下北沢通信

中西理の下北沢通信

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維新派「聖・家族」@栗東芸術文化会館さきら

 今回の公演「聖・家族」は1本の芝居ではなくて、過去の公演の場面の抜粋や新作パフォーマンスをちょうどバレエ・オペラでいうガラ公演風にまとめたものだ。だから、作品としての出来栄えをうんぬんされると困る部分があるのだが、普段は野外や大ホールでの公演が多い維新派の舞台をこんなに至近距離で見られるというのは滅多にない機会で、それだけにこれはなんと贅沢な経験だろうかと思ってしまった。
 冒頭は「アパッチ」。「青空」という作品の冒頭に近い場面である。少年たちが大阪砲兵工廠跡地の襲撃を計画し実際にそれを実行するようすが語られるが、この場面にはヂャンギャン☆オペラのスタイルで単語的な断片フレーズを群唱するだけではなく、ちゃんと会話的な台詞もあり、当時の作風はかなり演劇的なものであったことが窺える。実はその後に今回の新作である「呼吸機械」という場面が続くのだが、こちらはこれだけ単独で見せられればダンスと言わざるを得ないような群舞である。内橋和久の音楽に合わせて皆で足を踏み鳴らす維新派版タップダンスのような足音と動きながらパフォーマーが発する息づかい、呼吸の音を身体の動きとともにあたかも音楽のように聞かせるというもので、私が最近の数作品にあたって「動きのオペラ」と呼んできた作品の進化形である。この二つの場面は連続して見ると非常に対照的で、維新派特有とされるヂャンギャン☆オペラという特異な表現スタイルのなかにも意外と大きな表現のバラエティーがあることに気がつき、驚かされる。
 今回の新作「聖・家族」については当初、秋の野外での新作のプレ公演としてその作品の一部分を先行上演のような話もあったが、これはどうだろうか。「nostalgia」から続くことになる三部作は「<彼>と旅する20世紀三部作」の副題のように時間的にも空間的にも壮大な広がりを感じさせるスペクタクルになるはずなのだが、今回の「聖・家族」は打って変わって、維新派のこれまでにはなかった室内劇的な空間を表現したもので、その意味では「これもこれまでになかった維新派の新しい展開になりそうで面白いのではないか」と思った。だが、それは逆に言えばこれらのシーンはこのままでは秋の新作 の一部にはなりそうにないな、とも思ったのであった。
 特にそれが顕著に感じられたのは「家族の食卓」と題されたシーンである。ここでは舞台上に正面奥、下手上手手前と3つのパフォーミングエリアが設定されて、そこにはそれぞれ役者が配置されていて、それが交互にスポットが当たり、進行していくのだが、全体としてのマクロなイメージに加えて、それぞれのエリアで細かな芝居が展開されるというような作りになっている。これまでの維新派に比べるとすごく細かい芝居を役者に要求している。なかでも「家族の食卓2」の舞台下手のなぜだか食卓に置かれた赤いハイヒールを目の前に困ったような表情で会話を続ける2人組などはコミカルで諧謔味に溢れていて、思わず笑いをさそってしまいような感覚があるのだが、こういうのもこれまでの維新派にはあまりなかったことで、これは明らかに舞台の大きさと表現される内容による「小劇場」ならではの表現ではないかと思ったのである。
野外あるいは大劇場の公演との大きな違いは群舞などの集団演技において個々のパフォーマーの顔がよく見え、それぞれの個性の違いなどがはっきりと分かることである。また、例えば「呼吸機械」でのパフォーマーの発する息遣いや足音などが大劇場などではマイクで音を拾ってPAを通さざるえなかったものが、直接舞台上の音が客席に聴こえるというのも大きな違いである。今回上演された舞台(三百−四百席程度の劇場)にこれだけ大人数のパフォーマーが出演してそれを生で見るということにも普通の演劇にはないような臨場感溢れた迫力があるし、マイクで拾ったりした場合は単なる群唱としてしか聴こえないのが、この台詞は誰がどこで発したいうことが客席にいても特定できることで、維新派の舞台に今まで以上の立体的な「もの」として迫ってくる印象を受けた
 維新派は以前の祝祭色の強い野外劇から変わりつつあるという風にこのところ劇評などの場で書き続けてきたが、それでも例え劇場公演だとしても維新派=大規模な舞台の印象がまだまだ強かった。ところが、今回小劇場での維新派を見てみて、目から鱗というか新たな発見をした。小劇場の維新派には小劇場でなければ出せない魅力があり、これは今後に向けてこれまでとは少し違う新展開のヒントになりうるのではないかとも思ったからである。