下北沢通信

中西理の下北沢通信

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トム・プロジェクトプロデュース「帰郷」

 トム・プロジェクトプロデュース「帰郷」京都市呉竹文化センター)を見る。
 松田正隆の書き下ろし新作。もう1本の新作「天の煙」(平田オリザ演出)の方はまだ見てないものの、今年は羊団「石を投げないで」、マレビトの会「島式振動器官」*1にはじまり、新作4本*2とその精力的な活動ぶりに驚嘆させられる。松田正隆は本業の劇作としては長崎三部作のような日常のディティールから立ち上げていくような作品を最近はあまり書かなくなっていて、演劇に向かう時にはあまりそういうところに関心が向かなくなっているのかなとさえ、思わされるところがある。今後はひょっとするとこういう古典的なタッチのものは映画、演劇ではもう少し実験的で前衛的なものをという風に書き分けていくのかもしれない、と以前書いたがこの舞台を見てそれは確信に変わった。
 「帰郷」という題名から判断して長崎3部作系の会話劇かと思って劇場に入ったのだが、そういうものではなくて不条理幻想劇であった。
 舞台は高い壁に囲まれた部屋でその中央にはテーブルがあり、部屋の壁には灰色のマネキンのように見える人形が多数置かれている。人形を修理している弟(紙郎=平田満)のところに兄(耳郎=高橋長英)がトランクを持ってやってくる。兄は故郷に帰ってきたと言うが、それがどこかは分からない。そこは夜が明けず暗く、近くでは激しい戦争が行われているらしい。兄弟は「耳鳴り」と「幻聴」にかかわるなんともかみ合わない会話を繰り返す。家には生前、亡くなった父親の世話をしていたというメイドのような女(テレサ吉井有子)が住んでいて、近所からは未亡人(マリコ=井上加奈子)が訪ねてくる。しかし、この舞台ではこの4人の間にはほとんどコミュニケーションらしいコミュニケーションは成立しないし、いわゆる筋立てとして説明できるような物語も存在しない。
 例えばベケットの「ゴドーを待ちながら」や別役実のような不条理劇であっても登場人物の間の関係性というのは提示されていて、舞台が進行していくにつれて、少しずつ観客に判明していくという構造を持っているのが普通だが、松田のこの舞台にはそういうものもほとんどなくて、むしろ、舞台の進行に従って、兄弟のような最低限の関係性やここで描かれている世界の枠組みさえも定かでなくなっていく。普通に考えたら、この戯曲は破たんしていて、失敗作だと断定したくなるところではあるが、それを躊躇するのは松田はそれを確信犯としてやっているということが舞台を見ているうちに了解されてくるからだ。
 そうした印象がどこから来るかを考えていく時にまず思いつくのは舞台の進行に従い、舞台上に増えていくモノたち(オブジェ)の存在感である。それはテレサが運んでくる壊れた人形の破片であったり、かつて兄が持ってきたといって、トランクから次々と取り出される壊れて捨てられたモノたち。こうしたモノたちは明らかに「死」のメタファー(隠喩)ととらえたいという欲望が抑えられない。それほどこの舞台には全体に死の匂いが色濃く溢れている。
 不条理幻想劇と冒頭では書いたが、ここまで来るとこの舞台は単なる不条理ではなくて、隠喩を駆使した形而上演劇*3と呼びたくなってくる。暗号解読や判じ物のようで気がすすまないのだが、壊れた人形を修理する紙郎(カミロウ)とは「神」の隠喩ではないのか。「故郷」とは私たちがそこから生まれ、そしてそこに帰っていく「彼岸の世界」。激しい戦争が続いている「外の世界」が私たちが暮らしているこの世界であるとすれば命はこのモノたちの世界で生まれ、そして再びそこに帰ってくる。
 そう解釈した時はじめて、マリコの切手のエピソードで性にまつわる主題が唐突に出てきたのかも分かる(死の一方で生殖のイメージを出したかった)し、たんぽぽの話が出てくる必然性も了解できる。
 たんぽぽの綿毛(種)が飛んでいくのには明確に新しい生命の誕生のイメージがあり、そこに松田はこの暗澹たる世界における希望のようなものを託そうとしたのではないかと思われたのである。
 ただ、この舞台の実際の上演においてこうしたイメージがどこまで明確に捉えられたかには疑問が残った。本人が演出したマレビトの会も含め、松田の形而上演劇の上演を実際にはどのような演出・演技スタイルで具現化するかについてはまだ結論がでていない気がする。
 平田満高橋長英のキャストはどうだったのか。いずれもうまい俳優で個人的には好きなのだが、この芝居に向いていたのかどうかについてはやはり疑問が残る。演出の高瀬久男文学座)も含め、長崎弁による会話劇系の作品を想定してのキャスティング、演出だったのではないか。いずれも熱演なのだが、どうも俳優の持ち味が松田のテキストの方向性と合致しておらず熱演すればするほど芝居芝居した印象になる。ここではやはりある種の様式化のようなものが戯曲の持つ神話的な構造を支える意味で必要だったのではないか。
 さらに言えばこの戯曲はある種のヨーロッパの映画のようにスタイリッシュかつハードエッジな演出をしたらもう少し面白いものになったんじゃないかという違和感が上演を見ているうちにどんどん強くなってきた。今回の上演ではいわゆる新劇系の演出家の限界が露呈してしまった。最後の方の映像の使用法などあまりにも説明的でちょっと勘弁してくれと思ってしまったし、音楽も最後のはあまりにもありがちで恥ずかしすぎた。

*1:「島式振動器官」のレビューhttp://www.pan-kyoto.com/data/review/51-04.html

*2:そのほか、マレビトの会で「蜻蛉」の演出(再演)

*3:デ・キリコが形而上絵画ということからの連想