どらま館ショーケース2019@早稲田小劇場どらま館
ゆうめい「粘土ごと」
作・構成・出演・美術:池田亮
作・演出・出演・美術:田中祐希、小松大二郎、五島ケンノ介、他
どらま館ショーケース、30分ぐらいの時間を頂きました。ゆうめいって、何をしてるのかをお観せします。「へー」だったり「うそつけ」だったり「バーカ」だったり、いろいろと心の中でご意見いただけますと幸いです。よろしくお願いいたします。
スペースノットブランク「共有するビヘイビア」
演出・出演:小野彩加、古賀友樹、中澤陽
協力:プリッシマ
製作:スペースノットブランク「共有するビヘイビア」では、私たちが日常的に行なっている作品の制作手法を観客たちと共有し、生み出された作品を世界へと共有します。行動としての制作を分解し、そこから生まれる作品を観客たちと共有することで、観客たちが私たちの作品を追体験しながらそこに実在する舞台という空間の一部を想像力によって担うことになります。作品が作られ、すべての地点に於いて作品が作品であり続け、作品が舞台と観客席を通過した後にも、作品として共有され続けていくものとして、どのような変遷を辿るのかを探究します。
関田育子「柊魚」
作・演出:関田育子
出演:青谷奈津季、黒木小菜美、小久保悠人、長田遼、我妻直弥
制作:長山浩子、馬場祐之介
協力:久世直樹
私たちはいま、有用性の中で規定された距離感などの知覚、あるいは物事に対する遠近法を一度解体し、全てのものを等価に把握するような新たな視点を構築する演劇作品の創作を試みている。この演劇を『広角レンズの演劇』と名付ける。
STAFF
舞台監督:黒澤多生
照明:小駒豪
音響:櫻内憧海
装置:溝口敦士
舞台協力:海老原翠
宣伝美術:内田涼制作: 黒澤たける
web制作:長山浩子
劇場制作:宮崎晋太朗
協力:シバイエンジン
早稲田小劇場どらま館運営協議会
2017年にスタートした「どらま館ショーケース」は、若手の舞台芸術団体3〜4組がそれぞれ30分程度の短編作品の上演を連続して行なうショーケース公演だ。
特に今回選ばれた3集団はいずれも昨今一部論者らの熱烈な評価で注目されている気鋭の劇団。ちょうど同じ時期にこまばアゴラ劇場で「これは演劇ではない」フェスティバルが開催されており、これにも注目の若手劇団が参加しているが、両者を合わせて見れば最新の現代演劇の様相がうまい具合に俯瞰できるという風になっているのではないか。
ゆうめいは面白いという世間の噂は耳にしていたが、舞台を見るのは初めて。極めてオーソドックスな群像会話劇だが、泥酔した芸術大学の老教授など人物造形のあり方はこれまであまり見たことがないもので面白かった。パワハラによる学生と教授の対立をモチーフとして扱っているが、これは作者の出身校で実際に起こったことを関係者からの聞き取り取材に基づき作品にしたということのようだ。そういう意味では実体験を作品にすることが多いハイバイとの近親性も感じた。
教授役を演じた俳優がこの劇団には結びつきにくいような年格好に見え、演技も個性的だったので気になっていたのだが、アフタートークで分かったのは作演出の池田亮の実の父親で、これまで演技経験はなかった人だというのにまたびっくり。
スペースノットブランクも以前三鷹SCOOLで小品*1を見たことはあったが、まとまった作品を見たのは今回が初めて。ダンサーである小野彩加の身体表現を残りのメンバー(古賀友樹、中澤陽)のセリフにより演劇的に構造化していくとい構成。
物語や劇世界を構築するというよりは公演ごとに比較的に自由に提示されるモノローグ的な言語表現の部分に言語感覚の面白さがあるかもしれない。この日の舞台であれば今回のショーケースやこれまでに参加したコンクールなどに言及した前半部分はメタ的な言辞ともいえるが、それに続いて語られる、アーティスト「WANIMA」についての一連の会話がバカバカしくもおかしい。観劇中は大いに笑ったのだが、見終わって気になったのは全体として揶揄的な空気感である。WANIMAは人気アーティストではあるけれど、おそらくその主要な受容層はスペースノットブランクの舞台を見にくるような人とは明らかに違っている。
それを前提としたうえで、このバンドを好きで集まってきている人たちは以前ORANGE RANGEが好きだったファンの多くが、GReeeeNに移り、そこからまた移ってきたファンの人気を集めているようなバンドという説明をしていて、その説明の仕方は面白くはあるのだが、私自身について振り返ればORANGE RANGEは結構好きだったが、GReeeeNにもWANIMAにもあまり音楽としては興味が持てないし、音楽性が似ているとも思えない。
ここで感じるのはスペースノットブランクがおそらくこの3バンドを共通してあまり評価をしてないのではないかということだ。WANIMAという語感には確かに笑える部分があり、作品はそれをうまく利用しているのだけれど、揶揄的に扱っている部分があるのではないかと思った。そういう表現は以前からあって東京の演劇界においてはある一定の観客の共感を呼ぶものであると思うのだけれど……、そういうものを観客と一緒に笑いながらも素直には肯首しかぬる部分も感じる。そういう演劇のように思われた。
関田育子はマレビトの会の参加演出家のひとりとして参加している演出家。マレビトの会以外にも今回のように関田育子という個人の名義での演劇活動をしており、フィスティバル/トーキョーでの若手演劇ショーケース『実験と対話の劇場 - 新しい人 / 出来事の演劇 -』で「驟雨」という作品を見たほか、三鷹SCOOLで上演された「夜の犬」も観劇している。それらの作品に対する一部関係者の評価は高いのだが、私は作品自体は面白いのだが、作風がきわめてマレビトの会と酷似していることが気になって、手放しで評価するものかどうかを躊躇している。
もっともマレビトの会の演劇自体はそのオリジナリティーにおいても独自の演劇手法についても高く評価しているのだから、マレビトの会を評価するのだったらその一部を構築している関田育子がマレビトの会と同趣旨のことを行うことも同等に評価していいのではないかとある人から指摘されたことがあるのだが、いまだにどのように見なすべきかを決めかねているのだ。
*1:小品と書いたが、長さは今回のものより長かったと指摘を受けた。なぜそういう印象になったのだろうか。