語の中段あたりではこの2人の関係の破綻と三女の死がどこかでつながっていて、その謎が後半のどこかで解明はされなくても、暗示されるようなことがあるんじゃないかなどと予想しながら舞台を見ていると私は物語後半に入ったところあたりで見事な背負い投げを食らわされて仰天することになった。これまでアンドロイドの動き・声を担当してきた井上三奈子がこの「三人姉妹」で同様に物語冒頭からそれを担当していたのだけれど、気がついた時にはアンドロイドのいる舞台上に三女として自らも登場し、セリフをしゃべりはじめた。ここで物語設定上いったいなにが起こったのかすぐには分からなかったのだが、実は三女は以前に亡くなったという態を家族以外には装いながら引きこもり状態で生きていて、このアンドロイドはそのための意思疎通のツールとして彼女が普段は操縦しているものだということが判明するのだ。それだけならいわば操り人形のようなもので、アンドロイド=三女ということで済む話なのだ。しかし、物語設定上でも舞台に同時に登場することから、このアンドロイドには自動操縦のような自律モードもあって、途中でアンドロイドが発した父親の同僚学者に対する告発などが果たして三女による意識的な発言だったのかというようなことが取りざたされる。
 だが私はもうひとつ論理階梯(レベル)の違う問題が脳裏をかすめて「どうなのだろう」と頭を悩ませることになった。つまり、舞台の進行中はこのアンドロイドはこれまで通り井上によって操縦されている、いわば文楽の人形のようなものと考えていたのだけれど、途中段階で少なくとも同時に登場している部分は自動操縦(といってもこの場合は物語設定のように自律性があるわけでなく、一度実行された動きが繰り返されるだけだが)に切り替わっているか、井上以外の操縦者が代わって操縦していることになる。「すべてが自動操縦なのかもしれないという可能性を含めて、実際がどうなのかということは見る側には分からない」ということが分かってくるのだ。
 実は平田はその言動において内面再現的な演技法を完全に否定しているように見えて、そうではない。つまり、平田が俳優に求めるのは平田の要求する演技を寸分の違いもなく、再現するスペックの高さであって、その再現性の精度を内面再現型の演技が阻害するようであればそれはいらないということであって、俳優の内面は不可視であるから、あってもなくても区別できない。そしてそれが俳優もロボットやアンドロイドも同じだということなのだ。 
 「現代口語を使う演劇」「群像会話劇」という2つの特徴は平田だけではなく平田の同世代あるいは後継者である「関係性の演劇」の作家らが共通して持つ特徴でもあった。それは1990年代後半には岩松了長谷川孝治弘前劇場)、松田正隆(時空劇場)、長谷基弘(桃唄309)、はせひろいち(ジャブジャブサーキット)ら「関係性の演劇」の作り手が大きな潮流を形成し、2000年代(ゼロ年代)には前田司郎、三浦大輔ポツドール)らも登場し、日本現代演劇の典型的なスタイルとして流布された。ただ、青年団育ちの作家らわずかな例外を除けば、演技を寸分のすきもなく再現するためにデジタル化していくラジカルな演技・演出論をそのまま受け継いだ例はほとんどなかった。
 平田メソッドはむしろ別の形で受け継がれた。青年団とその拠点であるこまばアゴラ劇場はここ数年、前田司郎(五反田団)、柴幸男(ままごと)、松井周(サンプル)と立て続けに岸田戯曲賞受賞作家を輩出した。それ以外にも京都に拠点を移して活動している三浦基(地点)、埼玉県の公立劇場で全国最年少の芸術監督を務める多田淳之介(東京デスロック)、テレビドラマ脚本で向田邦子賞を受賞した岩井秀人(ハイバイ)らの俊英が集まり、いまや若い世代の演劇人にとっての梁山泊的な存在として知られている。
  これらの若手作家の特徴は岩井ら若干の例外を除けば会話劇というより身体表現の要素が強く、群像会話劇の形態をとる平田オリザの演劇スタイルとは似ていないことだ。2010年以降の会話劇系の退潮と身体表現を重視した新たな流れを感じ、「ポストゼロ年代演劇」と名付けてその動向を注目しているのだが、それをリードしているのが会話劇の牙城であるはずの柴ら青年団出身の作家なのが興味深い。その一人で東京デスロックを主宰する演出家の多田淳之介は群像会話劇のスタイルから現在のような身体表現を多用する形式に作風が変化していく経緯として、「青年団で俳優たちがやっている作業はものすごく繊細に身体をコントロールしているという点でほとんど振付だ」とし「あれだけ自分の身体をコントロールしながらセリフを言える人たちはいろんなことができる。そこで相手を見ないでずっと話をするとか、日本語ではない言葉で会話するなどいろんな負荷をかけはじめたのが身体表現的な要素を重視する演劇に向かうひとつのきっかけとなった」と語っている。典型は柴幸男の「わが星」だろう。口ロロ(くちろろ)三浦康嗣のラップ音楽に合わせ、地球の誕生から消滅までの太陽系の歴史がある家族の歴史と重ねあわせたこの舞台は「青年団リンク・ままごと」として初演された。そのため音楽劇ではあるが歌手やミュージカル俳優のように音楽表現を専門としたパフォーマーではなく、主要な役柄を青年団メソッドを経験した俳優が占めた。実は「わが星」のように時間軸の固定した音楽的な構造に動きとセリフを正確に載せていくような技術はデジタル演技である青年団メソッドがもっとも得意とするところなのだ。このように彼らのスタイルには青年団メソッドは大きな役割を果たした。そして、そこにはやはり静かに後進を見守る平田もいたに違いない。