下北沢通信

中西理の下北沢通信

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「DEATH NOTE 前編」*1(金子修介監督)

金子修介監督「DEATH NOTE 前編」 (梅田ガーデンシネマ)を観劇。

主なスタッフ
監督:金子修介
製作:高田真治
エグゼクティブ・プロデューサー:奥田誠治
企画:高橋雅奈/佐藤敦
プロデューサー:佐藤貴博/福田豊治/小橋孝裕
原作:大場つぐみ/小畑健
脚本:大石哲也
音楽:川井憲次 asin:B000FI8UFY
主題歌:Red Hot Chili Peppers「Dani California」
挿入歌:スガシカオ「真夏の夜のユメ」
美術:及川一
撮影:高瀬比呂志
主なキャスト 夜神月藤原竜也 L:松山ケンイチ リューク中村獅童(声) 南空ナオミ瀬戸朝香 秋野詩織:香椎由宇(映画オリジナルキャラ) レイ・イワマツ細川茂樹 弥海砂戸田恵梨香 ワタリ:藤村俊二 夜神総一郎鹿賀丈史 夜神幸子:五大路子 夜神粧祐:満島ひかり 松田刑事:青山草太 模木刑事:清水伸 相沢刑事:奥田達士 佐波刑事:小松みゆき 宇生田刑事:中村育二 警察庁長官:津川雅彦

DEATH NOTE デスノート(1) (ジャンプ・コミックス)

DEATH NOTE デスノート(1) (ジャンプ・コミックス)

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DEATH NOTE (11)

DEATH NOTE (11)

 
 「平成ガメラ」シリーズ、「ゴジラ モスラ キングギドラ大怪獣総攻撃」で知られる金子修介監督が人気漫画「DEATH NOTE」を映画化。怪作「1999年の夏休み」をどのように評価すべきかは微妙なところだが、大島弓子原作の「毎日が夏休み」をはじめ、「あずみ2」「クロスファイア」など原作もので秀作をものしてきた金子監督らしく、基本的に原作に忠実であって、そのなかでもオリジナルの要素を少しづつ入れ込んで、なかなか面白い作品に仕上がっていたのじゃないかと思う。
 原作あり、しかも漫画というビジュアルのあるメディアの場合、まずなんといってもキャスティングが問題となってくるわけで、おそらくファンサイトではあーだ、こーだと議論がわきあがっているところであろうが、なかなか妙味のある配役だったのじゃないだろうか。まずなんといっても主役の夜神月を演じる藤原竜也。どう考えても、この役柄は等身大のリアルな造形が可能な人物ではないので、だれを配役するかは当然、一番問題となってくるのだが、今回の映画化というのは藤原あっての企画ではなかったかとも考えるのだが、この人の持つ独特の存在感というのはすごいと思った。実をいうと漫画の夜神月のビジュアルというだけであればそれほど似てないわけで、ちょっとイメージが違うんじゃないかとも思うのだが、この人にはそこを強引に自分の演じる役柄の方に引き付けてしまうようなカリスマ性がやはりある。
 一方、もうひとりの主役ともいえるLを演じた松山ケンイチだが、こちらの方は立ち居振る舞いからルックスまで丹念に作りこんで、まさに漫画のLがそのまま抜け出して、実体化したようなたたずまい。この俳優をはっきりと認識して見たのは初めてなのだが、聞くところによるとこれまでの役柄の感じとはかなり違うものらしく、監督の演技指導もあるのだろうが、この若さでこれだけ作りこんだ役作りができるという才能は今後に注目だと思わせるものがあった。
 そのほか、ワタリ(藤村俊二)、 夜神総一郎鹿賀丈史)のわき役のキャスティングもなかなかよかった。これも役柄としてニンの合う配役を見つけてくるのは難しいのではないかと思われる弥海砂戸田恵梨香もこの前編を見る限りはなかなか健闘しているように思えたが、こちらは今回は予告編的な登場ということあり、後編がどうなるかのお楽しみかもしれない。
 さて、では映画としてはどうか、ということになるのだが、この前編を見ただけで判断するのは難しい。今回の部分というのは「DEATH NOTE」に登場するそれぞれの人物のキャラも含めた紹介と今後いろんな意味で問題となっていく、「デスノート」「死神」といった物語世界支える前提となるガジェットの基本的なルールを知らせるということがメインとなっているため、「DEATH NOTE」の最大の魅力となっているキラとLの間のルールを共有したうえでの、戦略ゲーム的な攻防戦というのはジャブの応酬はあったもののいまだ本格的には展開されていないからだ。
 ここで原作である漫画について少し触れておくと、「DEATH NOTE」はそこに名前を書き込むとその人物が死んでしまう、つまり遠隔殺人が可能な死神の持つノート(=デスノート)というものが実在するという前提があって、しかもそのノートは架空の存在ではあるのだけれど、それでなにが出来て、なにが出来ないかというルールがはっきりと提示されていて、そのルールは作品内で読者には明確に示される。死神という存在も同じで、それは人間を超えた存在ではあるのだが、ここでは死神の行動でなにが可能でなにが不可能なのかについてのルールもはっきりと提示され、そういう前提のもとで、「デスノート」を所有することになったことで、それを犯罪者をこの世界から排除することに使い、それでこの世界を彼の考える理想の世界に変えていこうと考える夜神月とそれを阻止しようとする探偵Lの闘いが一種の戦略ゲームのように描かれている。
 それだけだとある種の超能力もののSFの形をとって、これまでも描かれてきた「自ら神たらんとした人物とその挫折」を描いた物語の系譜につながる変種というにすぎないのだが、これが設定として新しいのは「デスノート」は超能力ではなくて、特殊な性質を持つツールにすぎず、ここで闘うことになるキラもLも、そして第2部でLの後を継ぐことになるメロやニアといった人物も、個人としては人並み優れた知能を持つということを除けば超能力者のような特別な能力をもっているわけではなく、すべては相手が次にどういう手にでてくるかを読んで、自分の手を打つというチェスや将棋のような特定のルールのもとでの攻防戦の形をとる戦略ゲームとして描かれることだ。
 実は最初のうちはそれはそれほど露わではなかったのだが、そのことは第1部の後半で夜神月が複数のノートを使って非常に複雑なトリック*1を仕掛けるところあたりから、明確に読者の前に示されることになるわけだが、最初にその話が出てきた時にはあまりに複雑でいったいなんのためになにも目的にそんなことをしたのかが、しばらくは全然理解できなかったほどだった。  
 この「DEATH NOTE」自体はミステリではなくて、どちらかというとSFの範疇に含まれるもの*2だとは思うのだが、そういう論理的な構築の巧みさが最大の魅力であるだけに映画の後編がどのくらいそうした本来の魅力に迫ったものになるのかが気になっているところではある。それはシナリオしだいといえるのだが、少しだけ期待ができそうなのはオリジナルのストーリーで持ってきている秋野詩織にまつわる部分に前半ではもっとも複雑な論理が使われていることで、ここにはノートがどういう性質を持つものなのかを過不足なく、解説調にはならないで物語のなかで提示しなければならないという制約があったからだとは思うのだが、原作には登場しない部分がこの前編では一番、デスノート特有の論理が使われているというところに監督、脚本家ともにこの物語の勘所を間違えてはいないとの判断ができ、後半への期待が膨らんだのである。  

*1:ミステリファンなのでそれを最初に読んだ時にはクロフツの「樽」や鮎川哲也の「黒いトランク」のことを思い浮かべた。ただ、理屈は分かるけれどいまだにピンとこないという意味ではカーの「三つの棺」に通じるところがあるかもしれない

*2:論理の構造としてはアシモフのロボット3原則もの、プロットとしてはファウンデーション・シリーズと近いかも