下北沢通信

中西理の下北沢通信

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舞台上で加速するノイズ的身体/矢内原美邦プロジェクト「3年2組」

 MIKUNI YANAIHARA project「3年2組」(7月17日マチネ)を吉祥寺シアターで観劇した。ニブロール矢内原美邦によるプロデュース公演。ニブロールのメンバーからは矢内原美邦と映像の高橋啓治が参加。今回はニブロール本公演ではなく、それ以外は衣装(広野裕子)、音楽(スカンク)と外部のスタッフが入ったので全体としてどういうテイストになるんだろうと見る前は若干の危ぐを覚えての観劇だったが、まさに矢内原美邦ワールド。本公演以上にニブロールの匂いがする舞台だった。
 「3年2組」という表題の通りに舞台はとある学校の3年2組の教室からはじまる。その後、それぞれの級友が回想する当時の出来事や彼らがその後どうなったのか、そして、卒業して何年後かに当時校庭のどこかに埋めたタイムカプセルを掘り起こそうということになる、といったエピソードが台詞を交えて、断片的、コラージュ風に語られる。
 台詞のある演劇のある意味、宿命的ともいえる欠点は俳優が言葉を発してしまうとその瞬間に舞台上の時間が停滞してしまい、ダンスパフォーマンスが持つようなドライブ感が殺がれてしまうことにある。ニブロールの魅力は特に音楽に乗せて、加速していくようなドライブ感のある舞台が進行していくところだが、例えば以前にニブロールがやはり演劇公演だとして上演したガーディアンガーデン演劇祭での「ノート(裏)」ではどうしてもそうしたよさが、台詞によって分断されてしまった。
 これを回避するためには例えば維新派のように言語テキスト自体を単語のような短いフレーズに分解して、ボイスパフォーマンス的なものに変形させていく手法はあって、言語テクストを多用するダンスでもそうした方法論が踏襲されることはあるのだが、矢内原の選択は違った。
 「3年2組」で矢内原は会話体を温存しながら、その台詞を速射砲のように俳優が発話できる限界に近い速さ、あるいは場合によっては限界を超えた速さでしゃべらせることによって、言語テキストにまるでダンスのようなドライブ感を持たせることに成功し、それが流れ続ける音楽や映像とシンクロしていくことで、ダンス的な高揚感が持続する舞台を作りあげた。
 興味深いのは矢内原の振付で特徴的なことに動きをダンサーがその身体能力でキャッチアップできる限界ぎりぎり、あるいは限界を超えた速さで動かし、そうすることで既存のダンステクニックではコントロールできないエッジのようなものを意図的に作り出すというのがあるが、この作品ではそれを身体の動きだけでなくて、台詞のフレージングにも応用しようと試みていたことだ。
 ダンスの振付と一応、書いたが、通常「振付」と考えられている「ある特定の振り(ムーブメント)をダンサーの身体を通じて具現化していく」というのとは逆のベクトルを持っているのが矢内原の方法の独自性なのだ。もちろん彼女の場合にも最初にはある振りをダンサーに指示して、それを具現化する段階はあるが、普通の振付ではイメージ通りの振りを踊るために訓練によってメソッドのようなものが習得されていく(典型的にはW・フォーサイス。彼は彼の常識はずれの身体的負荷を持つ振付を具現化するためにサイボーグとさえ称される超絶技巧を身体化できるフォーサイス・ダンサーを育成した)のに対して、ここではその「振り」を加速していくことで、実際のダンサーの身体によってトレース可能な動きと仮想上のこう動くという動きの間に身体的な負荷を極限化することによって、ある種の乖離(ぶれのようなもの)が生まれ、それが制御不能なノイズ的な身体を生み出すわけだ。そして、こういう迂回的な回路を通じて生まれたノイズを舞台上で示現させることに矢内原の狙いがあると思う。
 ここで思い起こされるのはチェルフィッチュ岡田利規が言葉と身体の関係性のなかから生まれてくるある種の乖離(ずれ)の重要性というのをやはり強調していたことだ。それに至るアプローチの方法論としてはまったく異なるというか、逆のベクトルを持っているようにも思われるこの2人のアーティストが結果的に同じようなものを求めているのは興味深い。これは偶然ではないという気がしてならないし、「ノイズ的身体」という考え方があるとすると、これは「現代の身体」を考えていくうえでひとつのキーワードになりうる問題群かもしれない。
(演劇コラムニスト)