2000年以降の日本現代演劇の新たな方向を代表する劇作家としてシベリア少女鉄道の土屋亮一とヨーロッパ企画の上田誠を取り上げたい。以前に本誌で岡田利規(チェルフィッチュ)と三浦大輔(ポツドール)を取り上げたが彼らと比べても土屋らが新世代に入る気がしてならない。岡田らが平田オリザに代表される90年代演劇の批判的継承からスタートしたのに土屋らはまったく異なる立脚点からこの演劇の世界に登場したと思われるからだ。
シベリア少女鉄道(=土屋亮一)がほかとは大きく異なるのは彼らにとっては「演劇」がある仕掛けを実現するための前提でしかないことだ。その舞台を「メタ演劇」と呼ぶ人もいるが、メタ演劇とは「演劇についての演劇」である。一度そこで上演されている「演劇」から外にでて、その位置から「上演」を見直すという共通点はあるが、シベリア少女鉄道の場合はメタレベルでの立ち位置が演劇ではない。そこに大きな違いがある。
旗揚げは2000年。第2回公演「もすこしだけこうしてたいの」(2001年)以降、すべての作品を見てきたが今現在でも空前絶後の問題作・代表作と思うのが「耳をすませば」(2002年)である。まず3つの短編芝居が順番に上演される。それが終わって一度暗転し、第二部が始まる。最初は舞台で何が始まったのかよく分からない。順番に上演されていた短編が今度は同じ舞台上で同時に上演されるからだ。あるところまでいった特に観客は今まで以上に驚嘆する。途中で舞台後ろの幕に某有名アニメが無音のまま映され、芝居はその前で上演されるが、芝居の台詞がすべてそのアニメの「アフレコ(吹き替え)」であることが判明するからだ。この舞台の最後「耳をすます」と文字通り演劇は消失する。大魔術ショーのような仰天動地の大トリックであった。
その後も「デジャ・ヴュ」(2002年)=前半に起こった事件が後半解決する刑事ものだが、前半と後半の台詞(台本)がすべて同じ。「二十四の瞳」(2003年)=舞台上に仕掛けられたビデオカメラで撮影された役者の演技が後半、舞台背後のスクリーンに映し出されるが、その俳優の姿と映像のカット割りがすべてミュージッククリップの映像と合致する。「天までとどけ」(2004年)=舞台がすべてテトリスの画面となり埋めつくされてしまう。大胆な発想を駆使した作品を連発した。その作風は大胆な叙述トリックを駆使する本格ミステリ作家(あるいはほめ言葉としてバカミス作家)になぞらえることができるかもしれない
最新作「永遠かもしれない」(2007年)でもその勢いは衰えを見せない。この舞台では冒頭で出演を控え、誰もいない劇場でもの思いにふける漫才師が真面目なタッチで描かれる。漫才師、藤井耕平(前畑陽平)は過去に自動車事故で恋人と実姉と漫才の相方を失い、心に深い傷を負っている。亡くなった彼らは妄想のように頻繁に甦り主人公の前に現れる。ここのところはちょっとジェイムズ・サーパーの「虹をつかむ男」やそれを下敷きにしたウディ・アレンの「ボギー!俺も男だ」を思い起こさせるが、実はこうした設定がこの後展開していく舞台の重要な鍵を握ることになる。妄想中の登場人物を彼らがすべて早替わりで演じていくことになるからだ。
舞台では劇中漫才として耕治と彼と新コンビを組む坂野小梅(篠塚茜)の漫才が披露される。この漫才のネタの最中に予想もしないキッチュな物語が闖入してくる。忠臣蔵や「タッチ」を思わせる高校球児の青春物語や「CAT’S EYE」や時間旅行もののチープなSF、「海猿」、「白雪姫」、「サザエさん」などのパロディが展開される。重要なのはこの次から次に展開されるベタな物語群がいずれも漫才のいわゆる「のりつっこみ」の「のり」に当たる部分が妄想的にビジュアル化され肥大化したものだということである。
それぞれに展開される物語や場面はいずれも工夫され、面白く見られはするが、本質はそこにはない。耕平の妄想のなかで展開する物語のなかに巻き込まれてしまった小梅が漫才を進行させるためにその物語を終わらせてその結果「なんでやねん」とつっこもうと奮闘する。しかし小梅の頑張りに反して物語は次から次へと逸脱を繰り返す。しかもまどろっこしいばかりに執拗に反復され、遅延が繰り返される。そしてそれが観客に「この芝居は永遠に続くかもしれない」と思わせ、それが表題につながっていくわけだ。
一方、ヨーロッパ企画の上田誠も興味の中心が物語より自らが構築した構造の提示にあるというという点で土屋と近い感性を持つ。それがもっとも顕著に顕れているのが「Windows5000」(2005年)である。ヨーロッパ企画が「シチュエーションコメディを得意とする劇団」などと以前から言われてきたのに妙な違和感を感じていたが、全然違うのがこの作品ではっきりした。近未来。閉じられた空間の覗き見ができるソフトウエア「Windows5000」を駆使して、奇妙な集合住宅を覗き見する2人の男を描いている。その集合住宅の間取りがまた変なのだが、それを舞台上に実体としてビジュアル化させた舞台美術がまたまたユニークであった。
いったいどういう発想からこんな変なことを思いついたのか。舞台の終わった後、上田に確かめたところ、「パソコンOSのWindowsをはじめ、パソコン上で広がるウインドウを面白いと以前から考えていて、それを実際の住居の窓と考え合わせて、パソコンをクリックするとそこから窓の中が覗き込めるソフトのようなものがあったら面白いと考えたのが出発点だった」らしい。舞台上で展開される「Windows5000」という覗き見ソフトの実際のビジュアルはおそらく、Google earthから来たのではないかと想像されるが、「ロードランナーズ・ハイ」でのファミコンゲームといい芝居とはあまり関係ない要素を見事に舞台に組み込んで、それを具現化してしまうところにこの集団の既存の演劇とまったく違う発想がある。
従来の演劇がどういう内容を伝えるかに作者の関心が向いていることが多いのに対し、上田の関心は舞台美術や映像などの仕掛けも含めそれをどういう形式で伝えるかに向いている。そこから「Windows5000」やある研究所で起きた事件を描くために視点がその周囲を周回していき同時多発に起こっていた出来事をコマ分割のように見せる「囲むフォーメーション」といった異色の作品も生まれた。シチュエーションコメディの代表とされた「サマータイムマシン・ブルース」にしても上田の関心は物語よりは時間旅行にともなうリモコンの複雑怪奇な動きを脳内で構築するパズル性にあるように思われる。
ここまで考えてきた時にふと思いついたことがある。欧米のリアリズム演劇に起源を持つ現代演劇においてはアウトサイダーと見える彼らの発想だが、日本においてこうした発想は実は珍しくないのではないか。鶴屋南北らケレンを得意とした歌舞伎の座付き作者は似たような発想で劇作したんじゃないだろうか。舞台のための仕掛けづくりも彼らが拘りもっとも得意としたところでもあった。その意味ではこの二人は異端に見えて意外と日本演劇の伝統には忠実なのかもしれない。
(「悲劇喜劇」寄稿 http://altmetrics.ceek.jp/article/ci.nii.ac.jp/naid/40015559674)