□出演
岩下徹 垣尾優 筒井加寿子 筒井潤 寺田みさこ (50音順)□アコーディオン
大田智美□ピアノ
野村誠□スタッフ
構成・振付・演出/山下残 作曲/野村誠
振付原案・演出助手/大槻弥生 舞台監督/浜村修司
テクニカルマネージャー/西田聖 照明/福山和歌子(真昼)
音響/宮田充規 衣裳/山下莉枝
宣伝美術/木村三晴 制作/上田千尋
振付家・ダンサーの山下残と作曲家、鍵盤ハーモニカ奏者、ピアニストの野村誠のコラボレーション。山下残はダンスにおける「振付」とはなにかについて意識的に取り組んで作品に生かしているという意味では日本でもっとも先鋭的な振付家である。今回の公演がダンス作品の上演として成功していたかどうかという点になると若干の躊躇もなくはないが、方法論的実験のアウトプットとして、これまでにあまり見たことのないような変わったものを見せられたという意味では刺激に満ちた舞台であったことは間違いない。
「ダンスについて考えてみる」*1という表題でこの大阪日記で以前、何回かダンスというものがなんなのかということについての試論めいたものを書いてみたことがあったのだが、その際にまず問題となったのは「振付」とはなんなのかという問題であった。実はそこで逆説的に浮かび上がってきたのが「即興」とはなんなのか、ということだったのだが、そこには振付(=即興でないもの)という暗黙の前提があったからだ。
山下残のアプローチが面白いのは彼が「即興」と「振付」という2つの概念を対立するものとして見るのではなく、この作品「動物の演劇」で「即興を振付する」という形での「振付」概念の拡張を実践しようと試みたことだ。
古典的な芸術概念からすればアウトプット、つまり結果だけが重要なわけだが、アウトプットとしての作品そのものと同等にあるいはそれ以上にプロセスが重要だということが現代美術においてはよくあって山下残の作品はそういうある種の現代美術作品と似ているということがいえる。この作品は原テキストとして野村誠の「ズーラシアの音楽」が使用されている。普通の場合であれば振付家がこの音楽に合わせてダンサーに動きをつけていく、ということになるわけだが、この「動物の演劇」ではこの「動きをつけていく」という狭い意味での「振付」を山下残ではなくて、振付原案・演出助手の大槻弥生が担当している。
つまり、ここでは一度野村の音楽から引き起こされたイメージに基づき、大槻が振り付け、それを個々のダンサーに振り移して、身体に落とし込んだ「振付作品」というのがまずあって、ここから先は実際の手順にはよく分からないところがあるのだが、舞台上で個々のダンサーはそれをそのまま踊るのではなくて、それぞれが即興により原振付を崩し、そこに自分の動きを即興的に付け加えた動きを踊るということになるらしい。
「らしい」と書いたのはおそらく山下が行う「振付」とはこの部分のことで、ここではダンサーに原振付のうちどの部分を生かし、どの部分が崩してもいいのかということがこの作品ではかなり厳密に決められ、プロトコル(命令)としてそれをダンサーに与えるのが山下の担当する作業だと思われるのだが、通常の「振付」と異なり、そこでどういうことがなされたのかはアウトプットとしての作品からは不可視だからだ。
特に今回の観劇で決定的であったのは舞台を一度しか見られなかったことで、もし2回以上この舞台を見ていればその2回の舞台の偏差からどの部分に山下がどのような制約を課しているのかがある程度想像できるかもしれないが、一度だけこの舞台を見ただけではそれは分からない。
ただ、興味深いのはそうであってもこの舞台からは明らかに通常のフリーインプロビゼーションとも振付作品とも違う匂いが感じられることだ。(この項続く)
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