下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

2000年6月下北沢通信日記風雑記帳

 6月30日 今週末の予定。土曜日7月1日は新国立劇場バレエ「ラ・シルフィード/テーマとバリエーション」(3時〜)、阿部一徳と(ゆかいな)仲間たち「Knob」(7時半〜)。日曜日2日は西田シャトナープロデュース「熱闘!!飛龍小学校パワード」(1時〜)、ラッパ屋「ヒゲとボイン」(6時〜)を観劇の予定。

 6月29日 過去の日記を見直してみたら今の時期、一昨年はW杯、昨年はコパアメリカでのサッカー日本代表の敗北にぼう然としていたことが分かった。今年はといえば日本代表は関係ないながら以前からそのプレースタイルが好きで今回のEURO2000でも応援していたオランダ代表がPKを2本はずしたうえに1人少ないイタリアから1点も奪えず負けてしまった。ユーゴから6点取ったあの攻撃力はどうしてしまったというのだろうか。といっても、PKを2本もはずせば普通は負けるか……。決定力のないのは日本代表だけじゃないのである。(笑い)でも、おそらく、オランダは日本代表が相手ならおそらく最低でも4点以上は取っていそうな気がするけれど。それにしてもイタリアの悪運の強さには唖然とするばかり。イタリアペースとの説もあるけどいくらなんでも2回もPKを取られるような試合をイタリアのペースとするのは無理があると思う。

 6月28日 イデビアン・クルー井手茂太さんのワークショップが開かれるというお知らせをメールでいただいたのでここに転載します。私は仕事で行けそうにありませんがきっと刺激的だと思いますので興味のある人はぜひ参加してみては。

 
IDE5days Workshop

SHIGEHIRO IDE
イデビアン・クルーの主催、
井手茂太によるワークショップ

単純に音楽にのって体を
動かすことから始めます。
ダンスっぽい動きではなく、
普段何気なくやってる仕草を
ムーブメントの一つとして、
おもしろおかしくかっこよく(?)
展開していきたいと思います。
ダンステクニックの向上ではなく、
自分自身のおもしろい動きなどを
発見して頂くことが目的です。
又、5日間でイデビアン
上演作品にも見られるようなシーンを
創ろうと思っています。
気軽に参加してください。
井手茂太(いで しげひろ)

【期間】2000年8月1日(火)〜5日(土)

【場所】森下スタジオ(東京都江東区森下3-5-6)
    昼コース(全5回)15:00〜17:00
    夜コース(全5回)19:00〜21:00

【定員】各コース20名

【対象】高校生以上で5日間連続して参加できる方。
    ダンス経験の有無は問いません。

【参加費】5日間13,000円(税込)

【お申し込み方法】
7月25日(火)までに電話かFAXで
下記の番号にお申し込み下さい。
FAXでお申し込みの方は、
お名前、住所、電話番号、
ご希望のコース(昼か夜)を
ご記入の上送信して下さい。
尚、受付後に振込先、会場地図などの
詳細をお送り致します。
        
【お申し込み・お問い合せ】
(有)ビューネ イデビアン制作事務室 
東京都小平市津田町1-8-11
tel/fax042-344-7449

井手茂太プロフィール
1991年にダンスカンパニー、イデビアン・クルーを結成。全作品の振付を担当。
95年旗揚げ公演「イデビアン」を上演。同年ドイツのフェスティバルで
観客賞一位を獲得。以降、国内外で公演活動を続けている。また、他カンパニー、
劇団などの振付も担当している。

 

 6月27日 遅ればせながらガーディアンガーデン演劇フェスの感想を書くことにする。

鉄割アルバトロスケット(寸劇〜踊り・パフォーマンス・演芸〜・東京)97年4月に旗揚げ。小さな寄席で自主公演を行うほか、路上やライブハウス、クラブなどでもライブを行い、また他の劇団やバンドとの共演なども精力的に行っている。

★ ショートコントをいくつかやったのだが、コントとしては凡庸のひと事。残念ながらこの日の演目からは少しの新味を感じることはできなかった。

●Ms. NO TONE(無記入・東京)

代表者の平松れい子は劇団SET退団後、98年にプロデュースユニットMs.NO TONE を結成。次回作は三島由紀夫の「音楽」を劇化するという。

★  劇団SETとか三島由紀夫の「音楽」とかいうのが出てきた時点でこのフェスではちょっと厳しいかも。よほど、様式的に洗練されていて完成度が高いものなら別だがと予想で書いたのだけどまさにその通り。後半のダンスないしパフォーマンス的な演技にそれだけで見せてしまうという身体表現の凄みが感じられない。

●A.C.O.A.(演劇・東京)

代表者の鈴木史朗は法政大学で演劇活動を行う。SCOT、SPACを経て、98年12月に A.C.O.A.結成。語り手と演技者を分けるという手法をとる。

★ SCOTの若手によるスズキメソッド試演会としか見えず。方法論に対して意識が低いのが身体系の表現としては致命的。表現としても新味が感じられなかった。

●マダム ゴールド デュオ(パフォーマンス・東京)

鈴木規純と森雅紀が始めた「フルネルソン」から改名して2000年3月「マダムゴールド・デュオ」となる。今回は「お葬式」という場面でのショートコント集を考えている。

★ 「お葬式」とは何の関係もなく、帰宅部ということで押しきったワンシチュエーションのコントであった。コントとしては最初に見た鉄割アルバトロスケットよりも安心して笑える安定感は感じるけれど、その分、予定調和という感も否めない。ここまでの前半の劇団の中ではましな方ともいえるが、かといって笑いのセンスにおいてオリジナリティーの高さがあるかというとそれもいまひとつではないか。

●劇団劇団(音楽劇・東京)

97年2月の旗揚げ後コンスタントに活動を続けている。おもしろおかしい歌と踊りのオンパレード、凝りに凝った装置、などが持ち味。

★ うーん。思わず困ってしまった。音楽劇というのでロリータ男爵やゴキブリコンビナートを期待していたのもアホだったのだが、いきなりネズミと猫のメイクをした人たちにでてこられてなんとかだニャーとかやられてもなあ……。

●bird's eye view(演劇・東京)

95年に内藤達也が柏原直人らと共に「鳥瞰図しばらく」を結成。また二人とも双数姉妹にも役者として活躍するかたわら98年から「bird'seye view」として活動している。

★ 俳優たちがよく訓練されていること、アンサンブルに乱れがないこと、安心して楽しめるということではこの日登場した劇団の中では一番であろう。最初は中心の人物を囲んで周囲の人物が咬みあわない会話を繰り返すというネタ、その後はケチャ風のアカペラを全員で。いずれもそれなりに見せるし、舞台の水準だけを評価すればこの日のピカイチだけれど、問題はなんだか似たようなのを双数姉妹や早稲田の劇研系の劇団の公演で見たことがあるぞという点である。

 気になるのはこの集団が短いシーンをいくつも見せて、それぞれシーンとして楽しませたうえで、そこから俯瞰してある種の構造を浮かび上がらせていくという手法を標榜してそれをフォトプレイと名付けている点である。こうした手法そのものは上海太郎が得意としているところだが、表現手法としてはうまく使えば、例え部材としてのシーンは似ていても双数姉妹などとは全く異なる表現対象を表現することが可能となるかもしれない。それは2つの場面を無関係に並べただけのこの日のプレゼンではよく分からないのでそこを確認するためにも一度、本公演を見たいとは感じさせられた。

●Rel-ay(時代劇ミステリー・東京)

代表者の小宮健は分子進化工学、進化心理学の研究者という変わり種。登場人物同士のやりとりを心情描写をテクストとして映写しながら「笑い」というかたちでみせていく。

★ この日見た劇団の中では可能性を感じさせた劇団である。上演されたのは横溝正史のパロディーのようなものでそれはそれなりに面白いのだが、一番、気になったのはどこかぎごちないテンポのずれかたとそれが生みだす奇妙な間のおかしさなのである。もっともそれがどこまで確信犯なのかがよく分からない。ひょっとしたらただ単に下手なだけなのかもしれない(笑い)。ただ、作演出の小宮健という人がどことなく狂気を感じさせることも確かでそこにひょっとしたらオオバケするかもしれないという可能性は感じて、唯一、ガーディアンガーデン演劇フェスに通らなくても次回公演を見に行きたいと感じさせたのだった。

●危婦人(演劇・東京)

96年文化女子大演劇部卒業生ユニットとして結成。その後個人個人の活動をしていたが、98年4月に再結成。代表者のスギ タクミはカムカムミニキーナの衣装も担当していた。

★ ここもなんともいえないなあ。こういうスタイルの芝居をいまだにやっているというのは私なんかにはちょっと理解に苦しむところがあるのだけれど……。

●トイキノモト(演劇・東京)

太田希望と小宮晶とが96年に結成。以後5回の公演を重ねる。今年6月には初のプロデュース、オムニバス作品を発表する予定。

★ 群像会話劇なのだけどあまりにもとりとめがないというか特徴が希薄すぎる。ひょっとしたら全編を見たらそれなりに面白いのかもしれないのだが、このプレゼンだけを見る限りではreset-Nやポかリン記憶舎と比較してこの集団ならでは個性というのが感じられない。

●劇団衛星(演劇・京都)

95年に旗揚げ。代表者の蓮行は「小梅ちゃん俳句大賞」にて最優秀作品に選ばれる。 4作品連続公演、上演時間も6時間を超える公演に挑戦したいという。

★ ここが以前から関西での評判を聞いていて気になっていたのだけれど少なくともプレゼンは完全に失敗だったのではないだろうか。東京に来てスケジュールが空いていればまた別だが、このフェスを見る限りベタ系の笑いで押しまくる関西系の劇団でしかない印象で、おそらくこの劇団を見にだけの目的で関西に行くことはもはやない。

 前にも書いたが今年のガーディアンガーデン演劇フェス公開選考会はこれまで見たなかでも全体のレベルに厳しいものがあった。私の琴線にかろうじて触れたのはRel-ayぐらいで、あとbird's eye viewは双数姉妹との違いを確認するために一度は本公演を見てもいいかなという程度。

 結局、審査員による選考では鉄割アルバトロスケット、マダム ゴールド デュオ、bird's eye viewの3劇団で私が唯一見たかったRel-ayは落ちてしまった。このフェスの最終選考会は例年、本編よりも面白かったのに今年は桃唄309観劇のため中座せざるをえずいかなる論議があったのか分からないのが残念なのだが、来年もこんな水準だとすればちょっと厳しいかなと思ってしまった。それにつけても死んだ子の年を数えるようなものだが、むっちりみえっぱりに出てきてほしかった。

 6月26日 最大のネックであったアビニョンのホテル(7月14日夜〜19日朝)が予約出来たので、予定通り7月 12日から20日まで夏休みを使って、パリ、アビニョン観劇ツアーに出かけることができそうだ。MATOMA、イデビアン・クルーなどの目的があった過去2回のアビニョン行きとは異なり、今回は特に行く前にこれといった目的の舞台はなかったのだが、ニブロールが7月18日〜30日の予定でアビニョンオフに参加するため、先日見た「東京第二市営プール」をもう一度、アビニョンで見られそうなのは収穫か。

 パリのホテルが取れたらスケジュール滞在先などを掲載する予定なので、万一、ほぼ同じようなスケジュールでアビニョンに行く人がいればメールしてほしい。といってもそんな人はいないか(笑い)。

 6月25日 ガーディアンガーデン演劇フェスティバル公開2次審査会を見る。個別のい劇団に触れた詳しい感想は後ほど書くつもりだが、全体的にはっとさせるほどの可能性を感じさせる劇団が見当たらなかったのは残念である。結局、審査員による最終審査の途中で桃唄309の芝居を見るために会場を抜け出さざるをえなかったので、残念ながらどの劇団がフェス参加することになったにかが不明であるのだが、私自身が選びたいという気にさせられたのは今回のプレゼンに関する限りではREL-AYとBIRD'S EYE VIEWの2劇団のみだった。そのうちBIRD'S EYE VIEWについては上演されたシーンの質の高さでは確かにピカイチで今日の参加劇団のレベルの中では選ばれるべき劇団だとは思われたものの一方ではこれじゃ双数姉妹とどう違うのかという疑念は最後まで頭の中から消え去らないままであった。

 REL-AYについてはミステリ劇のパロディーとしては結構よくできているのだが、それよりも計算されているのか、それとも稽古不足でああなかってしまったのかよく分からないのだが、結果的に舞台でそうなっていたどうにもちぐはぐなかみあわない妙な間のずれかたが私にはとても面白かったのだが、意図したものなのかどうか分からないこの奇妙な魅力を確かめてみるためにガーディアンガーデンに通ってもそうでなくてももう一度見てみたいという気にはさせられた。

 それにしてもつくづくも残念なのはむっちりみえっぱりの不参加。今日のレベルだったら断トツで通ったと思われるのに……。あるいは今回はダンスはひとつも入っていなかったのだが、ニブロールやCRUSTACEAが出てれば今回のレベルだったら最終3劇団に残った可能性が大きかったのにと思うとどうにも残念ではあったのである。

 桃唄309「K病院の引っ越し」を観劇。 

 6月24日 ニブロール「東京第二市営プール」(8時〜)を観劇。初めて見たダンスカンパニーだが、以前から気になっていたのに加え、最近そこここから面白いという評判を聞くものだから、ぜひ見たいと思っていたのがやっと見ることができた。ダンスとしてムーブメントなどでそれほどざん新さがあるわけではない。ダンサーのテクニックもそれほど高いレベルとは思えない。ところが、それでも生半加なダンス作品よりは面白く見られるのは構成・振付のセンスのよさであろう。基本的に群舞というよりは1対1とか1対2とかの関係性を見せていく振付で、その1対1的な関係というのも固定されたものではなく次から次へと移ろっていくところの目先の変え方がいかにも現代の東京を象徴したような独特の浮遊感を醸し出していく。その辺りに単なるヨーロッパのコンテンポラリーダンスのコピーではないオリジナリティーを感じさせられたのである。

 6月22日 おわびと訂正を。スコアレスドローという情けない試合に終始したライバルチーム(スウェーデンスロベニア)のおかげでユーゴは決勝トーナメントに進出してしまいました。まずはめでたい。次の試合はフランスワールドカップでも対戦しミヤトビッチの痛恨のPK失敗で敗れてしまったオランダとの再戦です。地元オランダは相手をするのにきついチームであることは間違いないですが、とにかく面白いゲームにはなりそうです。

 折原一の超絶技巧ミステリ「遭難者」を読了。山岳遭難者の追悼文集がいつのまにか謎解きミステリに化けていくという作者の趣向の巧さに脱帽である。スタイル的な制約が大きい分、ミステリのネタ的には若干小粒なところがあるのは否めないけれどこのスタイルでの出版を考えた作者とさらにはそれを文庫で出そうという角川書店の大胆さもそれぞれ拍手ものだったのじゃないかと思う。 

 6月21日 サッカー欧州選手権、ユーゴVSスペインをテレビ観戦。応援していたユーゴが負けてしまった。それにしても凄い試合。ロスタイムからの2点で逆転を食らうとは……。ひとり退場していたとはいえ、引き分ければいいユーゴはほとんど決勝トーナメント進出を手中にしていたというのに。前日のイングランドのロスタイムでのPKからの敗退といいこれが世界レベルの闘いである。とりあえず、この試合を見ただけでも WOWOWに加入した元は取れたといえるだろう。途中交替したストイコビッチの無念を思うとユーゴの敗退には相当がっくりきているのだけれど、日本代表が出てない試合なんで、割と冷静に見ていることができる。

 伝言板で「で…、日記にあった「唐十郎うんぬん」ってのはどういうことなんでしょうか?大人計画唐十郎が、どんな風に結びつくのでしょうか?よろしかったら、教えてください」との問いあわせがあったのでこのことについてもう少し補足を。私は以前から60年代以降から現在までの日本現代演劇には大きく分けて2つの系譜があると考えていてひとつが別役実からはじまり伏流水のように 90年代において次々と新たな劇作家を生みだした「関係性の演劇」の系譜。そして、もうひとつが初期にはいわゆるアングラ演劇として分類された「身体性の演劇」の系譜。これはいずれも私が考えたタームなので一般用語ではないわけですが、大きく分けてこの2つの流れがあると考えているわけです。

 さて、一般にはいわゆるアングラ演劇の歴史的な系譜ということでいえば60年代後半には状況劇場唐十郎)、黒テント、早稲田小劇場といった老舗劇団から転位・21、流山児事務所、そして90年代以降でいえば燐光群新宿梁山泊などというところがアングラ演劇の系譜として見られるところなのですが、私は「静かな演劇」同様に「アングラ」という言葉も意味のある定義が難しいジャーナリズム用語であって、批評用語にはなじまない言葉だと考え、その代わりに「身体性の演劇」というのを提唱しているわけです。「関係性」や戯曲の再現などということも超えて、舞台上における俳優のテキストを越えた身体的な表出、等身大を超えた現前を表現の中心としているというのが「身体性の演劇」の特色で、通常はアングラ演劇とはかなり様式が違うので、普通はそういうものの後継とは思われていないのだけれど90年代日本現代演劇において「身体性の演劇」の系譜を代表する劇団としてはク・ナウカと並んで大人計画がそうじゃないかと思っているわけです。

 ク・ナウカの場合はその演劇の様式はかなり違うのだけれどやはり方法論と俳優との関係は早稲田小劇場(SCOT)に範を取っていると思わせるところがあり宮城聰/美加理の関係にはかつての、鈴木忠志白石加代子の関係を思わせるところがあり、話は分かりやすいのだけれど大人計画の場合はこれまで笑い系を代表する劇団としてナイロン100℃などと並べ称せられてきたということもあってピンとこないかもしれないけど唐自身を含め大久保鷹ら奇優、怪優を擁し、なにかの役を演じるということを超えてその存在そのものが「特権的な肉体」として舞台上に存在しうる演劇を標榜したかつての状況劇場に近い要素が大人計画にはあるんじゃないかと考えているわけです。だから、より正確に言えば「大人計画のことは以前からアングラ演劇における唐十郎の路線「特権的な肉体による演劇」を正統に受け継ぐのは新宿梁山泊でも南河内万歳一座でもなく、大人計画ではないかと思っていたのだが、今回の芝居を見てますますその感を強くした」と書いたのだけれど、唐十郎の路線というところは唐十郎の率いた状況劇場の路線と書くべきところだったかもしれない。

 さて、新宿梁山泊はもともと状況劇場の若手ら独立して旗揚げした劇団だし、南河内万歳一座内藤裕敬がその劇作において唐十郎の影響を強く受けていることは間違いない。そして、これらの劇団はいまだに友好関係になるので、一般的には唐十郎の直系の弟子筋にあたる後継者と考えられている。それと比べると大人計画状況劇場は本当になんのつながりもないし、いわゆるアングラ的という演技を大人計画の俳優らが演じることはないのだけど、井口昇松尾スズキ自身らに代表される怪優を抱え、それ以外の人には演じることが不可能な存在を舞台上に現前させるという意味で、かつての状況劇場による「特権的な肉体による演劇」のエッセンスのようなものをもっとも濃厚に感じさせるのは新宿梁山泊ではなくて大人計画の方だということが言いたかったわけです。  

 6月20日 今週末は土曜日が出社だが早めに仕事が終われば、ニブロール「東京第一市営プール」(8時〜)を見にいく予定。今週は動物電気とかCAB DRIVERとか本来なら見に行きたい公演は重なっているのだけど、日曜日はガーディアンガーデン演劇フェスの公開最終選考会(2時〜6時)の後、桃唄 309「K病院の引っ越し」(7時〜)を見に行かなけりゃならないので、どうにもならない。



 さて、むっちりみえっぱりが出ないことで個人的にはかなりモチベーションが落ちてしまった感のあるガーディアンガーデン演劇フェスだが、ここではえんげきのページでの情報をもとに見る前からいい加減な予想を。出演劇団の皆さん、不愉快だと思われるかもしれませんが、このフェスティバルに出るということはそういうことなんだと思ってあきらめてください。なお以下の文章はプロフィールがえんぺからの引用でその後に私の勝手なコメントをつけてます。見る前に予想するしかも、今回の出演劇団はいずれも未見なんで、コメントに根拠はありません。ただ、こうした大胆なことをあえてやろうというのはこれも含めて楽しもうということで、一種の提案だと思って許してください。もちろん、昨年同様、見た後での私の感想も書くつもりなのでそれぞれの劇団について意味のいあることを知りたい人はそちらの方を。

■ GG演劇フェス公開二次審査、出場劇団プロフィール

鉄割アルバトロスケット(寸劇〜踊り・パフォーマンス・演芸〜・東京)97年4月に旗揚げ。小さな寄席で自主公演を行うほか、路上やライブハウス、クラブなどでもライブを行い、また他の劇団やバンドとの共演なども精力的に行っている。

★ 名前は以前にちょっと聞いたことはあるような気がするが、寸劇〜踊り・パフォーマンス・演芸〜というジャンルがすでになんとなく志の低さを感じさせてしまう。寄席でやってるということは芸人系なのか?よほど作演出のセンスがいいということがないとちょっと厳しいかも。

●Ms. NO TONE(無記入・東京)

代表者の平松れい子は劇団SET退団後、98年にプロデュースユニットMs.NO TONE を結成。次回作は三島由紀夫の「音楽」を劇化するという。

★ 劇団SETとか三島由紀夫の「音楽」とかいうのが出てきた時点でこのフェスではちょっと厳しいかも。よほど、様式的に洗練されていて完成度が高いものなら別だが

●A.C.O.A.(演劇・東京)

代表者の鈴木史朗は法政大学で演劇活動を行う。SCOT、SPACを経て、98年12月に A.C.O.A.結成。語り手と演技者を分けるという手法をとる。

★ 語り手と演技者を分けるという手法をとる……。うーん、それってク・ナウカじゃないと思わずつっこみを入れたくなりますね。もし、身体表現を主体とするような演劇だとすればよほど演技者の身体訓練がしっかりしてないと見るに絶えないものになりかえない。これでク・ナウカともSCOTとも全然違うもので完成度がある程度あるものなら大したものなのだが……。

      ●マダム ゴールド デュオ(パフォーマンス・東京)

鈴木規純と森雅紀が始めた「フルネルソン」から改名して2000年3月「マダムゴールド・デュオ」となる。今回は「お葬式」という場面でのショートコント集を考えている。

★ ウニタモミイチ氏注目との噂もあるマダム ゴールド デュオ。ただ、私の知る限り実際に見た人でほめているのは彼ひとりというのが本当に面白いのかどうか気になるところ。なお、以前にも同じ名前の集団がこのフェスに出てるけどそれとは違う集団とのこと。なんかややこやしい。

●劇団劇団(音楽劇・東京)

97年2月の旗揚げ後コンスタントに活動を続けている。おもしろおかしい歌と踊りのオンパレード、凝りに凝った装置、などが持ち味。

★ この文章って劇団側が書いたのか、事務局がまとめたものなのか。「おもしろおかしい歌と踊りのオンパレード、凝りに凝った装置」という説明にははっきりと駄目さがにおっているのだが、これで面白けりゃロリータ男爵じゃないかそれは。

●bird's eye view(演劇・東京)

95年に内藤達也が柏原直人らと共に「鳥瞰図しばらく」を結成。また二人とも双数姉妹にも役者として活躍するかたわら98年から「bird'seye view」として活動している。

★ bird's eye viewというのはチラシと劇団名のセンスがいいので以前から気にはなっていて結局、スケジュールが重なっていて行けなかったものの見ることを実際に検討したこともあった。こういう劇団を実際に見られて、次の公演を見に行くべきかどうか判断材料が得られるのがこのフェスの面白いところ。 ●Rel-ay(時代劇ミステリー・東京)

代表者の小宮健は分子進化工学、進化心理学の研究者という変わり種。登場人物同士のやりとりを心情描写をテクストとして映写しながら「笑い」というかたちでみせていく。

★ まったくの謎である。「代表者の小宮健は分子進化工学、進化心理学の研究者という変わり種」。だからどうだというのだろうか(笑い)。「心情描写をテクストとして映写しながら「笑い」というかたちでみせていくのにジャンルが時代劇ミステリーというのも謎だし、ほとんど期待薄のような気がするのだけど、大穴か。

●危婦人(演劇・東京)

96年文化女子大演劇部卒業生ユニットとして結成。その後個人個人の活動をしていたが、98年4月に再結成。代表者のスギ タクミはカムカムミニキーナの衣装も担当していた。

★ 96年文化女子大演劇部卒業生ユニットとして結成ということは女性劇団なのね。頑張ってほしいけどなあ。

●トイキノモト(演劇・東京)

太田希望と小宮晶とが96年に結成。以後5回の公演を重ねる。今年6月には初のプロデュース、オムニバス作品を発表する予定。

★ 性別も分からない(笑い)し、全然判断材料ないんだもの。 ●劇団衛星(演劇・京都)

95年に旗揚げ。代表者の蓮行は「小梅ちゃん俳句大賞」にて最優秀作品に選ばれる。 4作品連続公演、上演時間も6時間を超える公演に挑戦したいという。

★ 以前から関西での評判は聞いていて一度見に行こうと思っていた劇団なので期待はある。ただ、けっこうべたな笑いと聞いてるのでこのフェスティバルではひょっとしたら厳しいかも。でも、どんな芝居やるのか興味があるという意味では一番かも。   

 6月19日  フランス行きにパスポートの申請が必要なため、紛失していた免許証の再発行手続きに行く。 

 6月18日 朝の新幹線で帰京。昼から仕事。大人計画「キレイ」をだめもとでといってみると開演10分前にも関らず当日立ち見券が手に入ったので観劇。 3時間以上の立ち見はさすがに体力的に辛い。芝居は大人計画の芝居だと考えると毒の部分がやや薄味な感は否めず不満は残る。ミュージカルだと考えるとなにをかいわんやであるが(この芝居を見て連想するのは黒テント自由劇場の世界であって、音楽劇であることには変わりはないが、ミュージカルではないだろう)、とにかく奥菜恵は可愛い。歌が下手なのが、最初は気になったが、最後の方ではそんなことはどうでもよくなってきてしまった(笑い)。それにしても、大人計画のことは以前からアングラ演劇における唐十郎の路線「特権的な肉体による演劇」を正統に受け継ぐのは新宿梁山泊でも南河内万歳一座でもなく、大人計画ではないかと思っていたのだが、今回の芝居を見てますますその感を強くした。

 6月17日 大阪で上海太郎舞踏公司パラドックスを観劇。梅田OSホテルに一泊。詳しい感想は後ほど書くことにしたいが、それぞれの部分では面白いシーンも多かったのだけど、今回の作品は主題の掘り下げという面ではやや軽量級な印象。その分、小品として気楽に楽しめるものにはなっているが、「リズム」の重厚感には欠ける。それでも、今回は上海太郎の他に若草鹿も相手役(?)として重要な役柄を任せられ、それによくこたえていたことなどわざわざ大阪まで行って見た価値はあったと思う。

  6月16日 サッカー欧州選手権を見るために迷った揚げ句WOWWOWに加入してしまった。これで睡眠不足の日が続きそう。

 6月15日 5万アクセス達成。アクセスもそうだが1昨年の5月末からこのページを始めて、約2年が経過した。この間、このページを読んでくれた皆さんどうも有り難うございました。このページを立ち上げた目的がきちんとしたレビューを書きたいということだったが、特に今年になってから、日記以外のまとまったレビューが全然書けていない。過去のページについても一応、このページからリンクできるようにはしているのだけれど、検索が出来ないのでどこにどんな芝居のレビューがあるのか分かりにくくなってきている。なんとかしなけりゃいけないことが多くて困ってしまう。

せめて、月に1本は演劇かダンスの下北沢通信レビューを書くことにしようと一応、決心。でも、このところ、月1回のお薦め芝居とこの日記コーナーの更新だけで四苦八苦の状態だからなあ。最初の方の日記を読み直してみて、あの頃はやる気満々だったなあと……。とりあえず、伝言板とかでの質問などには積極的にこたえていこうと思っているのでそちらの方もよろしく。

 6月14日 今年も7月に夏休みを取って、2年ぶりにフランスのアビニョン演劇祭に行くことにした。スケジュールは 7月12日から20日までを予定。とはいっても、昨年もエジンバラ演劇祭に行くといっていたのに結局行けなかったという苦い思い出があるので(笑い)、ホテルやチケットが確保できたら、もう少しちゃんとした予定を書くつもり。2年前のアビニョン観劇レポートは表紙からまだリンクしているけれど、今年もなにか新たな発見があるだろうか。

 6月13日 青年団「ソウル市民1919」の感想、中途半端になってしまったので、若干続きを。この芝居は1919年の京城(現在のソウル市)に住む篠崎家という新興ブルジョワジーの一家のある日(この場合は3月1日と特定されているのだが)の午前中を描いている。描かれるのはひとつの応接間とそこに出入りする家人ならびにその関係者というごく狭い範囲についての事柄なのだが、平田の戯曲の特色はそうした極ミニマルな情景から、その外側に広がる大きな世界というものの存在を浮かび上がらせていくことである。「ソウル市民」同様、ここでも描かれるのは無意識の差別の構造ではあるが、「ソウル市民1919」で重要なのは単に支配者階級にある日本人が朝鮮人を差別するというような単純な構造ではない。

 例えば、当時の男性/女性の間に横たわる大きな差、日本人同士の階級差、内地出身者と朝鮮半島に生まれ育った日本人との意識格差。篠崎家というひとつの家庭だけを描くだけで、当時の植民地を巡る大きな状況のいわばモデルとして、篠崎家を描いていくのが平田の戦略なのである。その中でもこの芝居において象徴的ともいえるのが篠崎家の次女である幸子の存在であろう。彼女は内地の豪農に嫁に行くがうまくいかなくて帰ってきた出戻りである。軍人との間に縁談が起こっているが、書生の岩本に対して憎からぬ思いを抱いている彼女はこれを嫌がっている。ただ、おそらく、それほど豊かな家の出身ではない一介の書生に過ぎない岩本とブルジョワの娘である幸子の関係は到底許されるものではない。それゆえ、幸子に対してやはり好意を抱いている岩本もハルピンへの婿養子の話が当主である謙一郎から持ちかけられており、身分違いゆえ幸子に自分の好意を打ち明けることはできないのである。

 (続きは後ほど)     

 6月12日 どうやら、漫画を学問として研究しようということで近々「漫画学会」というものが発足するらしい。先日、京都でその準備段階としてのシンポジウムのようなものが開かれたらしい。らしいというのはいくつかの新聞でそのことを読んだので事実関係は間違いないのだけど、手元にその新聞がないので、学会の正式名称を含めここに正確には書くことが出来ないからである。

 もっとも、私自身のその記事を読んだ印象としては「え、これまでなかったの」というのが最初に浮んだ考えで、なかったことの方にむしろがく然とさせられた。というのは少なくとも戦後のある時期以降の日本文学、映画、演劇を語る時には表現としての近接領域である漫画の影響を考えずして、もはや語ることは出来ないのが常識だと考えていたからだ。ただ、考えてみるとアカデミズムと世間一般の常識とのかい離というのは一般にもある。学問である限り、もちろん、古典を研究することは大切だが、それだけではだめでそこに「いつでも現代との接点がある」ということが最低限の学問の条件だと考えるのだが、実際には必ずしもそうはなっていないようだ。

 演劇などもその最たるものかもしれない。私はアカデミズムとは無縁な人間なので、例えば最近、増えてきていると聞く大学の演劇についてのカリキュラムがどのような形で構成されているのかは詳しくは知らないのだが、こうした演劇に関係する学科のカリキュラムが多くの場合、どの程度実践的かはさて置き、「演劇をやりたい人」のために組まれたものである以上、「現代演劇について考えたい人」にとってほしい情報を得られる講義というのがあるのかどうかきわめて懐疑的にならざるをえない。もちろん、戦前、戦後、60年代などと年代別に輪切りしたようないわば「現代演劇史」のような講義はあるようだが、それは「現代」とはいっても「現代史」の範疇に入るような「現代」であり、歴史には変わりはない。もちろん、歴史を知っておくことが大事だということを認めるのにはやぶさかではないけれども。

 無駄口はこのくらいにして青年団「ソウル市民1919」の感想を少し。平田オリザという劇作家・演出家は若くして3冊の演劇論集を出していることからも伺えるように方法論に対して過度に意識的な表現者である。多くの彼の作品は「群像会話劇」「同時多発会話」「現代口語演劇」「リアルタイムで進行するワンシチュエーション劇」などの特徴を持ち、さらにここ何年かは新作を書くごとに方法論的に新たな実験を積み重ねてきた。いわば平田にとっては「いかに描くか」(スタイル=方法)が「何を描くか」(主題ないしモチーフ)と同等の重さを持って存在しているということがあって、作品によってはスタイルが主題を決定したのではないかと思わせる作品もあった。現代芸術においては「いかに」の方が「なにを」よりも重要で、それゆえ方法論的な懐疑のないところには新たな表現は生まれないいうのが私の持論で、それが「ソウル市民」で平田の芝居に初めて出会っていらい、青年団の芝居に引き付けられていった最大の理由であった。

 だが、昨年「海よりも長い夜」、そして、今年の「ソウル市民1919」を見る限り、方法論に意識的というのは変わらなくても、平田の目はより以上に「なにを描くか」に向かっている。その意味でスタイルと主題の比重のかけ方が平田の中で変化してきたのではないかとの感を強くした。昨年の「海よりも長い夜」でそれまでの平田作品にはあまりなかった感情の爆発などのシーンがあったことで、一部に青年団の芝居が変貌したとの評があったが私は「それは単に取り上げる場面のフェーズが変わっただけ」で「関係性の演劇としての本質にはいささかの変化もない」と指摘した。「ソウル市民1919」はスタイルとしてその延長線上にある作品で、1989年に初演された「ソウル市民」と比べればその後に積み重ねられた方法論的な成果が生かされているという違いはあっても、やはり方法論的に大きく踏みだして新しい実験に取り組んだ作品とはいえない。ただ、これまでも「冒険王」など過去の特定の時期に焦点を絞った作品はあったものの、この作品は1919年3月1日のソウル(当時は京城)という三・一・独立運動という朝鮮民族にとっての歴史的な事件が起きた日の午前中といういわば特別な時をピンポイントで捉えて描いているからである。

 もっとも平田はいわゆる事件そのものを描き出すわけでない。描かれるのは「ソウル市民」から10年後の篠崎家の応接間の日常というフレームを通してであって、彼らの日常会話の中で三・一・独立運動の背景となったパリ講和会議やウィルソンの民族自決、シベリア出兵といった当時の政治的状況を窺わせる話題も出てはくるものの、もっぱらの関心はこの日やってくることになっている力士のことであったりして、登場人物はいたって呑気なのである。

 

 6月11日 故林広志プロデュース「薄着知らずの女2」(2時〜)、青年団「ソウル市民1919」(7時〜)を観劇。 

 6月10日 加藤健一事務所「審判」(1時〜)、トリのマーク「木陰で話をするときは」(6時〜)を観劇。前回公演は行けなかったトリのマーク。今回はあゆみギャラリーという初めての場所だが、空間にも雰囲気があり、面白い作品に仕上がっている。場所が開放性の高い一軒屋のギャラリーということもあって、庭に生えている木をそのまま装置(?)として使ったり、半野外劇っていうような風情もある。表題の「木陰で話をするときは」というのはこの木のイメージから取ったものなのであろう。トリのマークの演劇は「見立て」を基本にしていて、あらゆるものをなにかに見立てるところから、観客の側の想像力を喚起していく構造を持っている。この芝居でもそれは変わらないものの、こういう開放空間ないし、野外劇のように周囲に借景できる観客の目に実際に見えるものが多い空間での芝居と例えばスズナリのような劇場やストライプハウス美術館のような閉鎖空間で上演される場合は山中正哉の作劇には微妙な差異が生じているのではないかと思う。

 例えばこの芝居で柳澤明子が舞台上(というのもトリの場合変なのだが)でただ「木」と言った場合にもそれが見えている場合(見立て)と見えてない場合(想像)では観客のイメージの広がり方に自ずから差異があるからである。それは言葉(台詞)として人間の耳に入ってくる情報よりも視覚情報の方が情報量が圧倒的に多いとからだ。芝居の中でのいんちき諺づくしではないけれど(笑い)、まさに「百聞は一見にしかず」である。この芝居では「木」についてのやりとりと「湖」についてのやりとりが典型的の両者の差異を示している。もちろん、見えないからこその空想の広がりには逆に自由度もあるわけでここでは差異があるというだけで、どちらがいいというようなことを言おうとしているわけではない。

 ただ、言えそうなのは上演場所の制約も多少はあろうが、トリのマークの芝居は見立ての手法を多く使える開放空間の時にはそうでない時より一層シンプルな構造になっているということであろう。普通の会話劇が「小説」。スズナリでのトリのマークが「詩」だとすればあゆみギャラリーでの芝居は「短歌・俳句」といえるだろうか。あるいはそこまでの差はないかもしれないので、スズナリが「短歌」、あゆみギャラリーが「俳句」といったところであろうか。もちろん、これは単なるものの例えなので、じゃあ無言劇はどうなるのかと言われれば「禅なり」などと喝破する気もないので困ってしまうのだけれど(笑い)。ただ、短歌、俳句といった日本独自の短詩型文学を持ちだしたのはこれが成立するためには「本歌取り」に代表される「見立て」の手法が駆使されているからで、これは借景の手法で方形の狭い空間に宇宙(世界)を表現した日本庭園などと同様、実は日本文化の伝統を受け継ぐ行為なのだということをちょって言ってみたかったということもなくはない。

 もっとも、台詞を通じてある構造(世界)を提示してみせたり、それをまた微妙にずらして(解体して)見せる閉鎖空間での芝居と比べれば開放空間でのトリのマークの芝居は「ただそこにある」といった肌触りが強いので、それについて分析的なことを言おうとするとこれがなかなか難物なのである。この「木陰で話をするときは」でもしだいに増えてくる木のコップ(しかも顔つき)の謎。訪問者である女性が見せた一枚だけ描かれている絵(どうもグローブ座の絵みたいだと思ってきたらそれはそうらしい)の意味。出かけた人が戻ってこない湖。解けそうで解けない謎は山ほどあるのだけれど、いくら謎解き好きの私といえども、これを解こうとして強引に我田引水した仮説を組み立てても人が聞けばシェイクスピアに登場する阿呆(フール)のたわ言にしか聞えないのは明白なので、そういうことはここには書かずに寝る前の楽しみにだけして、ここでは一切触れないことにしたいのである。もっとも、シャイクスピアに登場する道化同様に他人の奇説、怪説を聞くのはおおいに楽しいので、伝言板やメールで自分はこう考えたというのを教えてくれるのは歓迎なんだけど。ああ、我ながら卑怯な人間だ(笑い)。 

 MONOの芝居における方言についてこれはもう終わった話だと思っていたのだが、伝言板の方にくっしーさんという方からの書き込みがあったので、補足を少し書いておくことにする。「中西様が >「錦鯉」の言葉は愛知県の方言(名古屋弁ないし三河弁)でもない。と書いていらっしゃいましたが、愛知県の方言です。私が「錦鯉」を一緒に観劇した友人は名古屋市天白区に生まれてから 19年間住んでいたのですが、「錦鯉」の方言は昔からその地域に住んでいる人が使っている言葉だそうです。(ただし「ワチ」だけは使わないそうです。)しかしイントネーションについては水沼健さんは割とその地域のものに近かったのですが、他の役者さんはあまり似ていないところが多かったそうです。」(以上伝言板から引用)。なお、これを伝言板の方でレスしないでこちらの方に書き込むのは長くなりそうなためで他意はありません。

 あの言葉は愛知県の方言をベースにして土田氏が作った人工的な方言なわけです。『土田が人工的に創作した「方言のように聞える言葉」』というのが誤解を与えたのかもしれませんが、どんな人工的な方言もエスペラント語じゃないので大抵の場合は複数の方言のアマルガム、いわばキメイラのようなものであるわけで、その意味で「愛知県の方言(名古屋弁ないし三河弁)でもない」といったわけです。ちなみに私も愛知県三河の出身なので、三河弁じゃないことは分かるし、名古屋弁についてもネイティブのように話すことはできませんが、例えばジャブジャブサーキットに出てくる岐阜弁と名古屋弁の違いぐらいは分かります。ちなみに、少年王者舘天野天街さんの操る戯曲言語は天野さんの出身地である愛知県の言葉をベースにしていますが、けっして愛知の方言で書かれているわけでなく、「天野語」とでも呼ぶしかない独特な言葉なわけです。

 さて、くっしーさんの書き込みでは「愛知県の方言です」と断言なさっているのですが、方言においてはいかなる人称代名詞を使うのか、イントネーション、アクセントの差異は本質的なものではないでしょうか。例えば関西圏でのエリアの違いによる言葉のヴァリアントというのは名詞の語彙とかもありますが、典型的には人称代名詞に現れるわけで、一人称を「わて」「あて」「わい」「わし」とエリアによって言葉の違いがあるわけで、関西弁といってしまえばそれまでですが、当然、大阪、京都、神戸では言葉が違います。

 MONOの土田氏が一人称に「わち」を初めて使ったのは「きゅうりの花」という芝居においてですが、この芝居では田舎のおかしな村おこしを風刺的に取り上げたこともあって、そこで話される言葉が実在のどこか特定の地方を連想させるようなものであってはそこをバカにしてるんじゃないかと誤解されるのは困るので、「わち」という耳慣れない一人称を使う言葉を人工的に作ったということでした。今回の言葉が厳密に「きゅうりの花」で使われた言葉と同じ言葉なのかについては戯曲がないので確認できないものの、利賀公演の際直接土田氏本人に聞いているので、「わち」が人工的な方言であることだけは間違いないはずです。「わちは○○だでな」という表現において確かに後段の「〜だでな」の部分には愛知方言を思わせるところはありますが、それを持って「愛知県の方言です」というわけにはいかないと思うわけです。

 もっとも、実際に使われていた言葉についてのくっしーさんの友人のという方のおっしゃられていることはかなり正確で、それについてはある人に紹介していただいたページ(http://www.kangeki.gr.jp/article/index.shtml)(許可取ってないのでリンクはしません)の試演会レポートに詳しいことが載ってますので、よろしければそちらの方も参照してみてください。

  6月9日 お薦め芝居6月分を掲載。今週末は土曜日、加藤健一事務所「審判」(1時〜)、トリのマーク「木陰で話をするときは」(6時〜)、日曜日は故林広志プロデュース「薄着知らずの女」(2時〜)、青年団「ソウル市民1919」(7時〜)を観劇の予定。来週は土曜日は大阪で上海太郎舞踏公司パラドックス」(3時〜、7時〜)、日曜日は急きょ出社になったため、チケット確保済みだった大人計画「キレイ」は見られず。夜の追加公演に並んでみようとは思ってるのだけど……。

 織田作之助「聴雨・螢」、夢枕獏陰陽師」「陰陽師 飛天ノ巻」を読了。 

 6月8日 昨日の書き込みで正確を期そうとしてかえって分かりにくくなっていた部分があるようなのでしつこいようだがもう一度書くことにする。そのまえに娘婿というのは大抵養子の時に使うのではないだろうかと書いたのだが、これは辞書で引いて確認してみたところ、婿養子じゃない時も使うということのようだ。婿ということばも婿養子でない場合の娘の夫という意味でも使う用法があるようなので、これは私の勘違いだったのだが、いずれにしても7日の日記で強調したかったのは私は「娘の夫」という言葉を「娘婿」という言葉と区別して使いたかったということが分かってもらいたかったからなのだ。ほぼ同じ意味だからどっちでもいいじゃないかと思う人も多いであろうが、用例としてはほぼ同じでも「娘婿」という言葉が娘の父親ないし母親の側から見た関係を表しているのに対して、「娘の夫」はそうではなく、ここには娘というワンクッションを通してしか親(この芝居でいえば先代)は関係しない。本当は婿養子ではない、娘の夫というの一語で表す言葉があればそれを使えば済んだところなのだが(娘婿でも、娘の夫でもその言葉の語義としては婿養子の場合も含んでしまう)、残念ながら適当な言葉が見つからなかった。

 重箱の隅になりかかってきたので「錦鯉」に話を戻そう。この芝居の登場人物はまず赤星家の人間として、先代組長の息子の赤星(尾方宣久)がいる。さらにその姉で今は水野(奥村泰彦)と結婚している裕子(増田記子)。水野は裕子と結婚してはいるもののサラリーマンとして営業の仕事をやっていたわけで、裕子と水野の夫婦は先代が亡くなるまでは赤星家の「家業」である「赤星会」の仕事とは無関係に生活してきた。つまり、姓が違うというだけでなく、実質的にも婿養子という立場にはなかった。ところが先代の遺言により水野が「赤星会」の跡目を継ぐことになる。以前から赤星会にいたボンこと赤星の舎弟格であった坂口(金替康博)は「新しいヤクザに」との水野の方針になにやら煮えきらずいらいらしている。そこに水野の幼なじみであり、これもやくざとは何も縁のない生活をしていた吉田(水沼健)が誘われて新入りとして入ってくる。

 これが土田英生が今回の芝居に与えた状況である。登場人物はやくざという「普通でない人物たち」だが、土田が描き出すのは仁侠映画のようなカッコイイやくざではなく「やくざたらんとしている普通の人たち」のなんともしまらない姿である。例えば「クリスマス」「同性愛者」「ホームレス」「詐欺師」……。こういうステレオタイプのイメージのありがちな登場人物、シチュエーションをひとひねりして、物語の設定を組み立てていくというのは土田の得意とする作劇法で、「やくざらしくないやくざ」という「錦鯉」の設定もこうした手法の典型といっていい。俳優たちの妙に力の抜けた演技ぶりと状況のシリアスさとのなんともいえぬずれ具合に思わず笑わされてしまう。これは窮地に陥った人物がその場しのぎにした行為が状況を雪だるま的に悪化させていくというような状況を得意とする三谷幸喜、レイ・クーニーのシチュエーションコメディーやわかっているんだけどこういう状況になるとこう振る舞ってしまうという人間の哀しい性(さが)を描くニール・サイモンのコメディーとも違うところである。

 この芝居では芝居で描かれる時間の中、途中、約1年の時間経過が設定されていて、この間に組長の水野が服役して戻ってくるという趣向になっている。この間に赤星会は解散していて、それぞれの登場人物の関係性が大きく変わってしまっている。土田、水沼のこの間の演じわけなどこれだけも大いに笑わせてもらえるし、戻ってくる組長の今浦島ぶりなどでこの間の変化を小出しに見せながら、しだいに状況を明らかにしていくところなど実に見事なのだ。ただ、「燕のいる駅」「赤い薬」などで間接的には登場人物の死というのを描いたことはあったとしても、男性全員が物語の終わりで死んでいくという今回の幕切れには若干、違和感を覚えたのも確かなのである。もちろん、物語の展開上ではこれは必然ともいえるのだが、「やくざ」という設定であっても、あるいは「やくざ」という設定であればこそ登場人物を死なせるようなドラマは作らないでアンチドラマに徹するのではないかと考えていたからである。

 そのなんとなく釈然としない感じを反芻しているうちにおぼろげながら浮び上がってきたのはひょっとするとこの芝居は「やくざ」という突飛な設定を取り上げているが、これは土田の集団論としても受け取れるんじゃないかと思えてきたのである。組織論といっても分かりにくいと思うので、もう少し説明すると「集団とそれに帰属する個人との関係性」について寓話風に語ったもの。さらに言えば、個人として平凡で暴力も嫌うような普通の人間がなぜ集団のために自らの命までを犠牲にする行為をすることができるのか。これでも分かりにくいというのなら、典型的な状況を上げればそれは「戦争」なので、「錦鯉」そのものを「戦争についての寓話」として読み取ることができるといってもいい。例えば学究生活から突然若手将校として、戦場に送られた研究者、古参の軍曹、新兵……。もっとも、あえて「戦争」ないし「軍隊」といわずに「集団とそれに帰属する個人との関係性」という舌をかみそうなまどろっこしい用語で表現したかといえば土田がここで描き出した集団とは「軍隊」だけでなく、「オウム真理教」「企業」、そして卑近なところでは「劇団」などいろんな組織にレベルの差こそあれ、通底するものであるからだ。

    6月7日 MONOの芝居について6日に書いた「しかもその集団は先代の遺言によって先代の娘の夫であるサラリーマンあがりの人物によって率いられているのである」のくだりについて、「ところで、あの組長は先代の娘婿なんですか・・「先代に見込まれた」というのは出てきましたが娘婿ってのは認識してませんでした。」という趣旨の問いあわせ(?)が伝言板であったので、それにこたえることにする。ちょっと長くなりそうなので、こちらの方で。まず、私にとってはあまりにも当たり前なのでどこで分かるのかと言われても「なぜそう思えないのか不思議で仕方ない」というのが正直なところなのだが。

 まず第1に注意を喚起しておきたいのは「先代の娘の夫である」と書いているのであって娘婿とは一言も書いてないことである。娘婿というのは大抵養子の時に使うのではないだろうか。手許に辞書がないので、これは間違ってるかもしれないが、私が娘婿と書かずにあえて、「先代の娘の夫である」というまどろっこしい書き方をしたのはそれをはっきり区別したかったからである。やくざは赤星組であるからもちろんかならず赤星という人が組長だったとは限らないけれど、ここに赤星という男がいて、それが周囲の人間から「若」とか呼ばれてるとすればそれは若頭ということではなく先代の息子の可能性が高い。現在の組長、水野は裕子と結婚しているが裕子に対して、赤星は姉さんと呼びかけている。これは組長の奥さん(あねさん)というのでなく、自分の肉親である姉に対する呼びかけである。しかも、この芝居で重要なのは先代は跡継ぎについての遺言を赤星にだけ打ち明けている。これは赤星が先代の最近親者(息子ないし孫)であることを示している。だから、水野は先代からすれば娘の夫ということになるわけである。もっとも、私は最初からそう思っていたので、赤星が組長のことをボスというニュアンスじゃなく親父ないしそれに類する言葉で呼んだことがあるかどうかは確認できない。したがって、厳密に言えば先代が父親ではなく祖父という可能性も少ないけど否定はできないのである。それにしても気になるのは赤星しか聞いていないという遺言が本当に先代の遺志であったのかどうかという疑問である。坂口が赤星にだれも聞いてなかったのにどうして、だれもが納得する後継者として自分が後を継がなかったのかと問責される場面があるが、ここで分かるのは先代の遺言が本当は違うものであったとしてもそれを知るのは赤星だけだということである。もっとも、今のところは赤星が跡を継ぎたくなかったのじゃないかという疑いはあっても、そのために素人である水野の跡を継がせるように細工したという理由も思いつかないので、これはそういう可能性もあったという程度なのだが。 

 6月6日 伝言板の方にMONO「錦鯉」で使われていた方言について問いあわせがあったので、そちらの方でレスをつけてもいいのだけれどこちらで代わりにこたえておくことにしたい。「錦鯉」の場合、登場人物の設定がある地方都市のやくざということで少し変わってはいたけど、ここで使用されていた言葉は一人称として「ワチ」というのを使い「ワチは○○だでなあ」などという使い方をしていた。手元に台本があるわけでないので確認はできないが、これは土田英生が「きゅうりの花」の中で使っていた言葉とほぼ同じ。京都出身のおくむらさんが「んー、近畿の方言では、ないですね。名古屋ではないが名古屋に近いトコ、という気はしますね。土田さんって、ご出身が三重県じゃありませんでしたかね。だからそのへんかと思って見とりましたんですが。まぁ、でも、いずれにせよかなりデフォルメされてるんでしょうけど」と書いているようにこれは関西の言葉デはありません。それから土田氏の出身地は三重県ではなく、愛知県だったと思いますが、三重出身といえば199Q太陽族の岩崎正裕がそうで、彼は出身地である鈴鹿の言葉で「サーキットゲーム」という作品(「ガラスの動物園」を翻案したもの)を書いているが、これでも分かる通り、三重の言葉はエリヤによって違いがあるものの、名古屋と非常に近い地域を除けば基本的には関西弁に近い言葉。ちなみに「錦鯉」の言葉は愛知県の方言(名古屋弁ないし三河弁)でもない。

 ちょうどいるかHotelとか弘前劇場とか実際に日常会話で使われる口語にこだわって創作をした劇団が続いたせいで、余計に気になった面もあったのかもしれないが、「錦鯉」の言葉が「きゅうりの花」で使われた言葉とほぼ同じだとすると、これはどこか特定の地方の方言というわけではなく、土田が人工的に創作した「方言のように聞える言葉」というのが正解である。MONOの芝居は俳優の演技が芝居じみたところがなくナチュラルに見られるところから、一見ある種のリアルを志向しているように思われるが登場人物の男性全員がいわゆる「オカマ言葉」で会話をした「―初恋」でも明らかなようにけっして単純にリアリズムを志向しているわけではない。

 むしろ、そのシチュエーションはありそうで、実際にはありえない状況を描き出すのが特色。これまでもクリスマスの日にペンションに集まるクリスマス嫌いの男たち「Hoiy Night」とか同性愛者が住むアパート「―初恋」とか、戦争で慰問にいったコメディーグループが集まっている鉄塔「その鉄塔に男たちはいるという」というひねった設定の作品を数多く作ってきた。もっとも、状況は非日常的でありながら、sこで描かれていくのはきわめて日常的な光景であり、多くの場合、それは集団としての彼らの自画像とも2重重ねになっている。

 こうした特色は今回の新作「錦鯉」でも踏襲されている。ここにでてくるのはやくざなのだが、実際にはいそうもないきわめてやくざらしくないやくざたちなのである。しかもその集団は先代の遺言によって先代の娘の夫であるサラリーマンあがりの人物によって率いられているのである。

 6月5日 お薦め芝居6月分を執筆中だけどまだ完成しない。えんげきのページの方の締め切りの方が8日だから最低それまでになんとかしないといけないのだけれど。

 6月4日 MONO「錦鯉」(3時〜)、猫ニャー「夜の墓場で運動」(6時〜)を観劇。

 6月3日 先日、京都大学ミステリ研OB会に出席した際にミステリ研時代の先輩、S、Y両氏が仕事の関係で東京周辺に出てきていることを知った。OB会では会えなかったのだが、特にS氏がこちらにいるのが6月いっぱいであるということが分かったので、、ミステリ研時代の同期のN君に連絡を取ってもらいひさびさに4人で会った。こちらが東京に出てきて以来、芝居にダンスにとやくざなことに(笑い)かまけてきたせいで、たまに関西に行く用事などがあっても久しく会わないでいたのだが、ひさびさに会ったせいで、京都にいたころ、毎週のようにS氏の下宿などにいりびたっていたころのことを思いだして、刺激を受けた。というのは、本人はそんなことを気にしたこともないかもしれないが、大学でろくに勉強しなかった私にとってはS氏らミステリ研の先輩が「ものを考えるとはどういうことなのか」を教えてくれたいわば恩師のようなものだったと考えているからだ。もちろん、今回会った時にそんな会話を交わしたわけではないけれど、なにかについて、書こうとした時にミステリ研時代の友人はいつでもどこかで最初の仮想読者のようなところがあるのだ。

 ある事柄について一晩かけてなんらかの理屈というか、今、私が使っている用語に従えば「モデル」のようなものを築き上げて、持っていくと、それはたちまちのうちに論理のギャップ、ほころびをつかれてずたずたにされてしまう。むろん、私としてもそれが譲れぬ一線に関るものであれば批判に対し、反論し、様々な手管を駆使して完全に論破されたという風にはならぬように綻びを繕い、微妙に「モデル」を修正しながら、論点を維持しようとはする。そして、なんとか負けはしない、引き分けには持ち込もうと頑張る。議論というのは譲れなければどこかで疲れたりして、終了するものだから、主観的には「譲らなかった」という一点で若干の自己満足を得ておしまいになるのだが、なんであれ、こうした事柄には議論のような対立を通じてのみ、全体のフィールドが俯瞰してみられる新たな論点に立てるということがあるからである。ここまで「ある事柄」などと大上段に振りかぶった言い方をしてきたので誤解を与えたかもしれないが、私たちが話していたのはなにもニーチェの「永劫回帰」とはなにかとか、人間が世界を認識するとはどういうことかなどという哲学的なことではなく、かといって「ミステリ研らしく本格推理小説における論理とは」などということを論じていたのでももちろんなく(極まれにはそういったことも論じたこともなくはなかった)、大抵の場合は「つきあうんだったら美人と可愛い子とどちらがいいか」とかいった類のことであった。しかし、軽んずるなかれ、こうした一見、些細なことに「哲学的大問題」にもおとらぬ問題群は潜んでいるものなのである。

 というのは上記の設問を少し考えてみるだけでも、この問題は「つきあう」とはどういうことか。これはお茶をつきあう、一度、デートするといった段階から、セックスの対象、結婚相手など様々なヴァリエテがその中に潜んでいることが分かるではないか。「美人」「可愛い」だってこれは自然言語であって、人工的に定義されえる概念ではないから、ヴィトゲンシュタインではないけれど、我々が普段この言葉をどのように使っているかという用例によってしか示されえない。

 さて、何が言いたかったのか。文章など書いていて舌鋒鋭く批判されるスリルがないとつまらないなということである。このページに書いていることなど思い付きで書いていることも多いので、内心忸怩たるものがあるが、単に感情論ではない、揚げ足取りでもない議論をたまにはしたいなあということだったのである。

 本当は伝言板でやりたいところだが、最近の書き込みみてもそういう雰囲気でもないので、だれか、「あんたの言ってること納得できないよ」という人がいたら、メールで具体的に書いて送ってきてくれると有り難いのだけど。反論は当然するけど議論はフェアに行きたいので、メールをこのページに掲載することを了解の上で、送ってきてほしい。もっとも、これだけはことわっておくけど、中傷の類は困るからどんなメールでも必ず載せるというわけではないよ。    

 6月2日 

 6月1日 エラリー・クイーンギリシア棺の謎」(再読)、鈴木晶「バレエの魔力」を読了。