下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

関西の演劇ベストアクト

 「キタで芝居を見るhttp://homepage2.nifty.com/kitasiba/」のサイトから依頼を受けて、2004年上期の関西の演劇ベストアクト*1を選んでみた。
2004年上期の関西の演劇ベストアクト

 作品
1、クロムモリブデン「なかよしshow」伊丹アイホール
2、ベトナムからの笑い声「ベトナリズム」(京都アトリエ劇研)
3、マレビトの会「島式振動器官」(京都アトリエ劇研)
4、そとばこまち「丈夫な教室―彼女はいかにしてハサミ男からランドセルを奪い返すことができるか―」伊丹アイホール
5、dots「10の地点」京都造形芸術大学春秋座)

 役者
1、冨永茜クロムモリブデン「ユカイ号」の演技など)
2、奥田ワレタクロムモリブデン「なかよしshow」の演技など)
3、田中遊(正直者の会)(マレビトの会「島式振動器官」の演技)

 クロムモリブデンは関西でいまもっとも充実している劇団である。この上期には「なかよしshow」(伊丹アイホール)と「ユカイ号」(大阪芸術創造館)とベスト級の舞台2本を上演したが特に「なかよしshow」は昨年のベストアクトに選んだ「直接KISS」を上回るほど刺激的な舞台であった。
 青木が題材に選んだのは劇団。芝居は自殺未遂を起こした女子高生コッコ(奥田ワレタ)が笑いを取り戻そうと落語のテープをヘッドフォンで聴いている場面からはじまる。そんなコッコを励まそうと、友人のマリ(金沢涼恵)は卒業直後に男子生徒ハジメ(森下亮)、トラノスケ(板倉チヒロ)、レンジ(夏)を誘って、「劇をやろう」と言い出し、そして、劇団なかよしが結成される。
 この後、公演を間近に控えた劇団に会場となるホールの担当者がやって来て、台本「キルキルハイスクールパニック銃殺銃殺銃殺、そしてまた銃殺、あるいは銃殺」を書き替えてくれと要望する。劇の内容が最近世間を騒がせた高校での銃乱射事件や小学生女子児童拉致監禁事件、ベッカム爆死事件とそっくりなため、自粛してほしいというのだ。
 三谷幸喜の「笑の大学」や映画「ボウリング・フォー・コロンバイン」を連想させるような筋立てでここからはシチュエーションコメディや社会派コメディなどへの展開が予想されるが、まったくそうならないのがクロムならではの持ち味だ。「メタシアター」「社会派演劇」「笑いの演劇」といった様々なスタイルの演劇を作品の中に取り込み、それで思い切り遊んでみせるという超絶アクロバットを展開していく。
 最大の魅力は「演劇に対する悪意」と「演劇に対する愛」が微妙なバランスでごたまぜになっていることで、劇中に登場する「劇団なかよし」からして、そのあまりな人を食ったようなネーミングがある種の演劇を馬鹿にしてるとしか思えないのだが、単純に批評的な笑いなどといってすませられないのはついにその悪意はクロムモリブデンそのものにさえ牙をむき、なにがなにだかもはや自らよって立つ地盤さえ、確かなものではなくなってくることだ。
 ドラッグ、暴力、爆弾、ネット犯罪、セックス、子供虐待、小動物虐待など劇中で改訂を迫られる内容のほとんどがクロムがよく扱う主題であり、劇団なかよしとはデフォルメされたクロムの自画像であることは明らかだからである。
 こうした、悪意の無限連鎖は一時期の猫ニャーなどにも見られたものではあるが、ブルースカイと青木の資質の違いかクロムの場合はそれがクールさではなく、どうしようもない「無駄な熱さ」で体現されていることで、登場する俳優の無駄なテンションの高さと馬鹿さ加減からも、東京的スタイリッシュとは一線を画す野放図な魅力があるのだ。
 一方、マレビトの会「島式振動器官」は松田正隆の新作。自ら演出するのは時空劇場を解散して以来7年ぶりのことである。松田正隆は本業の劇作としては長崎三部作のような日常のディティールから立ち上げていくような作品を最近はあまり書かなくなっていて、演劇に向かう時にはあまりそういうところに関心が向かなくなっているのかなとさえ、思わされるところがある。今後はひょっとするとこういう古典的なタッチのものは映画、演劇ではもう少し実験的で前衛的なものをという風に書き分けていくのかもしれない、と書いたことがあったのだが、この舞台はまさにその予感を裏付ける舞台であった。
 舞台には複数の登場人物が出てくるが、その台詞のほとんどはモノローグに近い詩的なもので、そこから具体的な状況を読み取るのは難しい。「巨大な鳥」「鳥ハンター」「耳の手紙」などといった現実離れしたイメージだけがひとり歩きしていくようなつくりになっていて、シュールレアリスムの絵画を思わせるようなところのあるのだ。
 松田正隆のつむぎだす言葉が記号的に作用して観客の側にそれぞれのイメージを喚起するようなつくりになっている。「巨大な鳥」「犬男と砂男」「耳の手紙」「振動する子宮」などそこで提供されるそれぞれのイメージはそれぞれメタファーとしてその裏に意味を宿してもいそうだが、それは一意に決定されるというよりは見る側に自由に委ねられているようで、むしろ、ここでは意味よりも観客それぞれの想像力のなかで屹立する絵画的イメージの方に重点は置かれている。日常のディティールを巧妙に排除していくことからなっているその作品へのアプローチにはトリのマークを思わせるようなところがあって、それは長崎三部作などで松田が行ってきた日常的な会話の隙間から非日常や隠された関係性を垣間見せる「関係性の演劇」とは対極的なアプローチといえるだろう。
  そとばこまち「丈夫な教室 ―彼女はいかにしてハサミ男からランドセルを奪い返すことができるか―」は小学校の教室が舞台。夕暮れ時のなかひとりの女性が入ってきて、静かにショパンピアノ曲を弾き始める。このピアノの音が静かに基調底音のように流れるなか、かつてここであったある事件が再び浮かび上がってくる。
 小原延之の新作。前回公演で辰巳琢郎座長時代の旧作「猿飛佐助」を上演し、ある意味「どうして」と思わせたが今度はこんな舞台を上演するとはとびっくりさせられた。スタイルはそんなに斬新とは思わないが、小原延之の舞台にかける誠実な思いを感じさせる好舞台であった。
 この舞台は池田小学校での連続児童殺傷事件を下敷きにしているのだけれど、これまでの小原の作品の方向性からこういうものが出てくるのは予想できなかったので驚かされたが新生そとばこまちになっての新たな方向性を示した舞台でもあった。
 この集団は元々優れた役者集団であることが原点にあり、作品の方向性、演出・演技のベクトルが一度かみ合うとこういうシリアスな主題と正面から向かい合ったストレートな会話劇でもこれだけの舞台成果を見せてくれる。集団としての底力を感じた。
 ベトナムからの笑い声「ベトナリズム」も笑いを志向した公演のなかでは出色の出来栄え。この集団はきわめてレベルが高いのだけれど、いつも京都の行きにくい劇場でこそっと公演をしているせいか、関西でも知る人ぞ知るという存在となっているのがなんとももどかしい。
 dots「10の地点」は一応、dotsと書いたけれど正確にはマルティメディアパフォーマンス集団のdotsのメンバーを主体とした京都造形芸術大学の卒業制作として上演された舞台。太田省吾のテキストを元にして春秋座の大空間を使いこなし空間構成のレベルの高さを見せ付けた。





 

*1:関西に拠点を置く劇団が関西で上演した舞台のみを対象にした