下北沢通信

中西理の下北沢通信

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松田龍平のダメ男ぶりが光る、塚圭史野新演出「近松心中物語」。KAAT神奈川芸術劇場プロデュース「近松心中物語」

KAAT神奈川芸術劇場プロデュース「近松心中物語」

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作:秋元松代
演出:長塚圭史
音楽:スチャダラパー
出演:田中哲司松田龍平笹本玲奈石橋静河綾田俊樹、石橋亜希子、山口雅義、清水葉月、章平、青山美郷、辻本耕志、益山寛司、延増静美、松田洋治蔵下穂波、藤戸野絵、福長里恩/藤野蒼生(子役 Wキャスト)朝海ひかる石倉三郎

近松心中物語」秋元松代脚本、蜷川幸雄演出、平幹二朗主演により、1979年2月に帝国劇場で初演され、以後東宝の人気演目としてキャストを変更しながら、1000回以上上演された。日本の現代演劇としてはもはや古典といっていい演目であろう。
今回は白井晃から引き継いで KAAT神奈川芸術劇場の新たな芸術監督に就任した長塚圭史が演出。音楽にはスチャダラパーを起用。メインキャストの梅川忠兵衛には田中哲司笹本玲奈、これと対比されるもう一組、古道具商傘屋の婿養子・与兵衛と箱入り娘・お亀には松田龍平石橋静河というフレッシュな顔ぶれによるものとなった。
「梅川忠兵衛」として知られる近松門左衛門作の人形浄瑠璃「冥途の飛脚」を下敷きにしているため、蜷川演出はそういうことを意識して、ところどころに歌舞伎・人形浄瑠璃の様式性を取り入れていた記憶があるが、長塚圭史演出は口語的な台詞回しが特徴。特に平幹二朗は最終盤の梅川忠兵衛による心中場面はまるで歌舞伎のように外連味たっぷりに演じていたが、田中哲司の演技は対照的にあっさりとしていた*1*2
 蜷川演出がどのようなものであったかというと平幹二朗太地喜和子による心中場面が映像として残っている*3のでこれを参照してもらいたい。まず忠兵衛の「もしも来世というものがあるなら、必ずお前に会うぞ」というセリフを平幹が朗々とした口調で朗誦し、梅川が「わたしもーーわたしもーー」と応じたところから森進一が歌うテーマ曲「それは恋」のイントロが流れはじめ、そこから先の一連の心中の所作は歌の醸し出す情感を背景に歌舞伎的な演出を存分に取り入れて進行した。
それに対して、今回の長塚圭史演出は音楽担当がスチャダラパーということもあり、情感あふれる歌もなく、そういう部分は比較的あっさりと進んだ。ここを荘厳な悲恋の場にしなかったのは長塚は同郷の忠兵衛、与兵衛の友情とそれゆえにこの二人がともに役人に追われる身となって、心中する羽目に追い込まれてしまうということの方の悲劇性を物語の中心においているからではないかと思う。
 忠兵衛も与兵衛も運命に翻弄され悲劇的な結末を迎える男というよりはただただダメ人間に見える。特にダメ人間のダメぶりを迫真に演じたという意味では松田龍平の与兵衛はそのもののようで、これほどダメ人間役が似あう俳優もいないのではないかとも思えた。当たり役と言っていいかもしれない。
 相手役のお亀を演じたのが石橋静河松田龍平が出演し、評判を呼んだテレビドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」で松田演じる田中八作にストーカー的に執着し言い寄る役を演じた女の役を演じたばかりだ。この配役が面白く、心中に失敗し幽霊になっても与兵衛に付きまとうお亀は石橋がドラマで演じた役柄と重なる部分もある。石橋自身はテレビはともかく、舞台ではKAATで今年上演された岡田利規×内橋和久『未練の幽霊と怪物―「挫波」「敦賀」―』にも出演した。注目の女優と言っていいが、「近松心中物語」へのキャスティングにはテレビドラマを意識した部分はあるに違いないと考えている。
 与兵衛への執着を必要以上に熱演するとただただ怖い役柄になりかねないところを喜劇的にも見えるようにうまい距離感で演じてみせてなかなかの好演だったのではないか。
 一方、こうした演出プランで割を食った感があるのが忠兵衛の田中哲司。忠兵衛もお金もないのに先の目算もつけずに梅川に入れ込んで、仕事がらみの人の金に手をつけてしまうことからダメ人間としかいいようがない。おそらく、蜷川、平版では原作のそうした設定を心中場面の演技、演出の力だけで強引に
「歴史に残るような悲劇が起こった」という印象にひっくり返してみせているわけだが、それには平の卓抜な演技力だけではなく、様式化された演出、情感あふれた音楽などの総力戦が必要だった。
 それゆえ、そういうものを見せることがそもそも想定されていない今回の演出ではどうしても情けない男が女を救うこともできずに心中で死んでしまったという印象になることが否めず、そうすると「情けない男」という部分のイメージが重なった場合、どうしてもより情けない松田龍平に軍配が上がり、田中哲司の印象が薄くなることになってしまうからだ。さらにいえば、これはほとんど演出および作品解釈の問題となるが、蜷川=平幹的なものを求めてこの舞台を見に来た人がいたとすればフラストレーションを抱えるであろうことは必定だからだ。