下北沢通信

中西理の下北沢通信

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上海太郎VS西田シャトナー対談

司会(中西理) 今日は関西を代表とする演出家と私が考えている上海太郎、西田シャトナーのお二人に集まっていただきこれから対談をしてもらいます。

 年齢こそ違うのですが、二人はともに大阪出身で、地元の高校(北野高校)に進学した後、上海さんは京都大学、シャトナーさんは神戸大学と関西の国立大学に進学。そこで学生劇団としての本格的演劇活動を開始。その時代を代表する人気劇団となりその座長、演出家として注目をされたことなど共通点が多いのじゃないかと思っていました。しかも、その舞台がいわゆる普通の演劇のスタイルとは少し違う身体表現を主体として上海太郎さんは言葉を使わないダンスパントマイム、西田シャトナーさんはパワーマイム、カメラワークなど新しい演出法を導入し、ともにエンターテインメントを志向しながら現代演劇に新しい風を吹き込んできたと思います。

 そういう点でこれからのお二人の対談でどんなお話が飛びだすのか、私自身興味津々なのですが、ここで口火を切る意味もこめて、お二人にまず演劇とどのように出合ったにかについてうかがいたいのですが。

 
演劇とどのようにして出合ったか
 西田シャトナー(以下西田) ちゃんと本気で答えるとまだ出合ってはいないぐらいの気持ちなんです。自分のなかで演劇と出合ったというようなバイオグラフィー(伝記的事実)があまりあってほしくない気分なんです。

西田シャトナー

 高校の時には映画研究部で映画を撮っていて、できたら映画監督か漫画家になりたかった。だから演劇はやりたくてはじめたんじゃないんです。それは大学で(腹筋善之介に)「演劇をやらないか」と言われてその時にやることにしたので、演劇と出合うような形ではじめたわけじゃないんですね。演劇というものがなにかは知らないけど、やろうと。しかも自分でなにかを探していたわけじゃなくて、腹筋に「演劇やらないか」と言われた時に演劇的にではなく、むしろ、男的に、つまり男対男の会話としてこれはやらねばなるまいという感じだったんですね。

 司会 上海さんはどうだったのでしょうか。

 上海 オレは高校の時に演劇部の芝居に出てくれと言われて……。

上海太郎
 西田 なんもしてないのに出てくれいわれたんですか?

 上海 社会研究部とか新聞部とかをうろうろしているやつがいて、なんかしらんけどそいつがでえへんかと言ってきたので、主役だったらでてもいいといいと言って……。その時にはオレは運動場にボールを持って走りだしていたわけや。

 西田 (半信半疑で)それはたとえ話ではなくて本当のことなんですか。

 上海 ハンドボール部だったから……、遠くの方で主役のようなものだから出てくれ〜〜って声が聞こえていたんだけれど、オレはもうボールを持って走りだしていて。次の日に台本を持ってこられた。その時、高2やったんやけど、先輩に演劇部のだれだれがキレイやとか美人だとか小耳にはさんでいて……。


 西田 要するに女の子が動機だったという話ですか。

 上海 まあ、そうだな(笑い)。台本読んだらそれが「エレクトラ」というギリシャ悲劇のオレステスという役で、父親が義理の父親に殺されてという「ハムレット」みたいな話で、将来こいつは邪魔ものになるかもしれんというので逃げ出していたのが、帰ってきてエレクトラと涙の抱擁を交わすというト書きを読んで、これはやらねばと思った。

 西田 それはなんかねえ、ホラですか(やはり信じがたいというようす)。

 上海 実は赤面恐怖症やったんや。中学の終わりから。それで本当に苦しんでいて授業中とかに当てられて、手がぶるぶる震えて汗もだーっと出てきてという状態で、普段は活発で明るい方なんやけど。中1の時に盗難事件があったりしてすごくクラスがごたごたしていた時期があって、カンニングを疑われたかなにかですごく仲よかった先生から「お前カンニングしたやろ」と言われてすごく傷ついて、そこからその先生の顔を見られなくなってしまって、ずっと3年ほど苦しんでいて。でも主役やったらやるというへらず口をたたくようなやつでもあった。かたや、発表なんかで教壇に立たされた時にはしどろもどろで、だけど自分で思ってるほど周りはそうは思っていなくて、なんかあいつ変やなあぐらいのもんやったんやろうけど、自分が人からどう見られているんやろうかとかすごくあれこれ考えるたちやった。

 ノイローゼぎみなのに自己顕示欲も強くて、台本を読んだら演劇部の美人の先輩とかに対する妄想が膨らんでいって、気づいた時には講堂に練習に行ってた。

 上海 とにかく先輩に手取り足取り言われるがままに。それで行って見たら実はその主役の子が1年生の子だった。神戸大に行ったけど。

 西田 僕の先輩ですね。

 上海 先輩やけど。

 西田 すれ違ってないですかねえ。

 上海 ないやろうなあ。それでその子がちょっとうまいというか凄かった。オレは学芸会のレベルでしか考えていなかったのが、ほんまマジやんという感じ。どうしよ、足引っ張ったらと思いながら、とにかくしどろもどろでやっていたら、本番の2週間ぐらい前になってようやく顧問の先生が来て、そこでこうしてああしてと言ってこうですかといってやったら、そうだよそうだよと先生がひとり盛り上がってしまって、こんなでいいやろかと思って本番を迎えた。ところが本番を迎えたらすっごく気持ちよくなってしまった。なおかつ、文化祭の実行委員長が走ってきてよかったと言われるし、これが文化祭かと思われるような拍手が来て、それで赤面恐怖症が治ったんや。それで話を簡単にするとその後もオレに取っては舞台はリハビリなんや。

 西田 今でもですか。

 上海 今でも。だから、例えばこの間やった「アバンギャルド」というのは自分のなかでなんか自分を壊したいのだけど壊せない自分というのを最近感じたりして、「アバンギャルド」というタイトルつけて芝居をやって考えたらけっこういろんなことが見えてきた。だからいつもなんでいつも自分てこうなんやろうというようなことを取りあえず舞台にすることによって自分がちょっと楽になれる。だから、逆にすごくハッピーな時は芝居を作ろうなんてことは思わない。

  西田 僕は上海さんがすでに人気劇団になってる時にまだ芝居をはじめてなかった。で、テレビの深夜番組で上海さんが作った芝居を見た。テレビではコント扱いなんだけど、でも見たら明らかに芝居で、それが終わった後、司会者がこんなことどんな時に考えるんですかと聞いた。答えとしては普通、「お風呂に入っているとき」とかですよね。そんな風な答えを期待している感じだったのだけど、上海さんはそれに「考えようと思ったとき」。これがごっつい記憶に残っている。僕もいまそうなんですよ。考えようと思った時に。いつでも考えようと思ったら考えすぎてしまうから、むしろ、日ごろは考えないようにしているぐらいで、次の芝居のこといいかげん考えなきゃいけないなあ思って、考えたら1分以内になんか出ている。

 上海 なんかある部分で芸術関係のことをやってる人間は生活そのものがそうなんだと割と先入観を持たれているかも分からへんけど。そんな人もいるかもしれないけどね。ピカソがわき出るようにもし描いてたとするならばそうやろう。

 西田 それじゃ人と話できないんじゃないですか。それがある意味、上海太郎との衝撃的な出会いだったわけです。

 西田 学生劇団だった時にはじめて本書いて演出したことがあって、その時、上海さんが座長で演出していた「そとばこまち」のうわさを聞いたんです。うわさやったけどカーチェイスやったらしいと聞いて、カーチェイスできるんや。これはある意味で自分の表現の方向を決定づけるうわさやった。それで、カーチェイスやるやつがいるぐらいやったら当然そこは踏んでいってその先に行かなと思った。周り見たらどこの劇団もそんなことをやってるところはなかった。そこではじめて芝居書いてカーチェイスも入れてカーチェイスで終わったら、そこで一緒に並ぶだけやから取りあえずドッグファイトも入れとこうと音速戦闘機の空中戦を入れて……。うわさからはじめたことだったけど、自分のなかでもそれがすごく驚きの気持ちとして残っている。自分に取って相性のいいアイデアの出し方だったから。だから、最初のころに上海さんにはブラウン管とかうわさ話とかを通じて出会ってるのでけど、でかいです。その影響は。

 上海 なんかあれかもしれんなあ。こんなことは表現できんやろうみたいなことがしたい。

 西田 そう、そうです。

 司会 年齢の差はあるけれど2人は関西を代表するような劇団の座長を務めて、その後、その集団から離れて、それで上海さんはまた劇団を自分で旗揚げして、最近またプロデュース制にしたり、西田さんもいろんなプロデュースユニットを立ち上げたり、新たに若手の演劇人を集めてLOVE THE WORLDという集団を旗揚げしたりしていますが、おふたりに取って、集団というものに対していままでのなかでどのようにかかわって来たのかが話していただけないでしょうか。

 
演劇における集団について
 上海 集団というものをすごく自分は大事に思ってやってきたのだけれど、大事にすればするほど……なんか女みたいなものかなあ。大事にしたら逃げられるし、いい加減にしていたほうが、普通にいて、ちやほやちやほやしてると手の中から逃げて行ってしまう。だから、今回、実際に劇団という形を変えて、プロデュース制にしようと思いながら、要するに恋愛みたいなもので、すごい偶然の産物で一瞬光り輝くときがあると思うんや。でも、けっして長続きはしない。だから、新しい恋を求めて旅立つしかないな。

 例えばはじめて恋愛した時に「この子と結婚する」とオレは思った。15歳か16歳ぐらいのとき、16かな。はじめて好きな子と付きあいだして、一生この子といるだろう、どうなっても別れることなんかあるまいと思っていたのに、3年ぐらい付きあって別れて、もうだめだ、もうオレは一生恋愛なんかしないって思い込んだ。けれども、何年かたったら別の女の子が現れて、それを何度か繰り返すうちに恋愛っていうのはある一瞬光り輝いて、それがいつまでも続くものでもない。実は集団という意味ではそとばこまち、上舞やってどちらもほぼ10年ちょいやり続けたけど、そういう意味では集団との恋愛みたいなことに関してはまだものすごくキャリアがない。だから、一回目にそとばこまちをやめようと、本当に自分がやりたいと思うことを新しい集団をもう一度、作っていこうと思った時にはものすごく入れ込んでいたけど、それもなにかかなり光り輝いたなあと思ったんやけども、今思うとそれはなんかこうやっぱり色あせていく。そういうことに対して自分がどういう風に対処していくかということに関してはいまだにやっぱり恋愛ほどはスパンが短くないので、集団というものに対してはいまある種の諦めのようなものを持っているだけに答えづらいのだけれど、でもそれはそれでいいのかと思っている。

 司会 シャトナーさんはいかがですか。

 西田 集団はね、僕は論理的に集団という状態は存在しないと思ってるんですね。僕と世界との付きあいのなかで、僕は作品作ってる。では世界ってなにかというと僕という特異点と全宇宙との付きあいが僕の活動の全てであって、集団というところでちょっと区切りにくいんですよ。例えば惑星ピスタチオが僕に取ってどういう集団だったのかというと実は僕に取っては集団ではなかった。あの時、僕に取って存在していたのは僕だけであって、僕がもちろんそこにいるメンバーの身体とか顔を見て、あるいは人格を見てこんな芝居やったらいいなと思って作ったんだけれどでも作ったのは僕であって、その時の集団は家のなかにころがっていた材料。家の中と外の材料がどう違うのかというと本質的には明確な違いはない。本当は僕に取っては家の中のプラモデルも家の外の車も大して違いはなかったんだけれども、劇団はそれを君たちだけに限定するという約束をした相手であって、作家としてはあまり関係ないんだけれども約束したからこの集団でやっていくと相手だったという気がします。ある意味、失望というか挫折を持って解散したんだけども、解散した後、僕が違うかというと使う材料は違うから作るものもちょっと違うけど基本的に同一人物の僕が作っているんだし、違いはない。集団演劇をやっていたけれど目の前に5人渡されたら5人の芝居を全力で作るだけであって集団論の中でやっていたわけじゃないなあと思います。

 司会 今回あえてここで集団ということをお聞きしたのは身体表現の話ともつながっていくのですが、惑星ピスタチオ時代に作っていた芝居とか上海太郎舞踏公司で作っていた芝居というのはある特殊なスキルが必要ですよね。俳優を使って自分のやりたいことをやるという場合に準備段階として、それができるためのスキルを持った集団を作らざるえないのではないでしょうか。

 
演劇においてスキルは必要か
 西田 僕はスキルなしでも出来る芝居をやりたかったんですよね。ところが自分に関していうとアイデアひとつでスキルなしでもなにか素晴らしいことができるんだという信念のもとにやっていたけど、劇団員たちはそうじゃなくて、スキルがないと自信を持ってやっていけない。彼らが自信を持ってやっていけるためにはスキルも考えよう、しかもそのスキルはほかに人たちもやってるのだったら、練習時間もなく下手なことしかできないから特別なスキルをやろうということで磨いていったところがあるんですね。本当に言ったら僕が考えている演劇のあり方とは180度逆で、自分がいかに優れているかということを人に言う以前にだれでも出来ること。いわば車輪みたいなものなんです。2つ丸いものを持ってきて軸でつないだらゴロゴロころがっていく。皆出来るでしょ。アイデア一発でできる新しいアイデアというのを世の中に発表し続けたかった。ところが特にパントマイムを本格的に修業しなくても気持ちひとつで目の前に車を出せるし、雨だってだせるということをやりたかったのに劇団員たちはこれは他の人には出来ない、我々にしか出来ないということをやることによってなにか自分たちが優れた人間だという立場に立ちたかったんですね。僕も止められなかったというかむしろ協力してしまったんだけれども本当はスキルでやりたくはなかったんです。僕の望みとは別の思惑でやはり劇団員のしあわせというのを僕は願わざるをえなかったから、皆より優れた男になったらしあわせなんだなと思うとけっこう優れた風に動くスキル動くスキルを開発していってしまった。

 上海 スキルという言葉の定義の問題になってしまうんだけれど、例えばオレがオセロであってもバックギャモンであっても一緒に遊んでいたら最初はルールを覚えるところからはじめて、こうすれば勝てるんやなあとか考え出す。相手はこう打ってくるから自分はこう打とうかとか、そういう遊び相手みたいな感覚からするとこういう芝居したいなあという思う時、それを共有できるというのは非常にしあわせな気分になれる。それがオレはこれが面白いと思う人間とああそういうところが面白いのか、それもありかなと思えたらそれはそれで自分の世界が広がったりするのかもしれないけれど、全然共有できない人間もいる。そういう人間ははなからオセロしたいといっても「そんなんルールも知らんしやりたくない」というやつとはやらへんわけやけど、いろんな人間がいてこう芝居をやってるとこんなことをやってみたい、あるいはこんなことをこんな風にやってみたいなあということをオレが思って、それをだれかが理解してくれ、あるいはそれを体現してくれたら、「それ、オレが見たかったのはそれやねん」ということでなにかが生まれたりする。本当に広い意味でのスキルというかこだわりというのが皆のなかで生まれていく。集団独自のこだわりが生まれてくると遊びとして非常に内輪の遊びなんだけれどそれがなにか面白くなってくるというようなことはある。

 西田 それは僕自身はそう思ったことないから上海さんに聞いてみたかったことなんですけどもちろん集団でやってるとその集団独自のスキルというのは出来てくるのだけれど僕はそれが経験上、全然自分のやりたかったこととかぶってこないんですよ。だれかにこんなんやってくれへんかということを思い付いたけれども出来るには僕だけなんですよ。もちろん、僕はもっと速く走りたいけれど走れないという肉体上のことで出来ないことはあるのだけれど、独自にこういう間で芝居したら面白いなとか考えても、それそれということはまあないんですよ。だいたい、そういうことを言ってるうちにこうかなあと役者がやってきたら、違うけどいいよそれでも。違うけどいいよそれでもということの集積が芝居にはなってる。集団でやってるスキルというのはあるんだけど僕に取ってはそれは薄い。違うし、極端なことを言うとそれが僕のやりたいと思っているニュアンスを阻害していることすらあったりする。でも、観客から見たらかなりのハイレベルで達成されていることもあるから、よもや僕がそれとは違うことを狙ってるとは観客は思ってなかったりして、けっこうジレンマだったりしたんですよね。

 上海さんは一人でやる芝居は多いじゃないですか。ある意味では僕が勝手こっそり思っていたのはある意味で上海さんの集団はええ線はいってるけれども、ほんまはちょっと違うねんというところが上海さんにはあってやっぱりやろうとしたらオレひとりしかできへんなというようなところがあって……。

 上海 それはないとはいわんねんけれど、確かにオレやったらこうやるねんけど、やろうとするとまず自分で動いてみる。そしてだれかに見せる。オレはこうがいいと思うんだけど果たしてそれが自分で出来ているのかどうか実は分からへん。シャトナーが自分は出来るけどほかのやつは出来ないというのとちょっと違うのだけれど、オレはこうしたいというイメージはあるのだけれど果たしてそれが自分で出来てるかどうか。

 西田 もちろん、僕も出来ているかどうか分からないですよ。その段階では。こうしたいのが多分鍛えたらできるやろうなとか、人に見てもらいながら修正したら出来るだろうなとかそういう可能性を含めてのことですから。

 上海 例えばオレがやってみる。そこにほかに人間がいて確かに上海太郎がやってる方がいいと言ってくれた時に自分から発したものが皆に伝わったのかというのはいろいろやろうけれども、こんなことをしたいところに引っ張っていきたいと思う。けれど結局それはどこかでシャトナーが言ったように自分はこうやねんけれども全然違うところでなにか落ちがついていくというのに近いのかもしれない。でも、ある部分ひとりでやれることというのはひとりでやることでしかなくて、自分で出来なかったらそこまでやから、オレがやりたかったのはこうや、どこまでやれたかは分からないけれども自分の描いているイメージにせいいっぱい近づこうとしてここやという部分をひとりでやって、たくさんでやるときにはたくさんでないと見えてこないものを自分でも発しながらなんか違うんやけどなあと思いながらもどこかで妥協しているのかもしれない。

 でも、例えば分かりやすい言葉で言うと動く。動くでも踊るでもいいんやけれど、例えば音楽を流しながら、音楽のカウントで合わせて「こう、こう、こうか」というのをやるとする。その時に音楽をはずしてやってみようか。その時には完全にパフォーマーの間合いで動いてみようか。ダンスでもジャズダンスとかタップダンスやっている人は割と曲に合わせて動くのが得意で、コンテンポラリー系の人とかはむしろ音楽なしでも合わせるようなことをやるわけだけれど、そういう風にやったらどう見えるのかなをあれこれ実験してみる。カウントで合わせて3でこっち向いて、5でこっち向いて、7でしゃがもうかとやってみて、それはそれでまあ合いやすい。全く音楽が流れてないところでここのきっかけをこれでやってみようとポンと皆で動く時に自分ひとりでは分からないことだけれども、その中でひとつのある間合いをどう息を合わせていくのか、まさに息で合わせていくという作業をやりだした時に音楽で合わすのとはまったく違う空間がそこに生まれる。その時にそのことを身体で覚えた人間に対してはそこはお前の息でとかという合わせ方もしていく。あるいはここはもう音楽に合わせてジャカジャカ行っちゃおうとか。そのことがオレなりにいろんなことをかじってきて、なんでそんなことをするんやろうと最初は思った。曲で合わせりゃいいやん。でも、例えばコンテンポラリーのやつが曲に合わさんほうがいいとちゃうかという。なんでって聞いても答えは返ってこない。なんでそうするのかなということを確かめようと思いながら稽古するなかで、こういう風に見えるのかというのがある日、ポンとそこに表れる。なるほどなーと思うわけだ。

 やっている人間がどこまでそれを理解しているのかは分からないけれども、音楽止めてってずっと音楽なしで音楽は鳴ってるけど皆できっかけを作りながらザー、ザー、ザーと動きはじめる。その時にまったく違う世界が見えたと思った時にそのことを身体で覚えた人間とそうでない人間とでは明らかにオレのなかで要求すべきことのレベルが違う。

 西田 なんやろう。要求して大丈夫な相手には要求したいんですよね。理想的集団像ではないんですけど、本当は僕の手元に来るパフォーマーが上海さんであるとか、上海さん以外の上海さんクラスの人に対してこの集団でやってくれと言えればいくらでも要求したいんですよ。多分、要求通りにはしないだろうし、なにかここ音楽なしでもいいじゃないとか言ってくれたりするだろうから。ところが学生がまず集まってはじめたような集団だったりすると稀に10人中ひとりぐらいはそんなやつもいるけれどほとんどのやつはこっちからの要求に全神経を集中してしまって、しかもそれに満たないことをしてくるわけですよ。この感じなの。違う。どうなのってやっているとオレが要求してやってもらうというシステムだったらオレがするねん。オレが言ったは言ったとして、その上でお前はなにをするかということをしてくれよということが出てくるじゃないですか。ザーっと動くというものを作るとしても要求の範囲内のものしか出来てこない。たまたま、ミスって、そのしょぼい動きもええかということは僕の中にも出てくるけれどその時にはもう僕が発見したら新しいものが出来るけれども僕が発見しなければできないということしかなかったりするわけですよ。

 だれがディレクションしても構わないというぐらいに発想力がそれぞれ高いものが集まっている集団ならば僕はぜひそういう集団と集団として行動して行きたい。

 上海 それが広い意味でのスキルだとするならばスキルは必要やろ。

 西田 そういうことであればそうですね。そういうことで生まれてくるスキルはすごく興味はあるんですよ。

 上海 でな、話を聞いていたらシャトナーの方がオレよりずっと自分の中のイメージが確固としたものがあって、オレの方がもっと場当り的にこう……。

 西田 (さえぎるように)違うんですよ。要求としては僕は場当り的で。あのね、上海さん、それはオレが書かれたらきついところがあるんだけれどあれほど自分から発想してこないやつらを相手にあそこまで演出できたということは僕は本当に場当りに関しては一流です。だって、僕はほとんど自分の思ってるイメージはゼロでやってきましたから。思ってるイメージはどれも使えたことがない。全部その場でスキルすら僕が生みだしてやらなきゃならない状況のなかで、こいつらの出来ることをと……。

 上海 それはよく分かるわ(笑い)。オレもかなりそうなんで。結局、演出家というのは最終的にはリアリストでないとできない。こんな舞台やりたかった。全然違う。全然違うから、オール・オア・ナッシングでもうええわとやったら舞台にはならないわけで、結局、最初はこんなことしたいなあと思いながら、それがどんどん近づいていくこともあればいっこうに近づかない。それでも本番はやってくるわけだ。

 西田 いっこうに近づかないですよ。近づいたことなんかないもの僕は。もうしまいにははなから違うことは計算ずくというか。絶対違うということは分かってるから、稽古初日に本を読んだ段階で、こんなに本当に違うんかいなというところからしかはじまらないのは分かっているから。今、映画を作ろうとしているけど映画はそうはならないんじゃないかと思って楽しみにしてるんだけれど。自分の頭のなかでこんなにしたらすごいなということが実現できたことは10パーセントかな。でもパーセントで計ることでもない。

 上海 オレはある部分シャトナーがピスタチオをやめて、まあ多分いろいろ試行錯誤していくんやろうなあと思う。そんなに間近で見ているわけじゃないけど、たまたま近い時期に何度か会う機会があって一緒に仕事したりとかして、その辺でいろいろ話には聞いてはいる。オレ自身、そとばこまちをやめて、本当に自分のやりたいことをやろうと思ったらここをオレが抜けるのが一番早いと思った。絶望に近いという意味では似たようなものかも分からない。そとばこまちは自分が劇団に入った当初からかなり中心メンバーでやっては来たけれども最初のうちは演出なんかもさせてもらえなかったし、どちらかというと人格的に問題があると(笑い)。

 西田 上海さんがですか。

 上海 こいつは人の面倒を見られる人間やない。人に面倒を見てもらうのが関の山でとすぐけつをまくりおるやろという感じで。それで自分なりに人格を多少なりとも、人格自体は変わらないけども表面的だけでもちょっと変えながら、なんとか演出がやれるようにした。ただ、演出というのはやはり人をお守りしていかなければならないわけで基本的には向いてないやろとは思うんだけれど。

 西田 結局、僕も上海さんも向いてないにもかかわらず、本当は人の面倒を見るのはいいややねんけど、発想力というか、発想のバリエーション、スピードにおいて群を抜いてたと思うんですよ。自分の望みを全部放棄してしかも作品を作れるぐらいの頭脳と体力があって、望み通りのものを作ってたわけじゃないんだけれど、と僕は思うし、上海さんもそうじゃないかと。

 上海 だからな、分からへんけど、シャトナーの話を聞いててものすごく似ているように思う部分もある。たぶん言い回し、シャトナーのレトリックとしての割と絶望からはじまるみないな。例えば集団に関しても絶望している、演劇というものにも絶望している。それは言い方を変えるとものすごく集団に対して幻想を持ってるからじゃないか。「燃えるような恋がしたい」と思って。

 西田 かもしれないですね。

 上海 そこまで絶望したんかなというとやっぱり絶望したんやろうね。

 西田 どうなんやろうなあ。

 上海 二度と女なんか〜〜〜(海に向かって叫ぶような調子で)

 西田 自分へのレトリックの側面から切ると、僕は上海さんよりひねくれてるとは実は思わないんですよ。つまり、自慢たらしい言い方に自分ではなってると思うんですけど、絶望しているにもかかわらず集団をやろうと思えばやれるよ、そこまで絶望しているにもかかわらず演劇やろうと思えばできるよ、唯一無二のところまで行けるぜというのは向いてるからやってるわけじゃなくて、向いてもないし嫌いでもやろうと思えばできるよというところに自分で行きたいと思ってる。なにか向いてるからやってるとか好きだからやってるということに甘さも感じるし、集団好きやから集団やってるんですということもすごく弱い気がする。純粋に集団でやっていくならば集団嫌いでもやっているというところまで行かないとあかんやろうとか、純粋に演劇としてつらぬこうと思ったら、演劇なんかどうでもいいんやけど、しかし、オレはここまで演劇できたというところまで目指すべきかなと思ってやっている。

 上海 すごく分かるんやけど。でも、たぶん、オレが別の言い方したらシャトナーはまた別の言い方をすると思うから(笑い)。

 西田 上海さんにしても無言の芝居をしてるけれど、しゃべったらどんな集団にきても一番しゃべる人なんですね。やっぱり、よっぽど言いたいことがあるんやなあと。そんな嫌みなことを考えてるわけでもないけろうけれど、オレは黙っててもここまで語る男なんや。黙っててもこれだけ語るねん。言葉使うんやったら、相当考えんかいという気持ちが僕だったらわいてくる気がします。言葉使わんでここまで来ててその上で言葉に対してなんか言おうやとか。

 上海 恰好いいこと言おう思ったら調子に乗ったらなんぼでも言うけど(笑い)。

 西田 言うてください(笑い)。

 上海 最近、恰好悪いことに対して潔くありたいというか、恰好悪くても平気ということが自分で恰好いいというようなことがある。それともうひとつはあこがれとしてシャトナーがニヒリスティックになる部分も自分もすごく似た経験をしてきたような気がしている。

 西田 僕真っ直ぐですよ、でも。ほんまは。上海さんは上海さんなりに真っ直ぐだとは思いますけどね。ほんまは上海さんがニヒリストですよね。恰好悪くてもいいというのは。

 上海 オレはな、実はシャトナーどころじゃないええカッコしいやと思う。

 西田 え、僕はええカッコしいとちゃいますよ(一同笑い)。

 上海 ええカッコしいはええカッコしいやねん。だから例えば集団ということについてもやっぱりなんか一筋縄ではいかん回答をする。それがよくもあるんだけれど。本音とレトリックと使いわけて、ちょっとカッコつけてるようにオレには見えて、可愛いんやけれど(笑い)、よく似た部分があるからすごく分かる。分かるというと失礼やけれど、分かるという気分になってるだけかもしれへんけど似てる部分も感じるし。ある部分けっして年の功とか言いたくないけれど、やっぱり似たような経験をしてきていると思うから、シャトナーがこれからどうしていくやろうか。だからある意味、ピスタチオをやめた後のシャトナーには興味があって、今でもどんなことをしでかしおるのかなというようなことが興味がある。かと言ってけっして、同じ人間が2人出てくるはずもなし、たぶんまた全然違う方向に向かって行くんやろうなと思って。それは多少なりとも時代もどんどん変わっていくわけだし、自分がやってきた集団自体もまた全然違うことを経験してきてる。違う人間がそこからどう新たな出発というか、どういう方向性を見いだしていくのかというようなことがなんかすごく人ごとじゃない部分が多少なりともある。それがこうやって話を聞いてても、えらそうに聞こえるかもしらへんけれども、自分もそう言いたかった部分もあるし、今でもそういう部分もあるし、もちろんそれだけではないやろうし。

 西田 僕はね、今言ってたみたいなことはピスタチオをやっていた時代には明確には自分でも分かってなかった。もちろん、今はあのころに比べたら、違う側面から見ているだけでもっと別の解釈をまたしていくだろうと思うんですけど。

 ニヒリスティックとか時々、人とインタビューなんかでしゃべるとなんか理想主義的なことを言っていると言われるんやけどそれは自分ではけっこうマジに思ってるところがあるんですよ。今、僕がしゃべったようなことが僕も後で何カ月かあるいは何年かたつと分からないですけど、今の自分に取ってはひねってはいない話なんですよ。

 集団の話になったりするとやってたころの集団に対する自分の思いとかは集団は関係ないような言い方じゃないと通じないなあと。

 上海 でもなんか、ほんまにこんな集団でやれたらなあみたいなことって思わない。

 西田 あのね。思ってましたねえ。

 上海 ました。過去形?

 西田 今はね自分の欲望じゃなくて、LOVE THE WORLDという劇団をもうちょっとやるつもりなんだけれど、なんでやってるかと言うと僕がやりたいっていうところゼロじゃないけれど、そんなことよりはそうやって集まってきた連中もうちょっと面倒みてやりたいなあというか。

 上海 それ思うとな、シャトナーはすごく優しいんや。

 西田 優しさでやってるところがありますから。僕、世間に対して自分の作品を発表する動機が自分のなかにはない。家で作って自分だけ見ときたいのだけれどなんで発表するのかというと、どう考えてもこれオレしか思い付いてないなあと思って、しかもこれの内部まで人が知ることが出来たらもうちょっと戦争が減るなあとか、皆ももうちょっとしあわせになるなあと思ったら、オレしか思い付いてないから責任として、車輪を発見してしまったものの社会責任として人々はオレが言わんかったらいつまでも車輪を発見しないので、こうやったら車輪できるねんと皆に持っていったら、ほとんどの人は車輪のほんまの価値とか分からないからまたしょうもないこと言われてしまうのだけれど、言われながらも持っていくんですよ。そんな親切心で優しさで発表しているというと傲慢と思われるだろうけれど、そんなところにしか動機がないんですよ。

 上海 オレはそれをなんか、かたや一人でやってみようというのと、どこまでもこれはひとりではできへんなあというところから出発して、かと言って自分がこいつらやと思うような人間がごろごろ集まってくる集団というのも不可能だいうのはシャトナーじゃないけれども諦めたことから、でも、ええやこの程度でなんか作れるやろということではじまってなおかつオレの中ではシャトナーほど自分の思っていたことと全然違うというわけではない。そう思ってるだけかも分からへんで。そのうちこれだめ、といううちにはじめ思ってたのはこれやったんかも分からへんと勘違いをしておるだけかもしれない。でも、なんとなくそうやって今回も何かを発見できた、こんなことが作れたという満足感にはどこかで浸っている。浸れてるからたぶん続けてこれて、なおかつ自分なりに「オレってなんでこんなんやろうな」というようなことをしれなりに解きほぐす作業ができて、解きほぐしても答えは絶対に出ないけど、オレってこんなクエスチョン持ってるねんぞということを皆にぶつけたら皆もそれを共有してくれて、そうだな、なんでやろというので終わってしまうけれど、話聞いてもらったというようなことで、ほとんど聞いてもらったらカウンセリングのようなもので、満足してるんだろうと思う。

 西田 どこまで自分のやっていることが唯一のものと思ってはるんでしょうか。僕でいったら、人に見せなあかん責任があるとはいいながらも、僕にしか思い付けないことをやっているわけだから、絶対に理解されるわけなかったりするわけですよ。

 違うところで楽しんでもらったりして、皆面白かったよと喜んでくれるのは嬉しくもあるのだけれど、とか言いながらも聞いてみたらやっぱり分かってないしということがあって、ゆうたら僕の奥さんですら分かっていない。それは文句に思う気持ちもあるけれど正直言って、そんなんを探して発表してるんだから、それは分かってもらえるわけないし、もうしゃあないと思ってるんです。

  上海 うん、逆に言うとオレ自身が分かってへんみたいな。オレ自身が分かってへんことを突き詰めていってるみたいな。

 西田 人に解釈してもらって、オレはそんなことをやっていたんかとか思うわけですか。

 上海 いや、というわけではない。それもないわけではない、そういう風に見えたのかというのもあるけれど、もっとあるのは再演した時になんでオレこんな芝居作ったんやろうなあと思うわけだ。記憶力悪いのか動機がよく分からなくて、当時のノートを引っ張り出して、その当時こんなことを考えていたんかとまた練習のためにビデオ見ていたら、このシーンてこんなシーンなんちゃうかなと思いだして、自分で作ったものを解釈しはじめる。

 西田 ありますね。それは。

 上海 なるほどこんなシーンやったんやとたぶんその時初めて発見することがあって、ああ、そうかそうかとか言いながら、ビデオ見てしまったり、練習してしまったりすることがある。そうやって、自分でもなんかこんなんみたいにして作っていて、なんかできたって風には思ってるんやけど、でもなんかまだ違うような気はするんやけどまあええかとか思って。客がちょっと喜んでるとその部分で多少なりとも満足しつつやね、自分でふとオレの作ったのはこんなものだったんやというのを何年後かに発見していって、じゃあこんな風にやってみようみたいなことがちょくちょくある。だから、要するに自分の作ったものというのが自分でもよく分かっていない。逆にここで終わりではなくて、さらにこのことを何年かたって見たら新たな自分がいて、こう見えた。多分、言葉を使わない部分でそういう余白が多いかなみたいな気がしているのね。

 だから見えてしまえばこうで、別の役者がやったらこう見えたとか。で、役者なんていい加減なもので大してなんにも考えてへんのやけれど、なんも考えてへんやつほど深読みしてしまうというか、あ、こんな風にも見えてしまうというのがある。それでお前なに考えていたんやと聞くと、なんも考えていない。段取りどうやったかなあと考えてましたみたいなことでも見る側は見てしまう。そんなことから考えるとシャトナーのような言い方になってしまうけど、自分をすら分かっていない。自分が何を作りたいのかというのを探しながら、もともとオレ自身はすごくそういう思いが強い。

 例えば上舞の旗揚げの前にオーデションをやって、歌のテストをしたという話を前にして、歌までテストしたんですかって言われたんやけど、だけどオレは集団がどんな集団になるか分からない。とにかく、どんなやつがいて、どんなことができるのかが見たいから、芝居やらしたり、歌わせたり、踊らせたりした。

 西田 僕も自分でもこれやったらどうなるか分からへんからやってみたかったからやるじゃないですか。でも、観客に見せたり、同業者に見せたりしても確信持ってやったと思われたりするじゃないですか。

 上海 ああ、ほとんどそう思われるやろうねえ。

 西田 いうたら、そんなことさえ人には伝わってないやないですか。だから、シャトナーのやりたかったことはこんなことなのかとか言われても、オレかて知るかって思うけど、向こうは、というのは客席のことだけど、向こうは麦が確信を持ってやっているということすら疑ってなかったりする。なんも分かってへんという感じがあるんですよ。やってみましたというニュアンスすら分からへんかという。

 上海 この間もなあ、最初はバラバラやったのが、最後のシーンになった瞬間全てがつながったとかってアンケートに書いてるのがいたんやけど、「オレがつながってへんのになにがつながってるねん」みたいな(笑い)。だから、そんなもんやろうね。

 西田 やりたいことは分かるがいかんせん役者が○×すぎるというのがある。やりたいこと分かってるわけないやろお前(笑い)。

 上海 それをどうするかというと、芝居なんてええ加減なもんでって言うべきなのか……。

 西田 それをまさに今、表現の自分の中での人生の最前線のところを見せたんですということすら伝わらへんのです。だから、結局、自分のやってることを人が分かるということもないし、客とも分かりあえない。

 上海 まあ、それはさあ、国語のテストでこの「その」は何をさすかって書いた本人が分からないってこともあるわけじゃない。皆、答案をこさえる技術だけは受験勉強の間、するわけじゃない。これは「なに」と書いたら○がもらえる。でも、書いた本人がなんとなくそう思って書いただけで、えーとか思うことすらある。でも、世の中はその作品を全て意図されて作り上げられたものだ、いう風に見るわけだよね。それが古典であればなおさらそうで、漱石がその「その」をいい加減に書いたわけではないだろう。そういうある種の完成度の高さというかテキストと作者の関係ということに幻想を抱くことはある部分あっていいんちゃうかな。

 西田 そこを僕も言いたくなってきてね、客にこれは脚本ないんですと開示してはじめるという芝居をしてみたり、そうすると意図したものじゃなく今まさに作ってるんやということが分かってもらえたりするんやけれど、どっちにしてもそういうことにすら断絶があっていいとはちょっと思えないんですね。やはり、頼り癖というか…観客のじゃないですよ。僕ら人類の先人に頼る癖、学ぶことに頼る癖、この場で解決する方法がだれも教えてくれないと解決法はないと思ってしまう、そういう癖にすごく文句を言いたいんですよ。

 上海 あの、オレとか見てて、芝居とかたまに見に行って、あ、照明ミスったなあとか、役者とちったなあ、着替え間に合わなかったなとか考えてしまうところがあって、そういうとこに関しては実際にやってる人間はものすごくさとい。そのことがいいか悪いかは別にして。そういう意味では自分の立場をもとに考えたら、もはやこの暗転がきっかけ通りではあるまいとか、これはミスったなとか、きょうこの役者声が枯れててつらいんやろうな、テンション低いなあとか、あれこれ考えながら、芝居を見てしまう。で、話はそこで終わりなんやけど(笑い)。

 西田 観客もね、自分ら少なくとも平均して二十数年生きていたりするんやから、観客も自分の人生に照らし合わせてこれはオレにも分かるとか思ってるんですよ。芝居のなかで鎖が切れるように仕込んでいて、そこで切れてあせりましたよね。うまいこと仕込んでいるようにごまかしてましたけどオレは分かってる、とか。毎ステージ切ってるねんというんじゃ。その思い込みというか。

 上海 でも芝居ってある意味全ての勘違いの上に成立している。する側も見る側も。

 西田 芝居というか、それを言いだしたら出来事全てが勘違いの解釈だけで成り立っているというか……

 上海 特に芝居というのは何百人とか大きいホールだったら何千人とかみたいな人間を相手にしてる。これは上舞はじめたころに読んだ本のなかにあって、当時から今に至るまでものすごく自分に影響を及ぼした。哲学の本なんだけれど、その中にコミュニケーションというのは、コミュニケーションを取ろうと思ったら絶対コミュニケーション取れないというまるでマーフィーの法則のようなことが書いてあった。言葉というのはなにか伝えようと思ったら必ず間違うみたいなことが書いてあって、それはどういう意味かなあと思って考えて、まあ、これはオレの解釈だけど分かりやすく言うと、役者にそこで笑えっていうとその笑いは必ず引き攣ったものになるという。楽しそうに見えない。まるで役者が笑えと言われて、おかしくもないのに笑おうとしているかのように見えてしまう(笑い)。

 そこで泣けと言ったらかえって楽しそうに見えてしまったりする。つまり、コミュニケーションはコミュニケートしようと思ったら必ず失敗すると思ったら、いかに失敗させるかというのが芝居の極意かなとオレは自分で勝手にセオリーを作った。それで役者には尻尾をぽろっと出せ、これは見せたくない、見せたくないけれど、見せたらお客さんはそれに飛び付くぞと。オレはおかしいのやけど、おかしくない、おかしくない、おかしいなんて思われたくないけどって時にお客さんは必ずそれに飛び付くだろう。コミュニケーションを成立させようと思ったらあかん、コミュニケーションをいかに失敗させた結果なにを伝えるのか。

 西田 それをやるじゃないですか、僕も自分で出てて、客を楽しませるために別に笑ってへんのやけれど、ふいてしまったりするんですね、相手の芝居に。アンケートにあそこでふいたらだめと書かれたりした瞬間に「しめしめ」とは思えなかったりするんですよ。引っ掛かりおったじゃなくて、だれが本当に笑っているわけあるかとそこでむかついてしまって、伝わらんのおとか。シャトナーさんがそこでわざとふいたのがハイテクニックだったと書かれたらこいつ見る目あるなあと思ってしまうのだけれど、そこはオレが分かりやすくやったところをいかにもオレが看破したみたいに書かれた瞬間にその鈍感さが、ひいてはそれが戦争につながるような気がして。(一同笑い)いや、だから鈍感であらないでおこうよと言いたいんだけど、つまり、オレはこうだと客席のだれかが思うかもしれないけど、全部勘違いかもしれないということぐらいはいつも思っておきたいのに客席に来た観客というのはだいたい確信を持って勘違いをしていってる。

 上海 例えば受験勉強、ペーパーテストで「その」は何をさすかというので皆勝手に受け取りゃいいやん、自分の思ったのがそれやろでもいいであろうに何か画一的な答えが要求されるようなことがあるなかで、多分、舞台とかそういうものこそ、だれがどう感じてもいいだろうと思いながらもしょうもないアンケートに炸裂したりするんやけど(苦笑)。

 西田 僕はどう思ってもいいとは思わないですね。国語の話というか少し話はスライドしていきますが、確か、化学の試験で氷の結晶が解けたらなにになるかっていうんがあって、「春」と書いたら×やろう。そやけど、春やろうやっぱりと思って春と書いたら×になるから怒り狂いながらやっぱり水と書いていくようなことを僕らは二十何歳までやってきたわけですよ。そこでいかに×と言われようと世間のやつが全員敵に回って下手したら僕は大学に進学できないとか、終いには生活できなくなって死んでいくということがあろうともやはり正しいことは正しいこととしてせなあかんと思うんですよ。だから、本当は受験生は皆こぞって春と書かかなあかんし……。

 上海 でも、化学のテストやろ(笑い)。

 西田 ちょっと例が悪かったな。「その」の答えを好きに書いとくべきなんですよ。

 上海 すごく天然に春と書いてしまったらと思ったらほほえましい話だし、それを逆に分かっていて春と書かれたら先生はむかつくやろうし……

 西田 例が悪いか、やはり。僕も化学のテストに春とは書かない。今、自分のやってることは間違っているかもしれない。もっと正しいことがあるかもしれないというセンスを常に持っておかないと戦争は終わらないわけです。

 上海 自分の感性で感じるとか、自分の頭で考えるとか言うことがすごくポイントかなとオレは思っているのね。

 西田 どうかなー?。そうですか。オレはあかんと思う。自分の感性でも考えんとあかんけれど、自分の感性で考えてもそれはしかし間違っているかもしれない、もっと大いなる答えがあるかもしれないという予感は持っておかなあかんというか。もちろん、それで自分で考えるんですよ。自分で考えたら最後それしかないと言うんだったら考えん方マシやし。

 上海 うーん、でもやはり出発点はそこでしょ。

 西田 出発点はね

 上海 前にスポーツと芸術の違いはなんやろうと言ったことがあったと思うんやけど、やっぱり、自由というのはなんだろうと思ったら、社会的な自由というのはもちろんあるんだけれど、例えば、黒人の差別があったとか、そこに本当に自由がないとか、社会的な自由というのはあるんだけれど、もっと別の精神的な自由、こんな風に思ってもいいやとか、これもありや、答えはひとつでない、いっぱいある。氷が解けて春になったっていうのもあるし、いろんな選択肢があって、それが社会的にそれが受験に通ろうとか、あるいは人間関係などでもお前なめとるんかとか言われまいとか、いろんな制約の中で思いやりが必要だと思う。その思いやりとは対極にあるものの中でお互いが自由であってもいいんだという面で芸術というのはあるなにかが保証されている。審判がストライク、アウトと言ってもオレにはボールに見えたっえ思うのは自由やけれど、食ってかかったら退場になるわけや。

 スポーツというのは審判が唯一無二の神で、審判の言う通りにゲームが進行して行く。でも、スポーツでない芸術というのがなんなのかというとやっぱりフィギュアスケート見て、金メダルはだれだれ、銀メダルはだれだれ、銅メダルはだれだれ。でも、オレの中の金メダルはあの銅メダルのやつ、オレはあいつが一番好きって思う自由はあるわけだ。

 西田 あのね、僕はスポーツというのは世界のありようを比喩化したものであって、審判が神様か大いなる意志の代わりとしているわけだけど、世界でやってる芸術にせよ、喧嘩にせよなんでもいいけれど、それは審判は僕らの目には見えないし、概念上審判はどこかにいるかもしれないけど、それぞれがそれぞれの思いで答えを出すけれどしかし審判がそれといったわけではないのを忘れたらいけないと思ってるんですよ。それを芸術でいうと先ほど上海さんが言ったように自分のセンスで自分の感性で答えを出すべきなのだけれど、自分の感性で答えを出したら最後、それがまるで自分に取っての審判が出した答えであるかのようにそこで止まってしもうたら、あかんと思うんですよ。君はそう思った、私もこう思った、作家自身はこう思ってる。だけれど、審判はいないから取りあえずは分からないよなと。客席のあなたはそう思ってこう思っただけやでと、そこで自分の感性を働かしていかなあかん。

 上海 あの、例えばオレがやってる舞台というのはものすごい取りようがバラバラなんや。それが例えばマイムっぽいことをやったり、あるいは無対象でなにかをやったら。例えば「スワッピング」というタイトルで子供がおもちゃで遊んでいてその横の子のおもちゃをちょっとさわりに行った。向こうから出てきたので慌てて元どおりに逃げた。客は子供たちが遊んでいる可愛いシーンだったとだけ思うやつもいるわけや。それで後でタイトル見てぶっとんだというのもあって、それだけ見る人間のそれがどういう比喩なのか、メタファーなのかということに行き着くやつもいれば勝手に可愛いシーンだと思って満足しているバカもいるわけだ。そのことはいいか悪いかは別にしてそれだけ皆がいろんなことをそこになにかを見いだそうとするんだけれど中にこれは答えはなんやろう、正解はなにか、皆なんだと思ってるんだろうということばかり考えているお客さんて中にいるのよ。

 西田 皆というのは客席にということですか。

 上海 そう、客席に。自分はこう思うけれども、果たして解答はなにだ。上海太郎はなにも見せたいと思ってやっているのかっていうことが気になって気になってしょうがないお客さんというのがいる。ところが、全然勘違いして、ものすごい喜んでいる客がいて、ほんで芝居を見に来てもらって一緒に飲みにいってさわいでいたら、例えばオレがボディペインティングをやる、それも全部無対象でやっている。こんな缶みたいなのにペンキをどぼどぼ出してそれをグワーやって壁にべたーとか(仕草付きで熱演)。

 西田 マイムで?

 上海 それは「芸術家の1日」っていうシーンなんやけれど、「芸術家はああやってお風呂に入るんですよねえ」なんて言ってる子がいて、でもものすごく満足しているわけ。で、こいつものすごく喜んでるみたいやけど、ごっつい早とちりというか、勘違いしとるなあという人間がいて、片や「あれはなんやろう」と気になって気になってしょうがないという客もいて、どちらかというともういいねん。自分が見えたように面白いところをみつくろって、なんか自分でストーリーを見立ててくれればいい。オレはそう思っている。それを答えはなにか、皆がそこに何を見たか1つでないといかんという風に思いながら見ている人は意外とエンジョイできない。

 西田 僕はエンジョイさせるために芝居を作ってるのと違うという前提があるからなかなかそこに「うん」と言えないんですね。貿易センタービルに飛行機が突っ込んだとする。せめてなんでそんなことをするんだろうと思うことにしとかないと、あれを見て、テロリストはこういう風に思ってやりおったんだと思い込んでしまったら最後、戦争じゃないですか。それは芝居と関係ないと僕は言いたくない。

 上海 それが世間で言う答えになっちゃうのよ。マスコミがそれを煽って、マスコミの言うことが全て世間一般が考えることなんだ。それに対してどんな思いでこいつは、こんな気持ちで突っ込みよったと違うんかとか、そいつの過去にこんなことがあったんとちゃうやろかとかいうような想像力を膨らませていく人間がいる。それはあくまで出発点は自分なわけでね。そういう中であれこれ考えるやつがいる。そのことは決して答えは1つではない。

 西田 いやいや、皆の中では答えは1つじゃない。答えは1つじゃなくていいんですよ。ただね、僕は皆がそれぞれの観点で考えたらいいという考え方に真っ向から反対しているわけじゃないですよ。ただ、考えたら最後、それを正解だと思うなよ。例えばテロリストに関していえば正解はありますよ、どこかに。テロリストたちが組織的にこういう意図でやろうという風に思った意図がどこかにはある。少なくともなにかを知ることは知るための努力をしないと。メッセージはどこかに残されていて、自分たちが死んでも訴えたかったことがあるはず。でも、量的にはそれには報復すべきだという風にアメリカという国は動いてしまった。報復すべきだと思った動機とかは多分間違ってると思うんやけど、それも多分でしかない。とにかく、解釈を自分でするのは勝手やけれど、凝り固まったら最後、報復に行ってしまうわけで……。

 上海 オレは別にそんなに違うことを言ってるんじゃないことが分かったけれど、つまり、自分でこう思ったということに安住するなということだろ。

 西田 そう、僕が思うのは。まず思わなあかんけれど、それは出発点。

 司会 安住していなければシャトナーの思ってることと違ってもいいわけですか。

 西田 違っててもいいとは言わないけれど安住してさえいなければいつかは結論に達するかもしれないし、僕自身は自分の考えたことに安住するつもりはないけれど、ああ、そう取るんですかなるほどと思うこともあるかもしれないけれど、少なくとも作り手側は安住してない人がほとんどだと思うんだけれど、それは 10人いれば10人の受け取り方がありますよというような浅いところで止まってしまうと皆安住していくんですよ。そんなぐらいやったら全部賢い人が思想統制するほうがマシだと思っている。

 上海 そういう意味ではシャトナーってものすごい客に期待してるなあ。

 西田 いや、期待言うか、期待してもせんなきことにすぎないんやけど……。

 上海 熱いんや。すっごい客にも期待しているし、自分の作るものや、自分を取巻く集団とかにも期待しているし、なんかやっぱり、ある種のはすに構えて言うてるように聞こえる部分というのはある。それが自分の中にすごい理想があって、そんな言い方をせざるをえないというか、普通に言ったら誤解されるやろうというようなことやろうけど。

 西田 そうですかねえ。

 上海 オレなんかは観客というものに対してそこまで熱くなれない。

 西田 全く本当にハスに構えているつもりはないんですが。

 
 
  
 
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