下北沢通信

中西理の下北沢通信

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綾門優季(青年団リンク・キュイ)インタビュー2

(インタビュアー/文責は中西理)
中西理(以下中西と略す) 青年団に実際に入団してみてどうでしたか。
綾門優季(以下綾門と略す) 最初は自分の作風と青年団がやっていることがかけ離れている気がして不安でオリザさんに「こんなに作風離れてるんですけど大丈夫ですか」というようなことを言ったら「多田くん*1とかいるから大丈夫だよ」と一蹴されたんです。でも、多田さんと比べても現代口語演劇からは遠い気がしている。多田さんはたとえば「再生」とか見ていると音の印象がもの凄く強いからそうは思わないんですけれど、テキスト自体は現代口語演劇なんです。
 青年団の人たちが僕の芝居に出演する時には化学反応ではないですけど、全然違う効果が生まれているなというのが一緒にやって思った最初の印象です。この間やった「汗と涙の結晶を破壊」がこれまでで一番青年団の俳優の比率が高かったのですが、それを見た時に感じました。あの舞台は戯曲ですごく新しいことをしたわけではなく、今までの系譜のひとつだと思うんですが、最大の違いは青年団の人が大半を占める公演だったことで、それだけで見え方がだいぶ違う。演技面でもセリフ面でも青年団の人は方法論とかいままでの経験とかが浸透しているからそれで僕の戯曲をやろうとするんですが、明らかにそれではやれない部分がある。それを無理やり落とし込もうとすることで「こんなやり方があったんだ」と逆に僕がびっくりするようなことが起きていた。
中西 大学の仲間と一緒にやっていた時代とくらべると青年団の人たちと一緒にやると表現できる領域というか、戯曲が身体で体現するものというのはだいぶ違うのでしょうか。
綾門 違うと思います。オリザさんのやっていることを現代口語演劇だとするとあれは一種伝統芸能化している。あれはあれとしての美学がありますが、今の大学生のやりとりでは全然ああいう会話がリアルではなくなってしまっている。LINEやtwitterを私たちの世代は当たり前に全員やっていて、それが会話に良くも悪くも大きな影響をもたらした気がします。そういうのが当たり前の人とナチュラルさというものをあそこまで突き詰めた人だともう声の入り具合から一瞬で違うなというのが分かる。前提条件が人を作っているんだなと思います。
中西 いわゆる現代口語といってもオリザさんの使うものは1つのフォーマットとしてはあるわけですが、チェルフィッチュ岡田利規さんが別のフォーマットを使って作った。だけど、快快なんかを見ていると別にあれは様式としてやっているわけじゃなくて、普段がああだからああなっているだけだという風に感じられます。
綾門 様式では全然ないですね。フォーマットという切り口であると青年団演出部のうち無隣館1期から入ってきた同期の作品を若手自主企画とかで見ていると思うのはもはや方法論の拡張ですらないけれど、それでも確かに青年団の影響はあるなというものになっているということ。例えば柴幸男さんや、岡田さんは現代口語の方法をさらにこういう形で拡張できるというものだったと思うのですが、蜂巣ももさんがやっていること、この間山内晶さんが若手自主公演をやられていたことは青年団の方法論のフォーマットを更新したとかとはあまり関係のない、でも新しいものになっている。そこに私も含めて断絶がある印象はあります。玉田(真也)さんとかまでがぎりぎり現代口語演劇でさらにこういうこともやれるということを拡張している感じがするんです。
中西 平田オリザさんの一番いいところは自分の演劇理論とか方法論はちゃんとあるんだけれどそれ以外のものもちゃんと認めるというところだと思うんです。
綾門 そうですね。無隣館2期の人とか見ても思いますが、無隣館1期、2期でこういう方針で人をとるというのが、まったく見えてこないんですよね。たぶん、実力のある人はだれでもとっているんじゃないかと思います。
中西 初期の頃の演出部の人に何人かややオリザさんのフォーマットに近いものをやっているとひとはいるのだけれど、むしろそういう人は少数で結局、上の世代はオリザさんとどう差別化するかというのを先輩たちはやってきた。ただ、この後、この企画でも取り上げる予定なんだけれど、玉田さんとかは最初に見たときにはオリザさんのような作風に至る過渡期の習作かなと思った時期もあったんだけれど、何作か見てこれは習作ではなく、完成形かどうかは別にしてこれがやりたいからやっているんだということが次第にはっきりしてきた。それではっきり分かったのは若い人の間では平田オリザが乗り越えるべきものとして直接意識するものではなくなってきているということです。
綾門 さらに言えば差別化を図っているのが先輩の世代であるとすれば私たちはすでに差別化されていると思うんです。差別化を意識したからそうなったのではなく、スタートの時点ですでに(現代口語演劇は)「そういうのもあるよね」というものになっていて、「乗り越えるべき父」ではなくなっているんです。
中西 無隣館から青年団に入ることになったのは自然な流れだっんでしょうか。 
綾門 言われたら拒絶する意思を見せなければそのまま青年団に入る流れになって、拒絶する意思はないので、すっという感じで入ったので、青年団に入ったきっかけの話で恐縮なんですが、青年団に入ったきっかけよりも無隣館に入ったきっかけの方が自分の人生にとってエポックメイキングだった気がします。
中西 やはり戯曲賞の最初の方が取れたというのは大きかったんでしょうか。
綾門 あれが取れたことでこの方向でいっても大丈夫っていうのを誰かに肩をたたかれて「大丈夫」と言ってもらったような気持ちになってそれはよかった。ですけど、一方で受賞したし青年団入っても大丈夫だぜ、という風に安穏と思っていたというのも違う。その手法をどういう風に広げていけばいいのかというのは自分でも分かっていなかった。例えば、「情報量の拡大」だけで言えば「止まらない〜」より拡大するのは難しい。30人、40人と人数を増やせばいいというものでもない。情報量の圧縮と人数のバランスではあれがベストな気がしていたので、じゃあ別の方法に自分の中からどうやって探れるのだろうということが、その時はまだうまく分かってなくて、どう考えていこうかなという過渡期に青年団に入った。自信満々で鳴り物入りだなどという感じではまったくなかったです。
中西 綾門さんの作品を見ていて一番気になっているのは文体なんです。文体と身体のあり方がどういう風につながっているのか。そこはまだ模索中のような気もするのだけれど……。
綾門 まだ、模索中ですね。あえてはずれずに自作解説の話の続きをすると、今後再演が控えているせんだい短編戯曲章を受賞した2作品「止まらない〜」「不眠普及」のうち、「不眠普及」で先ほどの疑問にひとつの解答を出したと思っています。「止まらない〜」とか他の私の作品の俳優の身体というのは本来無理なセリフを無理に言おうとやっきになってセリフに身体が引きずられていくようなものだった。トラックにくくり付けられた人間が強制的にトラックのスピードで走らされて、いわゆる普通のセリフを落とし込んでその意味を解釈して、演技をするのが明らかに無理な時に人がどう対応するか。それをなんとかこなしたらこんな感じになりますよみたいなものだった。だが、次第にそれではもったいない気持ちになってきた。セリフの意味を最大限に観客に伝えることに貢献している肉体なのかどうかということが途中で気になりはじめたんです。
 「不眠普及」は一人セリフしかないということもありますが、それまでとはちょっと位相が違って、戯曲の意味内容というものを語りのスピードをある程度落として、情報量を圧縮することをやめて滔々とした語りで純粋に戯曲の意味というものと身体というものをマッチさせて、最大限に伝えるという構造になっている。ガシャガシャに途中でもうまったく付いていけないよというようにはならないように書いた。そう書いた時に戯曲が薄まるとかいうことはなくて、これはこれでひとつのフォーマットという風にできたと思っていて、実際にそれでせんだい短編戯曲賞をしかも単独受賞でちゃんと取り直せたことは大きいことでした。
中西 これは上演では演出を蜂巣ももさんがやったのですが、今言ったことは戯曲の段階に組み込まれていて、演出ともそういうことを話したうえでの上演だったのでしょうか。
綾門 このことについては演出とも話しました。もちろん、その通りに蜂巣さんがやるかどうかは別にして自分の意図としてそういったことを考えているということは話しました。「止まらない〜」が受賞したことで例えば仙台でリーディングが行われたりとか富山で高校演劇、広島で市民劇としてとか各地で上演されたんですね。それを見たら全部が少し似かよるというか、やはり戯曲は設計図だから演出家がいろいろな工夫を凝らしていましたが、先ほど言った「トラックに引っ張られて無理なセリフをこなす」というようなところは共通しているから、これは演出家が頑張るんじゃなくて、戯曲の段階でそうなるかならないか、決定権はけっこう大きな割合で自分にあるんだなと思った。そこから違う方法論で戯曲を書かなければならないという気持ちが湧いてきた。だからこの2作品でツアーを回れるということはいいことだと思っている。それは自分の作風の可能性の持っている極端な2極を体現していると思っているからです。
中西 それはモチーフによって変わってくるということなんでしょうか。それとも今はとりあえずその2つの作風を提示して、その中でどこに着地するのかということを探っているという感じなのでしょうか。
綾門 まだ模索段階というのが正しいと思います。だから、「止まらない〜」でも「不眠普及」でもない新しいやり方が次の戯曲で提示できればと思っています。
 「汗と涙の結晶を破壊」はそうは見えないかもしれませんが、私小説的な部分が大きい作品です。「汗と涙〜」には明らかに「これは自分のことを言ってるんじゃないの」と思わせるようなセリフがあります。例えば30年に1回出てくるから逆に今ありなんじゃないかと言ってるということや受賞直後というか、あの人受賞したけど鳴かず飛ばずでしたとか言われたり、消えたようにみせかけて別の出方をする人とか出ますよね。あれは狙ったわけではないにせよ明らかに自分のことを連想させるような言葉を入れて、それではどこまでが本当でどこまでがフィクションなのかという境界のようなものをうやむやにさせよう、「あれ?本当の話、でも違うよな」などと思わせられるように仕掛けたんです。そういう意味ではけっこう批評的なスタイルだと思います。
中西 私小説という風に言われるとあの登場人物は脳内人格のように取れなくもないですが……。僕がびっくりしたのはアフタートークでの自分をなぞらえるとしたら誰という質問に当然、東というんだと思ったら、「中と北」とおっしゃったことです。それは本気の答えだったんですか?
綾門 本気ですよ。今聞かれても同じ答えです。中は自分は天才だと言いたいから中と言っているわけではなくて、中って怪しいんです。この人本当に天才なのかって。作品が舞台には登場しないから。中は「適当にしゃべって、誰かが喜ぶようなことを言っていけばいいじゃん」みたいなことを東に言って、東が愕然とするというのがあるんですが、僕が作家をやっていくうえで出世すごろくが固定しているとすごく嫌だなという気持ちがある。中が言っていることはそれの批評のようにもなっている。中がしゃべっているのは意識的な計算なのだけど、僕が今質問に答えて話をしているのは計算というわけではない。けれど、やっていることはそれほど違わないと思うんです。北の名前を挙げたのは自分が体験してきたやばい過去の話をするのが私小説だとするならば「汗と涙〜」は体験していない自分のことを書いた。そこでは悲劇的な結末をたどる場合のことも考えました。もちろん、未来の自分には幸せになってほしいけど、ちゃんとああいうところ(北の自殺)にはいかない未来にたどりつきたいけれど、時間の経過で生き残る人と生き残らない人が出てきます。10年後の自分が今の自分に勝てているかもすごく不安です。北が言っている未来への不安はたまに感じることがあって、切実だなと思う。だから、自分にとって切実だなと思うのは中と北なんです。東は狂言回し。だから、あれだけしゃべっているのに東が本当にどう思っているのかは他のキャラクターと比べると見えてこないというか、むしろそういう風にしたんですが、非常に中途半端なんですね。
中西 映画、文学、音楽などジャンルにとらわれずに影響を受けたアーティストがいたら教えてください。
綾門 文学は大きいです。ただ、私の場合、高校から本を読み始めたのですが、一番最初に熱心に小説を読んだのは乙一なんです。乙一の作品をとりあえず全部読みたいと思って掲載されている雑誌を何でも買った。そういうなかで「ファウスト」を知りました。そのころはお金がそんなにあるわけじゃないから買ったものは全部読んだのです。そこでいま批評再生塾でお世話になっている東浩紀さんや、舞城王太郎西尾維新佐藤友哉講談社ノベルスの作家たち(後に一般文芸の方に進出してきたり、文学賞も受賞します)と出会ったのが大きなことでした。それまで小説を読んでいてのれないなというのが強かったんですが、この人たちはそれまでの文学のイメージと全然違うことをやっていて、こういうことをやっていいんだと思ったんです。その開放感のようなものは大きくあってロロの三浦直行さんは先輩だから大学のときから知っていて話をしていて思うんですが、ロロの三浦さんは特に初期のころには舞城王太郎に影響を受けていることを本人が表明していましたが、そういうところが共通している。後、僕も好きな小説家ですがファンタジーノベルズ大賞を受賞している佐藤哲也さん。そういういわゆる人間の実存とは関係のない、人物造形とか人間を深く掘り下げるとかとは関係のない、でも世界を推し進めるために重要なキャラクターを強く打ち出してきている作家が三浦さんは好きで読んでいた。そういう影響は自分も共通しています。
 後、文学の話ばかりになって恐縮ですが、佐々木敦さんと豊崎由美さん。この2人がゼロ年代の文学にこんな人たちがいるんだというのを紹介するのに専念していた時代があって、その頃に佐々木さん、豊豊崎さんの書評を読んでいた。今思えば紹介された作家を読むことも意義深かったですが、紹介された記事を読むことも意義深かったと思います。



 
 
  
 
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*1:多田淳之介=東京デスロック