マレビトの会「島式振動器官」(アトリエ劇研)を観劇。松田正隆の新作。自ら演出も手掛けるのは時空劇場を解散して以来7年ぶりのことである。
松田は「海と日傘」に代表される長崎三部作のような日常のディティールの描写から立ち上げていく作品を最近はあまり書かなくなっていて、あまりそういうことに関心が向かなくなっているのかなとさえ、思われるところがあった。松田が脚本を手掛けた映画「美しい夏キリシマ」を見て、今後はひょっとするとこういう古典的なタッチのものは映画、演劇ではもう少し実験的で前衛的なものをという風に書き分けていくのかもしれないと考えたのだが、「島式振動器官」はまさにその予感を裏付けるような舞台だった。
飛べない巨大な鳥の跳梁する港町。離島出身の犬男は鳥ハンターとなって生計をたてた。住民たちによる不気味な鳥の駆除は秘やかに行われていたのだ。幼馴染みと称する兄妹が、鳥の嘴に胸を刺し抜かれた瀕死の犬男のもとに訪れる……。
こんな風にあらすじを記してもむなしくなるほど物語はこの舞台において重要ではない。提示されるのは奇怪なイメージの断片のコラージュで、その裏側に首尾一貫した筋立てはない。
複数の人物が登場するが、これは会話劇ではない。会話はともすると詩的なモノローグに逸脱し、そこから具体的な状況を読み取るのは難しい。その中で「巨大な鳥「鳥ハンター」「耳の手紙」「振動する恥丘(=地球)」などといった現実離れしたイメージだけがひとり歩きしていく。
松田のつむぎだす言葉が記号的に作用して観客の側にそれぞれの想像力を喚起していくつくりはシュールレアリスムの絵画を思わせる。「巨大な鳥」などそこで提供されるそれぞれのイメージはなんとも意味ありげでメタファーとしてその裏に寓意を宿してもいそうだ。例えば耳を切った主人公、犬男はゴッホを連想させるから、「鳥」はゴッホの発狂直前の「麦畑」に現れる「黒い烏」、不安と死の象徴などと翻訳することも可能だが、それは一意に決定されるというよりは恣意的な記号として見る側の自由に委ねられている。
むしろ、ここでは意味よりも観客それぞれの想像力のなかで屹立する絵画的(ビジュアル)イメージに重点は置かれているのだ。日常のディティールを巧妙に排除していく作品へのアプローチは長崎三部作などで松田が行ってきた日常的な会話の隙間から非日常や隠された関係性を垣間見せる「関係性の演劇」とは対極的な方法論だ。
紡ぎ出されるイメージにはマックス・エルンストやキリコの絵を思わせるような悪夢に近い不気味さがある。こういう不気味さは「月の岬」「雲母坂」のようなこれまでの松田の作品にも断片的には現れており、心の抱える暗闇の象徴のような形で表現されてきた。
個々に対しての解釈を放擲しても作品全体を覆い尽くすイメージの連鎖は濃厚に「死」を連想させる。「死」はこれまでの松田作品にとっても最重要なモチーフであり、先に挙げた暗闇も「死」と連関するような形で語られたが、「関係性の演劇」においては「死」はあくまでも「関係の不在」として語られないことで示されるしかなかった。それがこんな風に直接的に表現されたのはおそらく初めてのことで、まだここでは表現は尽くされたものではないが、この新たな取り組みがどんなものを生みだすかは今後も見守りたいと思った。
P.A.N.通信 Vol.51掲載