下北沢通信

中西理の下北沢通信

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青年団リンク キュイ『まだなにもはなしていないのに』音響上演@アトリエ春風舎

青年団リンク キュイ『まだなにもはなしていないのに』音響上演@アトリエ春風舎

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波乱万丈とも言えそうな紆余曲折を経ての綾門優季の作演出による音響上演である。アトリエ春風舎の劇場空間の中央部分がカーテン状の幕により、3つの部屋のような空間に仕切られている。それぞれの部屋にはベッドやちゃぶ台のような円形の机、本棚、掛けられた洋服、飲みものの入った段ボールなどさまざまな生活に必要な品物が配置されてあるが、どうやらこれは音響上演の作り手である綾門優季の部屋をそっくりそのままここに運んできたらしいということが、次第に分かってくる。
「次第に」と書いたのは会場に入る際に小指程度の大きさのライトをひとつづつ持たされるのだが、中はけっこう暗くて最初は幕と幕の間から部屋のようなものがあることぐらいしか分からないのだが、入り口から見て反対側まで回り込んでみるとそこにはノートの切れ端が置いてあって、そこにはこの『まだなにもはなしていないのに』の登場人物の名前とそれぞれのキャラ説明が書かれていたり、部屋の壁のように置かれた段ボールにこの作品のセリフが書かれていて、それがそこここに貼り付けられていたりする。実は会場に入った時には私は最初の入場者だったこともあり、そこここに貼られた言語テキストには気が付かないで通り過ぎていたのが、人が出入りし始めると初めて気が付き、今度はそれを探してみて回ることになった。
 入場者が一通り入り終えたころになると今度は会場のそこここに仕掛けられたスピーカーから俳優( 和田華子=青年団、森谷ふみ)が演じる登場人物の声が聴こえてきて、人物が入れ替わるたびに声の出所が変わるという仕掛けはあるけれども、私たち観客はまるでラジオドラマを聴くようにそれを聴いてようになる。全体を通じての趣向が「音響上演」ということなのであろう。
 作者である綾門優季は今回の形式を演劇の一種である「音響上演」と位置付けたようだが、それにはこうして会場が設営されたのが普段は劇場空間として使用されているアトリエ春風舎だからであって、まったく同じ内容のものであってもこれが設営されているのが、もし美術館やギャラリー施設の中であれば私はほぼ間違いなく「これは現代美術のインスタレーションである」と断じたはずだ。そういう意味ではこの作品のコンセプト自体は限りなくある種の現代美術に近いし、現代美術にも相当精通しているはずの綾門はそういうことを分かっていて、その上で「音響上演」という形式を提唱したのだと思う。
 実は今回の「音響上演」の現場を劇場で見て、思い出した企画があった。それは昨年コロナ禍で開催された「吉祥寺からっぽの劇場祭」(チーフ・キュレーター綾門優季)で企画された「奈落暮らし」*1という企画である。これはチーフ・キュレーターだった綾門優季本人が吉祥寺シアターの奈落で、劇場祭の期間中、ずっと暮らし続け、そして、劇場祭で起こったことをなるべく緻密に、言葉で伝え続けるというもので、これも現代美術的な文脈で言えばアートパフォーマンスに近いものであると解釈することができる。当初は7月23日~8月9日の実施期間中、開催プログラムのレビューや劇場祭で起きたことを随時記録し特設ページに公開。過去の上演作品映像を鑑賞し、同シアター15年分のアーカイブレビューも執筆する計画であったが、劇場祭の主催者であり実行される様々な企画に関係する必要のある綾門がこれを継続するのが、事実上困難であることが分かり、企画を途中で断念する判断をせざるをえなかった。
 今回は舞台美術として持ち込んだ家財道具と一緒に綾門が劇場に住んでいるわけではないとは思う*2し、少なくとも作品コンセプトには住むことまでのことは含まれてはいないようだが、途中中断せざるを得なかった「奈落暮らし」のリベンジ的な意味合いも今回の「音響上演」にはあったのではないかと思われてきたのだ。
 この2つの企画を通してみても、綾門優季がポストコロナの時代の演劇あるいは芸術のあり方の模索に重ねているという意味では現在もっとも前衛を進んでいる演劇作家であることは間違いないと思っている。一昨年こまばアゴラ劇場で開催したフェスティバル「これは演劇ではない」の共同主催、昨年の「吉祥寺からっぽの劇場祭」、そして今回の企画と規模の大小はありこそすれ現代美術的な文脈でも刺激的な試みの仕掛け人であり、劇作家としても優れている綾門だが、若手を中心とした多数のアーティストのコーディネイターとしても卓越した手腕を発揮してきている。どこか彼のような能力が存分に生かせる役割(芸術監督かアートディレクター)を与えてくれる公立の劇場が出てこないだろうか。青年団演出部なので上の世代の演劇作家へのつながりもあるはずで、極めて適任だと思うのだが。
  

作・演出 綾門優季
※演出の得地弘基氏は、体調不良につき、降板いたしました。


突然の発表となり、申し訳ありません。協議に協議を重ね、青年団リンク キュイ『まだなにもはなしていないのに』は、音響上演として生まれ変わることになりました。
様々なことがぐるぐるした結果、アトリエ春風舎に私の自宅にあるもののすべてを持ち込み、私が演劇を始める前の、ただ脳内に喧しいほど言葉が溢れ続ける、ひきこもりだった頃を扱った戯曲について、展示形式でみなさまにお楽しみいただくことで、私の東京の人生にいったんの区切りをつけ、東京から離れることにしました。…といっても、新しい職場が東京なので微妙なところなのですが、少なくとも、いま住んでいる家は引き払います。
何がどうなったらそうなるのか。謎の着地点ですね。
これからも演劇は続けていきますが、こんな奇妙なことをするのは、最初で最後かと思います。
発狂しそうな2020年度を締め括るに相応しい、クレイジーな作品を仕上げられるよう、尽力いたします。
よろしくお願いいたします。

綾門優季

青年団リンク キュイ

専属の俳優を持たない、プロデュース・ユニットとして活動中。劇作を綾門優季が担当し、外部の演出家とタッグを組みながら創作するスタイルを基本としている。戯曲は「震災、テロ、無差別殺人など、突発的な天災・人災を主なモチーフとすること」を特徴とする、独自の世界観を構築している。2013年、『止まらない子供たちが轢かれてゆく』で第1回せんだい短編戯曲賞大賞を受賞。2015年、『不眠普及』で第3回せんだい短編戯曲賞大賞を受賞。
出演

声の出演

和田華子(青年団
森谷ふみ(ニッポンの河川)

スタッフ

音響:梅原徹
照明プラン:黒太剛亮(黒猿) 
照明オペ:渋谷日和(悪い芝居)
舞台監督:黒澤多生(青年団
舞台写真:三浦雨林(隣屋/青年団
記録映像:三浦翔
WEB:犬飼勝哉
制作:黒澤たける<<

*1:note.com

*2:明らかにはしてないがパンフには住んでいた住居を引き払うともあるので、住んでいた可能性は否定できない。