下北沢通信

中西理の下北沢通信

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平田オリザ/初音ミク/ロボット演劇 

 今年(2013年)の5月、テクノロジーと演劇〈舞台芸術)の未来について考えさせる2つの刺激的な舞台が東西で相次ぎ上演された。1つはチェルフィッチュ岡田利規が脚本を担当した渋谷慶一郎初音ミクによるオペラ公演「THE END」で、5月23・24の両日東京・渋谷のBunkamuraオーチャードホールで上演された。それに先立つ5月2〜12日に上演されたのが「銀河鉄道の夜」で、こちらは青年団平田オリザが作演出しロボットと人間の俳優が共演したロボット演劇でJR大阪駅北側「うめきた」の中核施設「ナレッジキャピタル」の4階の新劇場のこけら落とし作品だった。これらの作品には海外からの関心もきわめて高い。「THE END」が11月13、15日にパリのシャトレ座での上演が決まっているほか、平田オリザのロボット演劇も前作の「三人姉妹」がすでに昨年末やはりパリのフェスティバル・ドートンヌで上演され、その後もロボット・アンドロイド演劇は8月に「三人姉妹」が台湾で上演されるほか世界各国・地域からの上演依頼が相次いでいるという。

 平田オリザとロボット演劇について書いてほしいとの注文を「シアターアーツ」編集部から受け、畑違いに思われる初音ミクのオペラのことから書き始めたのにはそれなりの理由がある。昨年末別の雑誌に「平田メソッドは初音ミク!?」という少し風変わりな平田オリザ論を書いた*1なのだが、掲載文字数の制約もあってそこでは初音ミクになぜわざわざ言及したのかについては踏み込んでは書くことはできなかった。それで今回はできるだけ内容がだぶらないようにしながら「平田オリザの演劇」と「ロボット演劇」と「初音ミク(はつね みく)」の関係とこの3者がおりなす問題群についてもう少し考えてみたい。
 「ユリイカ」では初音ミクボーカロイドについてほとんど説明することなく本論に入った。「ユリイカ」という雑誌の性質上わざわざ煩雑な説明はいらないと考えたからだが、ここでは演劇批評の専門誌「シアターアーツ」の主要読者層を考えて簡単な説明をしておこう。
 「初音ミク」は入力した歌詞をコンピューターが歌ってくれる「ボーカロイドVOCALOID)」と呼ばれる音声合成ソフトのキャラクターである。2007年8月31日にクリプトン・フューチャー・メディアから発売されるとその人気によってボーカロイドの代名詞的存在になった。初音ミクのキャラクターはニコニコ動画youtubeなどネットの公開動画サイトにおける2次創作を通じて、バーチャルアイドルとも呼ばれる単なるソフトウエアを超えた存在に成長した。ボーカロイドはボーカル+アンドロイドという造語だが最近では略称としてボカロという呼び方が使われることの方が多い。ボカロの名称は音声合成ソフトそれ自体だけではなくそのソフトを用いて制作された音楽ジャンルの総称としても使用され、大きな人気を得るようになっている。
 「初音ミク」のもとになった音声合成技術はヤマハが開発したものだが、その基礎を支えるのがMIDI(ミディ)という電子楽器の世界共通規格である。電子楽器の音の「高さ」「大きさ」「長さ」を数値化(デジタル化)した規格だ。この規格にはいまや世界中の楽器やコンピューターが対応しており、通信カラオケ、携帯電話の着信音、動画の制御、舞台関係ではコンサートの照明などにもMIDIの技術が使われている。昨年末にはローランド創業者の梯郁太郎氏が世界共通規格であるMIDI制定に尽力したとして、米グラミー賞のテクニカル賞を受賞している。
 ヤマハも80年代にMIDI対応の弦楽器、管楽器、打楽器などを次々と発表、90年代にはパソコンで曲を作るDTM(デスクトップミュージック)が世界的に大流行、ヤマハもソフトや機器を相次ぎ発売し、そのブームの一翼を担うが、初音ミクもこうした技術の延長線上から生まれてきたもので、楽器だけではなくて、そこだけは人間の牙城であった歌までも「デジタル楽器化」してしまおうというものだと言ってもいい。ここにおいてMIDI規格の目指してきた「音楽のデジタル化」という流れは最終局面を迎えたといってもいいかもしれない。
 ここでもう一度平田オリザに話を戻そう。MIDI規格が「音楽のデジタル化」だとすれば平田オリザが俳優の演技に求めてきたのは「演技のデジタル化」かもしれない。平田の演出風景を撮影して紹介したドキュメンタリー「演劇1」に役に感情移入して「入り込んで」しまう女優にセリフの「間」「強さ」「調子(ニュアンス)」についての細かいダメ出しを何度も何度も執拗に繰り返す場面が出てくる。映画で紹介された演出風景で興味深いのはノートパソコンの台本と役者の演技を同時に見ながら、平田が右手で机を軽くタップするようにリズムを取っている姿だった。それは私には楽譜を見ながら指揮棒を振るオーケストラの指揮者を連想させたと前回の論考で書いた。こうした独自の演出法、演技法はなにもロボット演劇との出会いから生まれたものではなく、少なくとも私が平田の演劇と出合った1990年代半ばにはすでに方法論として確立していた。
 当時平田がよく言っていた「俳優に内面はいらない」「俳優はコマである」「俳優はロボットである」という発言はその「非人間性」などをあげつらわれ演劇界では反発を買っていたが、当時、あるいは現在でもいまだ主流として流布している役を演じるには役の内面をまず感じなければいけないというようなスタニフラフスキーシステム、あるいはその派生物としてのメソッド演技が主張した*2内面再現的な演技法に対して、否を言い募るための挑発的コピーの側面もあった。実際にはその演技がどのうように生み出されたものだったとしてもセリフの「間」「強さ」「ニュアンス」が演出的要求と一致している限りは関知しないという意味で「演技のデジタル化」とは演技を外部から観測可能な要素に還元し、分からない内面については問わないというのが平田演出だ。旧来のメソッド演技的な演技法と「平田オリザの演劇」の関係はちょうど音楽における実際の楽器の演奏とMIDIデータを入力しての打ち込み音源の制作の関係になぞらえることができる。
 冒頭に挙げた「平田オリザの演劇」と「ロボット演劇」と「初音ミク」はいずれも「デジタル化」志向と関係がある。音楽ではある種の音楽ジャンルにおいてはパソコンに入力されたMIDIデータがあれば演奏者、あるいは場合によっては初音ミクに代表されるボーカロイドの出現で歌手さえもいらないのがむしろ普通のこととなっていて、演奏者もそういう状況を嘆くことはあっても反発することもあまり聞かない。まあ、音楽の場合は例えばアコースティックな楽器で生声で歌っている人とボカロの音楽ではあまりに違いすぎるために最初から同じジャンルとは考えていない可能性もあるのだが、音楽のことを考えると平田の「役者=ロボット発言」はそれほど突飛なことを主張しているわけでもないことがうなずけるのにそれが演劇界では一部に激しい反発を受けたということは興味深い。
 そうなると次にその「演技のデジタル化」の究極の姿を実現したのがロボット・アンドロイド演劇であるという風に考えがちであるが、実は話はそれほど単純ではない。現状ではなく将来のありうる姿としてなら「そうである」といえるかもしれないが、少なくとも特にアンドロイド演劇においては今のところまだそうではない。
 アンドロイド演劇、ロボット演劇というとアンドロイドやロボットがあたかも人間のように演技する演劇だというように想像する人が多いかもしれない。しかし、平田の演劇ではそうではない。平田の作品では人間が人間を演じるのと同じようにアンドロイドはアンドロイドを演じ、ロボットはロボットを演じることになる。

青年団大阪大学「働く私」

  そのことがもっとも典型的に表れているのが「ロボットらしいロボット」が登場して、2人の俳優と共演する「働く私」という作品だ。2体のロボット(タケオとモモコ)と一緒に暮らす若い夫婦。モモコは料理などの家事を行なうが、もう1体のタケオは働く意欲を失い自分の存在理由に悩んでいた。ある日の夕方、夕食の時間をはさんだなにげない日常の中で、働かない夫と働けなくなったロボット(タケオ)、その夫に対して苛立ちを隠せない妻。そして、2人と1体全体に気配りをするモモコを描いている。ここに登場するのはwakamaru(わかまる)といういかにもロボットというとすぐ想像するような形態である。このロボットは与えられたプログラム通りに動き、そしてセリフを発するいわば自動人形のようなもので、もちろん、現実のロボットは人間と同じように考えたり、演じたりするだけの高度な機能はないのだけれど、それが舞台という空間で平田の描いた「デジタルデザイン」の通りにプログラミングして動き出した時にあたかもそれが自分の意思でもって自律的に動いている高度なロボットのように感じられる。それは平田がこれまで提唱してきた「演技に内面はいらない」という「演技のデジタル化」が実際の舞台で実証されたという演劇としての実験というような意味があった。
 平田オリザと組んでこのロボット演劇の実験に取り組んでいるもうひとりの世界的な才能が大阪大学石黒浩教授。この人も2007年に英国のコンサルタント会社主催の「生きている世界の天才100人」にも選ばれた日本のロボット研究の第一人者。この人の最近の研究テーマのひとつにロボットはどのようにふるまった時に人の目に人間みたいに映るかというのがあって、平田との共同プロジェクトはそうした主題の研究の一環でもあるわけだ。
 この「働く私」はロボットが家事支援の役割を担い家庭に入り込んだ様子を描き、そこでロボットの存在がどのように当たり前のものとして受容されるのかという未来のイメージを描写してみせた。
 ただロボット演劇というとなにか新しいもののように感じるが、人間とは異なる形態のロボットにさえ内面を投影できるという人間の能力というのはなにも新しいものではなくて、演劇周辺では仮面劇のような古典演劇、そしていわゆる人形劇を我々が見るときにごく普通に発揮されてきたものだった。さらに言えばアニメや漫画に実写と同じようなリアリティーを感じ取ることができるのはこの表象能力があるからこそであり、ロボットの演劇もその延長線上にある。そして、それは我々がバーチャルな存在である初音ミクにリアルさを感じ取るのもこの同じ表象能力によるものであるということがいえるかもしれない。
 ただ、実はアンドロイド演劇にはもうひとつ別の問題がある。それはロボットやアニメのような人間の似姿が人間をシュミレートしていく時に起こる人間のロボットに対する感情的反応についてのもので、ロボットがその外観や動作において、より人間らしく作られるようになるにつれ、より好感的、共感的になっていくが、ある時点で突然強い嫌悪感に変わる。そして、人間の外観や動作と見分けがつかなくなると再びより強い好感に転じ、人間と同じような親近感を覚えるようになるというロボット工学の世界では「不気味の谷」として知られる現象だ。「不気味の谷」現象は1970年代に当時のロボットの権威であった森政弘・東京工業大学名誉教授が提唱した仮説であり、科学的に証明された学説ではないため、学会内にもこれを疑う声も出ているが、ロボット演劇を担うテクノロジ—側の主導者である石黒浩大阪大学教授がこれを強く意識しているように人間型のロボットの製作者の間ではそういう現象が存在するというのは半ば常識化している。
 そして、さらにいえば近年、CGの技術が進歩して実写と見分けがつきにくいようなものまでは割と簡単に製作が可能になってきたことでアニメ製作の現場ではこの「不気味の谷」をいかにして回避するかというのがキャラクター設定の上での重要な課題となってきている。平田オリザ石黒浩研究室によるアンドロイド演劇「さようなら」はこの不気味な谷現象に対し微妙な戦略をとった。それはひとつにはジェミノイドFと呼ばれるこの作品に登場するアンドロイドが工学的にいうときわめて精緻に実際の人間に似せて作られていて、遠目ややや暗い場所で見たらほとんど実際の人間と見誤るような高度な技術的製作物であるということ。そして、ここからが演劇の戦略としてもっと重要なのだが、それにも拘わらず平田はこのアンドロイドに人間を演じさせるのではなくて、アンドロイドはアンドロイドとして舞台上に登場するということだ。
 アンドロイド演劇「さようなら」は死に至る病に侵され死期が近い少女と彼女に詩を読むアンドロイドの物語だ。「死すべきもの=人間」と「そうでないもの=アンドロイド」の交流を通じて私たちが生きてそして死んでいくことを考えさせる。アンドロイド(ジェミノイドF)は一見驚くほど人間によく似ていて、やりかたによっては短い時間であれば人間と錯誤させることはできそうではあるが、平田はそうはしない。アンドロイドは病気の少女の父親が娘のさみしさをなぐさめるために買い与えた高価な玩具で、プログラムに従い人となめらかに会話ができ、データベースから状況に適応するような詩句を自由に選び出して、それを朗読するいう機能が付与されている。
 観客はアンドロイド演劇とはどんなものかと最初「どのくらいに人間にそっくりなのだろう」と彼女を凝視する。しかし、舞台上のジェミノイドFは実際には人間と区別がつかないというほどではないことに気が付き少しがっかりするかもしれない。だが、しばらくするとそれは技術的なあるいは演出的な限界というわけではなくて、意識的にそうしてないんだろうということが了解されてくる。例えば声はアンドロイドの本体からではなくて少し離れた位置にあるスピーカーから発せられる。また、人間の声質とは少し違う声に設定されている。人間のように見えることが目的であるならば、そう見えるように演出することも十分に可能だろうと思われるが平田はそうしない。ところがわずか15分ほどの芝居ではあるのだが、見ているうちに不思議なことが起こる。機械仕掛けの人形のようであったこのアンドロイドが少女との会話を通じて、まるで実際に意識や内面を持ち人間同様に生きているかのように見えてくるのだ。
 ここでアンドロイドが生きて意識があるように見えるのは何もそれが人間に似ているからではない。それはここに登場した少女がアンドロイドをあたかも生きていて自分同様に意識のあるように見なして会話を交わしているからだ。その関係性を観客は読み取り、そこに実際にはない意識のようなものを読み取るのだ。  
 実は「不気味の谷」に対して初音ミクは別の戦略を取ってきた。それはあえて人間には似せないという戦略だ。元々音声合成ソフトであるボーカロイドとはまったく発想の元が異なるが、ヴァーチャルアイドルとも称されることのある初音ミクにはCGで製作された伊達杏子があった。ホリプロ所属のアイドルとして1996年にデビューししばらく活動したものの初音ミクのような人気を得ることができなかったことには当時のCGの技術的限界とかいろんな要素があったとは思うが、そのひとつにこの「不気味の谷」があったのではないかと思う。
 これはあくまでアニメ的なキャラをとったビジュアル面の話だが、興味深いのは批評家の佐々木敦が「THE END」のパンフでの渋谷慶一郎との対談のなかで「初音ミクと人間の声を両極において、人間の声を機械の方へ、機械の声を人間の方に近づけていくと、どちらもいわゆる『不気味の谷』に突入するわけですよ。その人間と機械のギリギリのあわいの部分、微調整なところがクリティカルだと思う」と語っていること。本丸である音声の部分でも音声合成技術だけからいえばもっと人間の肉声に似せることもできたはずだが、同じ加工素材としての音源でもアニメ俳優の声を採用したように「不気味の谷」の回避に細心の注意をした様子がうかがえる。
 さて、冒頭で平田の「デジタル演技」メソッドはデジタル情報として記述可能な記号に還元可能な方法論として初音ミクと同型だと書いた。だが、今回上演された「THE END」はアンドロイド演劇「さようなら」とはかなり異なる印象がある。これは当たり前のことのようで不思議なことでもある。というのは今回この文章を執筆するに際して今まであまり比較したことがないこの2つの舞台を比べてみて、その外観の違いにもかかわらず意外と共通点が多いことに驚いたからだ。一つ目はどちらも「死とは何か」ということを大きなモチーフとしていること。もうひとつは登場人物がどちらも1対で主人公(人間/初音ミク)と相手(アンドロイド/誰か分からない誰か)との対話体という形式で描かれていることだ。
 これらの一致点にもかかわらず観劇後の印象はまったく違うのはなぜか。そこから逆説的に平田演劇の特徴が浮かび上がる。平田の演劇は例え人間とアンドロイドがそれぞれ1人、1体ずつしか登場しない「さようなら」でもその様式は現代口語演劇であってその対話の構造を通じて浮かび上がってくるのは関係性だ。そして、前にも書いたようにそこから観客は場合のよってはアンドロイドに意識があるんじゃないかとさえ感じ、そこには独白的な印象は薄い。
 これに対して、オペラ「THE END」は初音ミクが対象がよく分からない誰かに語りかける形式をとっているが、従来のオペラの主要素とされているアリア、レチタティーボ、悲劇的な物語からなる。舞台上に演奏者はいるもののヴァーチャルキャラクターである初音ミクを除いた生身の人間はいないため、これを演劇というには若干の躊躇があるが、最終的に至高の高揚を見せるのが目的でそれをより効果的に見せるにはその前に唄わない(踊らない)セリフ・演技による状況や関係の説明(レチタティーヴォ)がどうしても必要だというオペラという形式の伝統的な手順を踏んで作られていて、そういう意味ではオペラというのにふさわしい作品として作られていた。
 さて、ここまで初音ミク、ロボット演劇、平田オリザの関係について考えてきたが、ここに来てまだ未踏の領域が可能性として残っていることに気が付いた。この場合、初音ミクという固有のソフトがその能力上のスペックをどこまで持っているかというのが分からないので何とも言えないが、ボーカロイドがデジタル音源により人間の声をシュミレートする能力を持っている限りで、平田オリザによる初音ミク劇というのをぜひいつか見てみたい。「THE END」についての最大の不満がアリアではないレチタティーボ的な表現における初音ミクのセリフ回しに対して演出が不在であることが感じられたからだ。そういう点に対する演出不在が感じられた。よくできていたと思われたアリア的表現と比べると「不気味の谷」とまではいえなくても、口語的会話部分でのミクは明らかに不自然で、ここには平田の「デジタル演技論」の活躍の場が十分にあるのではないかと思ったからだ。 
    
 

*1:ユリイカ 2013年1月号』平田メソッドは初音ミク!? 「関係性の演劇」から「ロボット演劇」へ

*2:あるいは少なくともそうだと思われている