下北沢通信HPの新企画としてスタートした気鋭の演劇人に対する連続インタビュー(これは下北沢通信ホームページのオリジナルコンテンツとして収録したものです)
第3弾はク・ナウカの宮城聰です。演劇雑誌JAMCiにあしかけ5年ほどかかわってきたのですが、その中で一番、刺激的な経験であったのは宮城聰、上海太郎、安田雅弘の3人による鼎談*1の収録でした。平田オリザの登場以来、「関係性の演劇」*2に向かって90年代演劇の様式は雪崩を打っていった感があるのですが、一部の感情的(ということはかなり的外れの)反発を除けば、有効な反論というのがほとんど見られない中で、身体表現に基礎を置いた演劇の立場から理論的に明確な批判ができる数少ない論客がこの3人だと思うからです。そして、身体表現においてダンスと演劇の境界とはなにかについての論議も私にとっては非常に興味深いものでした。その中でも宮城の論旨は非常に明確で、本当は宮城に平田に対抗して演劇論を執筆してもらいたいところなのですが、当面、それが実現しそうにないことを考えるとせめて宮城の演劇論的なことをインタビューの形で聞き書きして伝えたいというのが以前からのひとつの目標であり、今回のインタビューはまだ不十分ではありますが、そのとば口くらいにはなったのではないかと考えています。(インタビュアー/文責は中西理)
■映画、文学、音楽などジャンルは問いません。宮城さんが影響を受けたあるいは好きなアーティストを挙げていただきたいのですが。
(宮城聰) 影響を受けたアーティストといえばまずはソプラノ歌手のジェシー・ノーマンという人ですね。この人がず抜けて影響を受けてるし、尊敬しているし、日本公演があればかならず見に行きますから。気になるという意味ではプリンスです。元プリンス(The artist normaly known as PRINCE)ですか。プリンスはなんで気になるかといえば一応、ピーク時というのはものすごく才能があって、当然べらぼうにレコードも売れて大衆的人気もあったわけですね。だけどそのライブとかを見に行くとパフォーマーとしての一番大事なものを持っている人だったと思うんです。その一番大事なものというのはジェシー・ノーマンにも共通していて、それがものすごくひらたい言い方をすれば目が覚めたばっかりの子供のように驚きながら世界を見ている。一曲、一曲うたいながら新鮮なものとして世界を見ている。小さい時にだれでも経験したことがあると思うんだけど、親戚の家に泊まって朝、目が覚めた時にすごく驚くんだけど、ああいうような眼差しでつねに世界を見ている。僕はジェシー・ノーマンとプリンスがそういう意味で同じくらい至高のパフォーマーだと思っていたのだけれど、ノーマンの方はそのクオリティーをまったく落とすことなくどんどん世界を深めているのに対して、プリンスの方はジャンルがちょっと違うこともあってCDを出してもセールスが前ほどでないとかいろいろあって難しいところに入ってきた。ノーマンはクラシック音楽だからある意味では安定した世界でエスタブリッシュされている。もちろん、世の中ですでに用意されてる階段をノーマンが登っているわけではないんだけど、独自に道を歩んでいてもオペラ歌手としてのポジションは非常に安定しているんだけど、プリンスの場合、人気がなくなればただの人という危ないところでやっているから、いったい彼はどういうところに行くのかというのが気になるんです。
(中西)ジェシー・ノーマンが好きだというのは技術とか以上のものでどこか琴線に触れてくるところがあるということなんでしょうか。
Jessye Norman - Ave Maria (Schubert)
The Artist Formerly Known As Prince
www.youtube.com
(宮城)クラシックのリート歌手というのは基本的には技術はある線以上いっていないと話しにならないんだけど、それレベルでいえばうまい人はほかにもいるわけです。エリータ・グラヴェローヴァとかべらぼうにうまいという意味で圧倒的な歌手はいるわけです。ただ、ノーマンの場合はさらにそれを超えて、声自体が凄いというのはもちろんあるんですが、そのコンサートが割と完成された一つの祝祭として存在している。一番最初はノーマンというオペラ歌手の並外れた声と技術に観客は圧倒されているのだけれど、しだいになにかノーマンの用意したお皿の中で、観客自身が歌っているというか遊んでいるかのように形になって終わるんです。それはノーマンが常に歌を唄う時にあまりにもさっき言ったような意味で身体をさらけ出していて、そういうものを見ているうちにお客さんの方も赤ん坊でも見ているように世界に対して自分で身体を開いてしまって、世界とものすごく素直に向き合うようになる。この場合は世界というのはステージなのでノーマンに対してなんだけど、ノーマンも含めた周囲に対してものすごく素直に自分を開いてしまうようになって最後は本当に観客席のお客さん全員がやたら素直な状態になっている。それでノーマンがちょっと客席に振ったりするとクラシックのコンサートなのにワーと自分たちで唄いだしたりする。
(中西)音楽とかオペラというのは演劇をはじめる前から好きだったんでしょうか。
(宮城) 音楽は趣味ですね。演劇は仕事だけど、今でも音楽は趣味(笑い)。だけど、演劇の方を主にやっていながら音楽はいいなと思うところはあったわけ。音楽のなにがいいかというと観客の想像力を演劇ほどは縛らない。束縛しないというところですね。まあ、そのことがク・ナウカを作るひとつの大きなきっかけになったんだけど、ジェシー・ノーマンについていえば彼女のステージを見たということが実はひとり芝居を始めた大きなきっかけとなった。これは86年ごろ、ク・ナウカをはじめるずっと前の話なんですが。そう、確か85年の秋でした。もちろん、それを見た瞬間にひとり芝居だと思ったわけではないんだけど、たった一人でこれだけのことができるんだ。僕の考えていた究極のパフォーマーというものが絵空事ではなくてこうやって本当に実現してるんだと思ったわけです。とにかく、終わった後でお客さんが全く席を立たないずっと拍手しているんです、20分以上。
■先ほどの事とも少しつながりがあるんですが、表現活動をしていくうえで基礎となる思想のようなものがあれば教えていただきたいのですが。
(宮城)特にないんですが、もししゃれで言うとすえば禅の「十牛図」でしょうか。もちろん禅の「十牛図」そのものを研究しているわけではないんだけど、僕が俳優についてなにか語る時、一番使う例えが「十牛図」でいうと今どの段階というのがあります。
最近僕が演出家になって俳優たちに対し思っていることは今の世の中では俳優はかつてのコミュニティーにおけるお坊さん、まあ神父さんでもいいんですが、そういうものに近い役割を持っている。それは体系的な思想ではないんだけど基本的な考えにはなってくるんですが、俳優というのは昔のお坊さんと同じで、コミュニティーに一人は坊主がいてキリスト教圏、例えばヨーロッパであればかならず一週間に一度日曜の午前中に坊主のところに行く。もちろん、一週間あくせく働いたり、金を儲けたりその人はしてるわけだけどただ、日曜の午前中だけは教会に行くと死について聞かされるわけです。あなたたち死ぬよとか、死にそなえなさいとか、人間は死すべき存在であるとかそういうことばかり言われる。もちろん、それが終わればまた月曜日から土曜日まではあくせくと働く。人を騙したりもする。子供を育てたり、親とけんかしたり。それがまた日曜日の午前中になると死について聞かされる。
つまり、こういう坊主の説教というのは死というのは普通の人にとっては向こう側のことなんだけど人間は死というものを忘れるととめどなく傲慢になっていくし、社会もめちゃくちゃになって行く。その時にそうならないように「死を思え」と警鐘を鳴らしている人がコミュニティーに一人は必要で、その一人というのは向こう側の話をする人だから、あくせく働く必要はないんですよね。畑を耕したり。一週間、本を読んだり、経典を書き写したり、瞑想をしたり。でも、そのコミュニティーの人たちはお金を出しあってその坊主を雇っているわけです。俳優というのはそういう人で、つまり死を思うことというのはだれにとっても本当は必要なんだけれど、ただ日常生活を送っていれば死のことなんて考え続けることはできない。いったん、死のことを考え続けたらサラリーマン活動なんてやってられない。だから、やっぱり、これはお坊さんに預けているんですね。それを考えるってことを。そして、一週間に一度そのことを考える。
坊主がそういう機能を失いつつある今の世界では俳優が代りに市民社会に生きている人たちに人間と言うのは死ぬ存在なのだということを突き付けていく存在だと思う。そういう俳優でないもっと別の豆腐屋さんのような俳優もいるのんだけど、僕にとって必要な表現というのは死を思えと突き付けてくるような表現こそ必要なんです。そうじゃなければだいたい演劇以外のジャンルで代用できる。人間が死ぬ存在だということを突き付けることだけは演劇以上には他のジャンルはなかなかできない。スポーツというのがあるのだけど、それに近いといえば近いですね。F1とか人間が死ぬ存在であるってことを突き付けている。
(中西)例えば俳優の資質としてどういう特性を持っているとそういうことが可能となるのでしょうか。
(宮城) それはね、やっぱりその俳優が半ばは向こう側に住んでないといけないということになっちゃうんですかね。ものを食べたりうんこをしたり、あるいはお金を儲けたり、オーデションに行ったりというのはあることはあるんです。それはなくすことはできない。ただ、それが100%になっていればこれは豆腐屋さんと同じような俳優ですから。なぜか、だれかしらが寄付を出して、喜捨をして支えるということになるのだけど物すごく単純に言えば狂気という言葉とも近いと思う。自分の中にある市民社会では押さえ付けられてしまうような欲望とか、妄想とかを育ててしまう。例えばサロメであれば自分の好きな男の首を切ってしまう。こういう欲望はだれの中にもあるのだけど普通は市民社会ではそんなことを考えはじめたらサラリーマンとかやっていられないから押さえ付けるわけです。しかし、この狂気の芽というのはだれも持っている。俳優はこの狂気に目をむけ、水をやり育てなくてはいけない。あるいはその根っ子を掘り下げていかなくてはいけない。そんなことを考えていれば翌日、牛丼屋で働くというのは難しい。やはり、生活は思わぬところから手を差し伸べられなくちゃいけないんだけど……。
(俳優は)人間が生きているとか死ぬとか根源に遡る。どんな複雑な社会になろうが、人間は死ぬ、そして生まれるわけで、これは4000年、5000年たっても変わらない。これは単純な奇跡といってもいい。それがずっとつながっている。社会は人間が作ったものによって複雑になっている。どんな複雑な社会になろうが、人間は死ぬわけですから、そして生まれる。これが変わらない限りはギリシャ悲劇なりが生き続けている。いろんな作品のテーマとして愛と死というか、生と死というか、エロス、タナトスというか、こういうことが2000年以上綿々とつながっているわけです。愛と死、別の言い方をすれば神ってことだと思うんですが、愛と死とか、神とかを考えるってことが、ある意味では現代においては狂気と向き合うということに近いと思うんです。
■自分で自分の演劇のスタイルをどのように位置づけますか。
(宮城) やっぱり、祝祭ですよね。ク・ナウカのやってる芝居は祝祭です。ひとり芝居の時から一種の祝祭だとは思ってきたんですけど。本来はまさに都市にこそ祝祭は必要だというのが僕の考えですから。死がもっとも隠ぺいされているところですから。
(中西)「都市に祝祭はいらない」という本を書いている人もいますけど(笑い)。
(宮城)いますけれど。(笑い)死が一番隠ぺいされているところでこそ、死を突き付ける役割というのが必要だからです。山奥で樵とかやってる人たちにとっては神とか死ということは日常生活においてふと目にすることがある、わざわざだれか来て教えてくれなくてもいいこと。しかし、やはり、地下鉄に乗って会社に行く生活の中ではなかなか死というのはないわけです。
死を突き付けることがどういうことかというと、人間が生きて死ぬんだということをの奇跡をもう一度、確認させないといけないんですね。例えば人間が生きていること自体が奇跡の集積というか奇跡の結晶であると。全宇宙で起きている様々な奇跡のうちでももっとも驚くべき奇跡が人間が生きていることである。これは神という言い方をしなくてもいいけれど、壮絶な祝福だといえる。そのことは昔の祭りであれば、例えば農業をやっていて一生懸命働いて、おかげでついに収穫した。その後に生きていることを祝福させる2日間なり、3日間なりがあったんですね。その時には自然と向き合う。あるいは一種のフリーセックスのようなシナリオによって構成員がひとりひとり神に感謝したり、祝福されているんだ、生きている風に実感が持てたりした。
セックスにしても人間と向き合うことだから本当は人間という自然と向き合うことなんだけど、なかなかそうはなりにくい。昔のように生命の海の中で、自分の存在を実感するというのは難しい。そうすると身近にある一番驚くべき自然というのはなにかというと裸の人間の存在だと思うんです。目の前で人間が生きているという奇跡を目の当たりにすることが出きれば一番、人間は驚くことができる。プリンスやジェシー・ノーマンに感じたことはまったくそれなんですよね。そこにひとつの奇跡があるという。目をみはる驚きだったわけです。しかにそれがノーマンの場合凄いのはこの奇跡が実は自分の奇跡でもあるとしだいにそう思ってしまうことで、この人においての奇跡なんじゃなくてこのような存在が天から許されて地上に現れていることは驚くべきことなんだけどよく考えれば自分がここにいるということもほとんど同じ意味で驚くべきことのように思えるようになる。
しかし、そのためには人間が裸の生命活動を見せなくてはいけない。このことに成功している希有の存在として大野一雄という人がいる。大野一雄は本当に死ぬかもしれないということが露呈している人で、あの人も見ていればだれもがあ、この人生きてると思うわけですね。生きてるってのが凄いって思いますよね。今にも死にそうだから、ぎりぎり生きていると思うわけです。あるいはバーンスタインなんかも尊敬してる人なんですけど最後の方は思いっきり太ってるし、バックステージでは車イスで人に見られないように移動しているんだけれど、いったんステージにでると本当にぎりぎりの気力で指揮棒を振っている。やはり、そのことがいくら隠していてもお客さんにはなんとなく伝わって、この人は本当に今、生命の全身全霊ぎりぎりを出し尽くしてかろうじて指揮をしている、あるいはかろうじて音楽と言う形に変わっている。最晩年のバーンスタインのレコーディングというのは壮年期に比べてはるかに音楽的に変なところもあるのだけど、生きているとうことをさらけだしているという意味では一層感動を与えるんです。それはだけど、バーンスタインの場合、実際に身体がぼろぼろになっていたし、大野一雄の場合、90歳を過ぎているということで、かなり特権的なところがある。そういう風に身体を追い詰めないとなかなか今ぎりぎりで生きているということが出てこない。俳優がぬくぬくとした近代社会の中で、培養されているような肉体が舞台上に出てきてそこにせっぱつまった生命の存在を感じさせるっていうことはよほど仕掛けなり、あるいは本人がエイズであるとか、よほど特権的な理由が必要なんです。ク・ナウカの場合はエイズになってもらうわけにもいかないので、その代りに動きと言葉を分けているわけです。
(中西) ただ、その場合でもク・ナウカを見てて感じるのは残念ながら素材としての特権性がかなり重要でだれもができるわけではないと思われるんですが。
(宮城) うん。そうね。そうなんですけど。それって精神のありようですね。肉体ではなくて。先ほども言ったようにただ言葉と動きを分けただけでは生命にエッジが見えるわけではなくて、やっぱり狂気というものに水をやるような人でないとだめなんですよね。だから、狂気に水をやっていれば本当に凄い人、平幹二郎のような俳優が10人ぐらいいればク・ナウカの芝居も別に分けなくてもいいのかもしれない。だけど、そういう風にはならないですよね。特に今の若い俳優は。それはもう病気で死にかけてもらうとか家が洪水で流されるとかとんでもないことにならない限りは。そのふたつなんです。仕掛けとして分けていりことで、自分の存在をいやがおうでも追い詰めていくということとその人自身の中にあるかたむきとして狂気の芽のようなものに目を向けていくこと。この両方ですよね。狂気の芽に水をやるということで言えば最近例えば飴屋法水さんという人はそういうタイプの人だというのを確認しましたけど。この人危ないという(笑い)。
美加理さんという人のポイントは身体が動くとか、ルックスがどうとかいうことではなくてやはり精神にある。もちろん、肉体的に恵まれてる部分はあるわけですよね。それはスポーツほどではないにしても、ある技術を追求するためにはそれに向いてる身体と向いてない身体はあります。この体格ではフィギュアスケートをいくら一生懸命やってもある線以上はいかないだろうとか、それに近いものはあるんだけど、ただ、スポーツと違うのはいくら恵まれた肉体を持っていても、そしてきちんとトレーニングをしてもやはり自分の中にある異常な欲望であるとか、危険な衝動であるとか、あるいは自分がなにかの理由で落ち込んだ時とか、落ち込んでいる理由や落ち込んでいる自分をじっと見続けてしまうような、そういうことは本当にやばいんですが。普通の人はこういうことをやり過ぎると社会復帰できなくなりますから。ただ、演劇をやる上では身体を動かさなくてはならない。逆の方向でのいのちづなのようなものがあるから例えば単純に言えば好きな男に振られたとすれば振られたってことに中島みゆき的にひたすら眼差しを向けていく。ほっぽらかしておくと危なくなるんだけど身体を動かすという制約をつけているから、それでぎりぎりのところで完璧に向こう側の人にはなってしまわない。そういうのは本当に精神の作り方の問題でだれでもやろうと思えばできることではないんですよ。
もうひとつ問題になるのは大学を出て芝居をはじめたぐらいの段階でそこそこはこういうメンタリティーではあまり芝居に向いていないだろうとかある程度は形成されているけれど、集団の中で一緒にやっていく時にその中での置かれているポジションや演出家の声とか構成員がそのひとをどういう立場として遇するかというので、そういうことと関係があるんです。例えば坊主になった時には同じような精神構造だったとしても行った寺が戦乱に巻き込まれているのとなにもなく平和なのとではその後の10年の修行が全然違ってくる。集団というのはボリショイバレエ学校とかよほどでかくないかぎりは、例えば白石加代子という人がいれば、白石加代子がその集団におけるある種の規範になるという現象が起こってくる。能やなんかがいいのはあまりにも歴史が長いから今現在どんな名人がいてもその人が究極の名人とは思われてない。歴史上もっと凄い人がいたんじゃないかとか、あるいは世阿弥はもっと凄かったんじゃないかとかですね。それは確かめようがないから。歴史が長いものは歌舞伎にしても相撲にしてもそういうよさがあるわけです。
現代芸術の場合には本当にミラノスカラ座とか、ものすごく沢山の人間がかかわってる組織ならともかく、普通の意味でのカンパニーではそれは劇団四季ぐらいの大きさだとしてもやっぱり規範になる人が登場して、それ以外の人はその規範に対して自分はどうかとか考えるようになる。
(中西)ある芸術家に対するミューズ的存在ということですね。例えばベジャールのジョルジュ・ドンとか。
(宮城)そうですね。もちろん加代子さんやドンがいなくなってから演出家や集団が一種自立するという現象が起こるにしてもそれは随分長いこと、つまりドンにしても加代子さんにしても50過ぎていなくなったわけだから。だからそれは本当に四季とかにしてもおそらくそういう状態を脱するのに物すごく時間がかかってると思うんです。それを脱した時にやっと自由になれているんだという言い方もできるんだけど、僕としてはその知らず知らずのうちにかつての土方巽における芦川羊子のように集団のなか美加理さんがある規範的な存在となっていくということはあまりいいことではないと思ってるんです。それは本人に対しても集団の他のメンバーに対しても分析的に明示したい、相対化したいと思ってるわけです。
(中西)そういうことについて劇団の中で話しあうということはあるのでしょうか。
(宮城)それはあまりないですね。というのはやっぱり本当に最近入った子たちもいるわけだから、だれにでも話せるような内容ではないんですよ。いろんな段階にいる人に同じアドバイスをしてもまったく受け取られ方が違うわけだから。こういうことは漠然と皆で話し会うことはできない。どっちかというと分かる人には分かるような形でしか話せない。もちろん、本人とは今こういう風な役割というのが期待されており他のメンバーがこういう風に見ているだろうというようなことは話したりはしますけど。
■「十牛図」ということでもいいんですが、今のク・ナウカは宮城さんのイメージしている理想にたいしてどの程度のところまで達していると考えていますか。
(宮城)道半ばという感じですかね。半分はきている。ただ、「十牛図」というのは変なもので最終的な極致になるとものすごくありふれたものになる。なんかこれは凄いと人が思うようなものじゃないものになってる。僕もそう思うんですよ。例えば言葉と動きを分けるというのも山に入って修行しているようなもので、究極は別に分けている必要はないんです。だけど、その地点までいつくるのかと考えるところはもうまったく想像がつかないですね。山に入ってるてとこまでは間違いないから半分くらいは来ているということなんです。
■これまでの質問とだぶる部分もありますが、今存在を意識している演劇人、あるいは舞台芸術に範囲を広げてもいいんですが、いれば名前を挙げてほしいのですが。
(宮城)ウィリアム・フォーサイスですか。もちろん、もっと身近には【P4】の残り3人のメンバー(平田オリザ、安田雅弘、加納幸和)。後それ以外でも宮沢章夫さんとかですかね。
まずフォーサイスについてはこれは明確で肉体と言葉という関係をものすごく考えている舞台芸術家であるということ。僕は俳優というのはなにの専門家かという意味でいえば技術的なレベルでなにについて習熟していると好きになるかといえば言葉と身体の関係を見ることにおいて並外れた専門家であるということだと思うんです。ここがだらしないとデッサンができない絵書きと同じで、感受性とかがよくてもだめだと思う。言葉が肉体をどう規定し、肉体が言葉をどう動かしているかということ。そこについてフォーサイスはすごくずっと考え続けている。フォーサイスの踊りの中には言葉がみなぎるし、言葉が走りまわっている。これは演出家として一番似たようなフィールドでやっているような気がするんです。そこに関して言えば。最終的なものさっき言った儀式とか死とかとは別に演出家としてのなにを技術と考えてなにについてのレベルを上げようとしているかという意味では非常に似ていると思うんです。
【P4】のメンバーとか宮沢章夫さんとかあるいは林巻子という人とかは同世代の表現者という意味では意識してます。さっきから言っているようなことを演劇の目的と考えていると当然、どんどん俗世間を脱してあんまりうまく一般のことにどうでもいいという気がしてきたりするわけです。現実にテレビなんかもほとんど見ないし、魂の出来事にしか興味ないとなってきてしまう。こういう時に他の人たちと話していると例えば平田オリザさんとか、どんな当たり前の話題の中にも、例えば毒入りカレーという話とかでてくると正直いってどうでもいいという気がするわけです。まったくどうでもいいんだけどただ、話の中に出てくるともしかするとどうでもよくないのかなという気もしてくる。なにかここには人間存在のコアのようなものが覗いているのかなと思わないでもないんです。あるいはふと反省したりするんですよね。こういうことにあまりにも興味をなくしているぞと。これはまずいかもしれない。なんか演出家だから集団を経済的にも経営していかなくちゃならないし、ひとりでチベットの山奥に行って修行するのと違いますからねえ。そうすると意識していなくちゃいけないフィールドというのは魂の出来事以外にも本当はあるはずなんですよね。
演劇以外の人を説得するには例えば自分たちの公演をどこかが買ってくれるとか、そういう時には魂のことしかないんじゃ説得力がないですよね。そういう意味では加納さんなんかも舞台俳優が大衆的にささえられてきたいろんなファクターを思いださせてくれる。
■今まで上演した舞台の中で代表的な舞台を3つ選んで簡単にその舞台について説明していただきたいのですが。
「天守物語」というのは一番、再演の回数が多いおかげで、演出的には歌で言えば楽譜のようなものがほとんどできあがった作品なんです。ここの動きはたぶんこうだろうとか、この台詞とこの台詞はやっぱりこういう間合いだろうということがかなりのところつまっていてそういうレベルについて俳優も僕も迷ったりする必要があんまりない。後はその楽譜を守りながら、どう自由になるかという段階に入っているんです。これはなかなかク・ナウカのようなやり方をしていると古典芸能と違って形がある訳ではないから普通の一本の芝居を作るのに楽譜を作るだけで精一杯なんです。この台詞は上手じゃなくて下手に移動しながら言わなくちゃならないぞとか、そういうことを考えると稽古期間の大半がかかってしまう。「天守物語」だけはもうどこでどう動くとかいうことは今までやってきたことをわざわざ崩す必要はないんですね。
ただ、それはまさに楽譜だからそれをなぞったってなんにもならないんだけど、楽譜を守りながら俳優がどう遊ぶかというか、どう心を揺るがせていくか。その枠が決まっていないと心を揺るがせてもそれは作品を破綻させてしまうんだけど、楽譜がはっきり決まっているとその中でパフォーマーが日々、驚き、存在自体が揺らいでも観客はその揺らぎを共有できて面白いと思える。その段階に入った作品が今のところ唯一、「天守物語」だけなんです。
(中西)「天守物語」については利賀の初演以来、湯島聖堂、さいたま、それから先日小倉城で見せていただいたんですが、インドに行った後というか、その前に演出でいじったことがあったのかもしれないんですが、美加理さんの特に後半の演技が大きく変わってきたように感じたのですが。
(宮城)それはどういうことですか。
(中西)ク・ナウカではいつもそうなんですが、前半は抑え気味の演技なわけですね。それが図書之介と出会ってそこでも少しづつは感情をみせながらも割と抑え気味の演技が続いてそれが、図書之介が罪に問われて戻ってきて以降の演技というのが利賀の時にはそんなに前半と大きく違わなかったのが、感情というか哀しみとか悔しさのようなものが露に見えるようになっていたように感じたわけです。それから、最近の演出では後半髪を下ろして見せるようにしているように変えたと思うんですが、そのあたりも演技と連動しているように見えて演出的な変更があったのかと感じたんですけれど。
(宮城)髪をほどくときというのはもちろんそうなんですけど、これは一本の芝居の中であるポイントを境に抑制されていたたがのようなものが一回パチンとはぜるという。これはそれ自体枠として完成されていないと野放図なものになってしまうということがあって一種の破綻なんだけど、破綻も計算された流れの中で破綻させるという。かぶりものをとってざんばら髪を見せるような部分はもちろん形なんだけどそこで今言ったようにパフォーマー自体が本当に内面的な揺れのようなものを本当に計算できていなかった状態に追い込まれたということだと思うんですよね。こういう感情になったのは生まれて初めてだという風に美加理さん自身が自分をそこまでもっていけるかということだと思うんです。
(中西)そうすると大きく演出を変えたということではないんですね。
(宮城)かぶりものをとるとかそういうことは形として変えているのだけれども。意味としてはここはこういう場面じゃないかとかいうことはもちろん言っているわけだけど、演出を変えたというわけではない。そうじゃなくて、むしろ、楽譜が固まってきてそれがやれる余裕ができたということじゃないかと思うんですけれど。
(中西)次に挙げた「熱帯樹」はどんな作品なんでしょうか。
(宮城)「熱帯樹」というのはク・ナウカが初めて取り組んだいわゆる近代戯曲なんです。これに関してはまだ「天守物語」のような楽譜の完成というのが出ているわけではないんだけどそれまでは近代劇はク・ナウカの手法、二人一役ではなじまないんじゃないか。それまでなぜ近代劇に取り組まなかったかというと一番初めク・ナウカは旗揚げが「ハムレット」だったんですけど、「ハムレット」の反省というのがずっとあって。なにが問題かというと「ハムレット」というのは近代戯曲のはしりで、登場人物が、単純に言えばハムレット自身が自分で自分の欲望を把握しきれていないんです。自分がなにをしたいかということが本人にも分かっていない。近代人というか現代人というのは実際にそうなんですね。それに対し「天守物語」も一種、擬古典として書かれているからそうなんですが、古典劇というのは少なくともひとつの場面で一人の登場人物は一方向しか向いていないのにそのことは自分で明確に認識されているんですよね。例えば私はこの人と結婚したいとかあいつを殺したいとか。
古典的な構造の戯曲というのは文楽の台詞とか、オペラもそういう作りになっているということを「ハムレット」の後で研究したんです。それで次はその反省を生かして「サロメ」をやったわけです。「ハムレット」は少なくともこのやり方に向いていなかったと思ったわけです。揺れるのは向いていない。ひとつの場面で欲望はひとつでないといけない。もし、一幕ものだったらそれはひとつしかないということだし、「トリスタンとイゾルテ」とか三幕ものになれば三幕それぞれは違うのだけど一つの幕の中では一つしかいけない。そう思ってずっとやってきたんだけど、そのやり方は擬古典の「天守物語」である程度形になった。そしたら次に近代劇をやってみようという気になったんです。今言った登場人物の欲望が揺れ動くことのの難しさは相変わらず解決されてはいないんですけど、自分で自分が分からないという人をどう表現したらいいのか。これはチェホフの台詞にも表れていることなんですけど、「熱帯樹」はみんなそうなんですよね。「エレクトラ」の枠組を使ってはいるんですけど、ここが「エレクトラ」とは違うところなんです。これは別に結論がでたわけじゃないんですけど、近代劇特有の迷いというようなものを含みながら、ただ三島が持っている近大劇を超えた部分、つまり言葉で観客を異次元につれていくこと。日常の人間の微細なところを浮かび上がらせるというのではなくて人間以上の化け物を言葉の力で立ちのぼらせる。こういう三島の力を表すことは割とふさわしかった。それはできたんじゃないかと思う。その意味で「熱帯樹」は三島由紀夫という人が持っている近代性と非近代性を引き受けて演じた上演として三島戯曲としてといってもいいかもしれないけれどもある程度、成果をだせたと思うんです。こういう戯曲はあんまり世界にも例がないから近代の中にいながら非近代の爆発のようなものを持っている。だから、これは今後、育てていきたい、そういう感じなんです。
最後の「エレクトラ」なんですが、これは単純な芝居なんですね。登場人物は凄く単純。これはク・ナウカのやり方のもろにズバリはまった作品だと思うんだけど。利賀村の新山房でやった時にこれで行けるぞという。それまでは「サロメ」がずっとやってきたんだけど。面白くはあったんだけど、「エレクトラ」は生パーカッション主体にして、それが「フェードル」から始まったことではあるんだけど「エレクトラ」でそれが成功したという意味でも今の動き、語り、そして生のパーカッションという三点セットが形になった。
もうひとつは昨年(97年)のニッシン品川倉庫での「エレクトラ」において初めて最後オレステスが自らエレクトラを殺すというラストをつけたんです。このことは僕なりの人類史というか母系社会が父系社会にとってかわられたという、それによってもたらされた今日のおける環境破壊とかそういう暗くなってる現状に対しての始まりのところに災いというか禍根があったというひとつの解釈をギリシャ悲劇に対して加えてるエンディングなんで、こういうやりかたというのもク・ナウカでは初めてなんですね。僕は個人的に言えば古典を解釈して演出するということは好きじゃなかったんだけれども、それよりもっと大きな世界を抱え込んでるような巨大な戯曲を大きいまま扱ってみたいという気持ちが強かったんだけれども、「エレクトラ」に関しては初めて歴史観を作品の中で表現するというやり方をやってみた。これについてはこれもまだものすごくうまくいったというわけではないんだけれど、そういうやり方をしてみた。この先これをどう発展させられるかという意味で「熱帯樹」と同じくもうちょっと追求してみたいという感じですね。
■ク・ナウカの次回作について簡単に話をしていただきたいんですが。
(宮城)いまのところ決まってるのはないんですけど、ひとつ言われてるのは本当にチェホフをやってみようかというのがひとつ。まだ、無理かもしれないけれど、例えば美加理さんのラネーフスカヤというのはやってみたい気はするんです。ただ、まださすがに無理かもしれない。年齢的にね。他には三島由紀夫をなにか別にないかなという感じですか。後は逆に「オルフェオとエウルリーチェ」のような古い話に戻るか、「トリスタンとイゾルテ」のような、これも古い話ですよね。それから、難しいんだけどイプセンの「ペールギュント」も候補には挙がるんですけど。
(中西)6月のフジタ・ヴァンテの公演というのは今は白紙なんですか。
(宮城)また白紙に戻しちゃったんです。もしかすると「近代能楽集」かなんかやりますけど。
(中西)実験公演でやった「ルル」の再演というのは断念したんですか。
(宮城)断念はしてないんですけど、やってた人たちがあれは難しいんじゃないか。そんなに面白くならないんじゃないかという意見が強くて……。「ルル」は断念してはいないんだけど、語るに足る台詞なのかという。(注:フジタ・ヴァンテの公演で演出を担当する中野真希さんに聞いたところ、この後、大みそかの指輪ホテルの年越しイベントの時、スズナリのロビーで確かめたところ、この後、劇団内の話しあいで逆転して「ルル」を上演することが決まった模様)
(中西)宮城さん自身の予定としてはこの後、シアターオリンピックスの「忠臣蔵」が控えているわけですよね。
(宮城)その前に静岡の県民参加の形で、「ロミオとジュリエット」を来年(99年)の2月中旬に上演します。これが次の演出なんですか。これは竹内登志子さんに振付をお願いして、舞踊劇のような形で半分ぐらいしようと思っています。例えばバルコニーシーンとかもしかすると舞踊にしてしまおうかなと考えてます。
「忠臣蔵」の方はまだ台本をもらってないので、近松門左衛門がでてきて取材していくというものすごく大ざっぱなシノプシスはもらっているんですけれど。加納さんの役が近松でそれぐらいは決まってるんですが、まだほぼそれだけという感じです。
ク・ナウカの方は8月の本公演をやる予定ではあるんですが、まあこれも年内にはないをやるかぐらいは固めないといけないとは思っています。6月のフジタ・ヴァンテの公演は中野真希に演出はまかせるつもりですが、位置づけとしては実験公演のようなものではなくて、「天守物語」をBeSeToで急きょ上演したのを除けばしばらく東京で本公演がなかったこともありそれなりのレベルの舞台に仕上げる必要はあるとは考えています。
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