斎藤美奈子「文壇アイドル論」を(文春文庫)を読了。
- 作者: 斎藤美奈子
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2006/10
- メディア: 文庫
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内容(「BOOK」データベースより)
「文学バブルの寵児」ともいえる村上春樹、俵万智、吉本ばなな。「オンナの時代の象徴」となった林真理子、上野千鶴子。「コンビニ化した知と教養の旗手」立花隆、村上龍、田中康夫―。膨大な資料を渉猟して分析した、80~90年代「文壇アイドル」の作家論にして、すぐれた時代論。斎藤美奈子の真骨頂。
きわめてユニークなタッチの文学評論で、どこがそうなんだろうと考えていて分かったのが、これは一種のテクストクリティックなのだが、取り上げる作家を直接分析しているのではなくて、取り上げる作家について他人が書いた文章を分析しているつまり「『作家論』論」なのだ。内容については肯首しかねるところがあるのだが、こういうやり方があったかというのが興味深かった。考えてみれば「アイドル」というのはその人が自立して存在しているわけではなくて、「その人」と「その人がアイドルとして受容されたあり方」の双方を分析しないと分析しきれない。
それでこういう風な体裁になったのだろうかとも思われるが、この本を読んでいて実は以前に似たような手法で書かれた本を読んだことがあるぞと、引っかかって考えていたら、それは井上章一の「美人論」なのであった(笑い)。
「美人論」で井上章一がやったのは「美人についての言説」についての徹底的な文献分析であったが、それを最初に読んだときにははぐらかされた感があったのだが、考えてみれば「美人」「アイドル」などというものには自分はこう思うというような思い込みのみの文章となるのを排するにはこういう間接的な迫り方しかなかった。だからこそ、井上章一の「美人論」は実は「『美人論』論」というメタ評論の形式をとるしかなかったのか、ということがこの斎藤美奈子の「文壇アイドル論」を読んでいる時に逆に氷解したのであった(笑い)。
ただ、残念なのは「『美人論』論」と違って、この「文壇アイドル論」の場合はここで取り上げる村上春樹、俵万智、吉本ばななといった人には「美人」と違って言語テキストである作品というものがあって、当たり前のことだが、その作品自体が言説分析の対象となりうることだ。もっとも、斉藤美奈子はもともと文芸評論家であるわけだから、文学作品の評論の評論だけではなくて、作品自体の評論に入らざるをえないということがあって、それゆえ方法論的な不徹底につながっているのが残念といえば残念だった。
具体的な内容については肯首しかねるところがあると書いたのがどういう点なのかというと、吉本ばななについての評論で、ここで著者は吉本ばなな=コバルト文庫(少女小説)説を展開しているのだが、ここでコバルト文庫の作家として新井素子や氷室冴子の名前を挙げながら、例えばこの2人を同列に論じて、しかも浅田彰の引用をすることで少女漫画からの影響を否定しているのだけれど、ここのところはどうなのか。
ほかにも数人挙げてはいるけれど、そのすべてを読んでいるわけではないのでなんともいい難いところはあるのだけれど、少なくとも新井素子と氷室冴子には同列に論じることはできない大きな差異があるのではないだろうか。もう一度読み直して再検証してみないとはっきりは断言できないのだけれど私は「キッチン」などに登場する人物の造形に関していえば、新井素子や氷室冴子よりは大島弓子との近親性を強く感じたし、ついにこういうものが小説にも現れたという驚きが吉本ばななのファーストインパクトであった。斎藤美奈子は少女漫画はもっとラジカルで、吉本ばななは保守的と決め付けるが、「キッチン」に関して言えば、家族が崩壊した後に他人との間に擬似家族的な関係性が生じるということもそこに登場する母(実は父親)というトランスジェンダー的な人物設定もまさに大島弓子が多用したパターンの踏襲だと思う。吉本ばななはともかく、新井素子、氷室冴子、大島弓子は大ファンだった時期があったので余計にそう思うのである。それに氷室冴子はどちらが優れているとかではなくて、その作風においては吉本ばななよりははるかにその作風の広がりがあるし、確かに「ざ・ちぇんじ!(前編) 新釈とりかえばや物語」はトランスジェンダーではあるけれど、これは原作があるし、そもそも吉本ばななと比べられるようなものじゃないでしょ(笑い)。
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