下北沢通信

中西理の下北沢通信

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Neuプロジェクト「ラスト・デイト」

Neuプロジェクト「ラスト・デイト」*1(アートコンプレックス1928)を観劇。
 作・演出が劇団太陽族の岩崎正裕。鈴木いづみ役に戸川純阿部薫*2役に奇異保の二人芝居である。阿部薫は伝説的なフリージャズのアルト・サックス奏者。鈴木いづみはその妻で新聞、雑誌、単行本、映画、舞台(天井桟敷)、テレビなどあらゆるメディアに登場。この2人のカップルはいわば70年代のカリスマ的存在であった。
 アートコンプレックス1928の空間が普通とは違う横使いになっており、中央に正方形の絨毯が引いてあり、その上に机と椅子。客席と逆側、つまり観客からすれば役者の背中越しには窓があって、実際に外が見えるようになっているのだが、こんなところに実際に窓があったんだというのはこの劇場にこれまで何度も来ていたのに気がつかずにいて、ちょっとびっくりさせられた。つまり、この舞台では舞台装置を最低限のものとして、劇場の空間をそのまま生かしたものになっている。
 戸川純鈴木いづみに持ってきたというキャスティングがこの舞台のすべてであろう。作・演出の岩崎正裕がどこまで意図的にそうしたのかは不明だが、この舞台で戸川が演じる鈴木いづみは実在の人物であった固有名詞としての「鈴木いづみ」という存在以上に舞台の進行につれて戸川純そのもののように見えてくるのだ。もちろん、戸川純は才能のあるパフォーマーであり、女優でもあるし、この舞台でも鬼気迫る素晴らしい演技で「鈴木いづみ」を演じている。
 そして、この舞台は相手役をつとめた奇異保も含め、うまく演出され、俳優もその演出にこたえ好演した「よく出来た舞台」である、といえる。単純に評伝劇だというには言いがたい演劇的な趣向も用意された脚本もなかなかよく出来ている。
 そうだとすればここで描かれるのは「鈴木いづみという生き方」「阿部薫という生き方」ということになるはずだが、舞台の進行につれてどうもそれだけじゃないと感じさせるところがこの舞台の面白いところである。
 どういうことなのかというと、そこにはただの芝居ではないドキュメンタリズムが仕掛けられているという疑いを持ちはじめざるをえない構造になっているのだ。そして、この舞台の素の空間を生かしたシンプルな作りこみもそれを助けている。
 これはひょっとしたら、私が戸川純のことは同世代の人間としてイメージしうるけれど、鈴木いづみのことは昔、SFマガジンで短編小説を読んだことやこの舞台の始まる前に劇場の壁面にも映写されたアラーキーの被写体として、その姿形は知っていても、鈴木いづみのことは戸川純ほどには知らない。そのせいもあってか、この舞台のなかでも紹介される「鈴木いづみの生き方」を見たときにこう思ったわけだ。「まるで、戸川純みたいな人じゃないか。この鈴木いづみという人は」。
 舞台が進めば進むほどここに描かれた「鈴木いづみという生き方」は「戸川純という生き方」を連想させ、そこには普通の意味で「戸川純」が「鈴木いづみ」を「演じる」という関係性とは違う立ち現れ方がそこに浮かびあがってくる。
 もちろん、これはひとりの観客の妄想にすぎないかもしれない。私が持つ「戸川純」のイメージは彼女の作品から受けた印象や彼女に関するいくつかのエピソードをなにかで読んだり、直接彼女を知る人からの伝聞で聞いたりして、勝手にイメージしたものにすぎない。それは実際の彼女とは無関係のものだ。しかし、そうであっても、あるいはそうであるからこそ、「鈴木いづみの狂気」を一心不乱に演じる戸川純を見て思わざるえないのだ。「どうか、鈴木いずみにはならないでほしい」。