下北沢通信

中西理の下北沢通信

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トヨタコレオグラフィーアワード(結果)

次代を担う振付家賞:隅地茉歩(ダンスユニット・セレノグラフィカ)
オーディエンス賞:1日目 鈴木ユキオ(金魚 King-yo)、2日目 新鋪美佳(ほうほう堂)
 今回のトヨタコレオグラフィーアワードは選考の結果がいろんなところで波紋を巻き起こしたところがあって、そのうちの一部はネット上にも波及しているようだが、そういうところを含めてとても刺激的な出来事だったということがいえるかもしれない。
 受賞したのは隅地茉歩(ダンスユニット・セレノグラフィカ)でこれはちょっと想定外の人選でもあったので発表の直後にはちょっとびっくりさせられた。それは私だけの印象というわけではないということはその時の会場での観客の反応からも感じ取れたが、そうはいってもちょっとあの雰囲気は受賞者にとっては気の毒なところがあった。今回ほど極端な形ではないけれどそういう雰囲気はこのアワードでは2回目の黒田育世を除くと、いずれもその時点では東京での知名度が高くなかった砂連尾理+寺田みさこ、東野祥子の受賞の際にも程度の差さえあれ、感じられたことでもあって、ここの部分は正直言ってもう少し考えた方がいいのじゃないかと思った。
 ただ、終わった後で選考についてもう一度考えたところ、このアワードの選考基準(どういう作品を賞に選ぶかという基準)というのはなにも今回大きく変わったということではなくて、首尾一貫しているのではないかとも思った。
 ただ聞くところによると選考過程において最終的に議論になったというか、受賞者の実質的対抗馬に浮かび上がってきたのが、チェルフィッチュの作品だったということがあり、そのことが今回に関しては結果として、このアワードの選考基準と現在の日本の、というよりは正確に言えば東京のコンテンポラリーダンスの現在置かれている状況を非常にクリティカルな形で浮かび上がらせたところが、今回のアワードの特徴だったということができるかもしれない。
 前述した選考基準というのをまずあくまでも私はこう感じたというところを述べていくとコンテンポラリーダンスには「コンテンポラリー」すなわち現代性と「ダンス」すなわち舞踊という2つの言葉の複合語であるわけだが、このアワードでは少なくともこれまでの選択であくまでも、この2つのうち「ダンス」に拘った選択がなされてきていること。これは端的にいえば身体の動きの芸術であるダンスにおいて、その創作者がいかなる問いを重ねて、どのような身体言語を積み上げてきたかということで、当然その結果としての実際の作品におけるムーブメントの質、動きのクオリティーが厳しく問われ、その問いの過程が「振付」として評価されるということだ。
 これは逆に言えばそれ以外のいろんな要素は少なくともこのアワードに関していえばそれほど重視されないということで、これはあくまで私の個人的な見方にはすぎないけれど、少なくともひとつでも突出したところがあれば将来性を買ってそれを選択するという色彩の強かった横浜のコンペ(横浜ソロ&デュオ、旧バニョレ振付賞)などとは大きく違うということだ。
 もうひとつの基準は確か第1回目の審査発表の席で、審査委員長が述べていた「振付の自立性」ということ。つまり、これはある意味コンテンポラリーダンスならずとも特定のダンサーが踊るという前提なくして、振付自体を評価しうるのかどうかというのはいわばダンスにおいては永遠のアポリアともいえる問いではあるのだが、それは可能だと仮定して、実際のダンサーを切り離して、その振付が自立して、ただの思いつきなどではなく持続可能な表現となりえているかどうかというのが問われる。これがこのアワードの基準だったのではないかと思われ、これまでの4組の受賞者(砂連尾理+寺田みさこ、黒田育世、東野祥子、隅地茉歩)はその基準をクリアーした人たちとして選ばれてきたと思われるわけだ。
 ここでは仮に「ダンス」の部分と書いたがこれはダンスの歴史性、普遍性において、それぞれの表現がそこに新しいものを付け加えているのかという基準とも言い換えることができるかもしれない。
 もっとも、コンテンポラリーダンスにはそれ以外の評価基準もたくさんあって、それは多くが「現代性」にかかわるものといえるかもしれない。コンテンポラリーダンスという枠組みで捕らえられうるかどうかは議論が起こるだろうが、前者の基準には合致しなくても、後者の基準から優れた作品を作りつづけてきた集団としては例えばダムタイプが挙げられる。
 なにがいいたいかといえばこれはその年に上演された作品のうち一番よかったものを決める作品賞ではなくて、あくまで「振付家」を対象とした賞である限りにおいて、このアワードの性格からいって、ダムタイプがこれまでに上演した作品のうち一番クオリティーの高い作品(例えば「S/N」を上演したとしてもかならず落ちるはず。そういう賞なのだと思うのだ。
 それにもかかわらずチェルフィッチュの作品がそれなりの高い評価を受けたということには実は受賞者がだれだったか以上にびっくりさせられた。ここからはトヨタの基準などというこれまでに述べてきた瑣末な話を離れて考えていきたいが、今回のチェルフィッチュのノミネートはきわめて刺激的な問いをコンテンポラリーダンスの世界に問うたと思う。
 それはこれまで根源に戻って、ダンスの世界では自明なものとされてあまり問われることのなかった「振付とはなになのか*1」「ダンスとはなになのか」「振付と演出の違いを明確に提示することは可能なのか」「演劇とダンスの根源的な差異とは」などの問題群をのど元に突きつけたからだ。
 こうした問いはなにもトヨタの審査員だけに問われたのではなく、根源的な問いとして会場で場を共有したすべての人に突きつけられたのだし、なによりもコンテンポラリーダンスの批評の末席に連なるものとして私自身に突きつけられたものとして、これから継続的に思索を続けていくなかで答えを見つけていかなければならないことではないかと考えている。
 それから今回のトヨタアワードで感じたのはよくも悪くも東京の現在のダンス状況の特殊性である。このアワードで4回のうち3回を関西勢が受賞したのは単なる偶然ではないかもしれない。というのは今回はっきり分かったのは東京と関西では明らかにコンテンポラリーダンスの傾向が違うのではないかということがはっきりしてきた。簡単に説明すると先ほどの基準でいえばもちろんすべてとはいえないが、東京のダンスが方向性こそいろいろあっても「現代性」というところに軸足を置いているのに対して、関西のダンスはよりダンスにおける「普遍性」を重視している。これはもっとかいつまんでいうと、「いまここ(日本)にいる私たち」というよりは「ダンスにおけるムーブメントの追求」とかそういうことで、それを長く続けてきたことが結果的に受賞につながった砂連尾理+寺田みさこや隅地茉歩だけでなくヤザキタケシの例もある。これにはいい面悪い面両方あるが、彼らの作品を見ているとその主題となる問題群自体にはあまり新しさは感じないが、半面、日本だけではない世界のダンスと問題群をより共有している傾向がある。これに対して、東京のダンスはより現代日本というものに対して批評的なアプローチをとることが多く、つねに見かけの新しさ、斬新さというのがプライオリティーとなることが多い。
 こちらにも2つの側面があって、これは既存のコンテンポラリーダンスに対して、なんらかの異議申し立てがある(つまり、それは前衛性ということになるが)ことが魅力ではあるが、その分、ムーブメントそのものと長い時間かけて真摯に向かい合って、自らのダンスを熟成させる時間が持ちにくい、ということもある。もちろん、これは単に傾向を述べたにすぎない*2ので、それぞれに例外があることは当然のことである。
 ただ、ここで問題となるのはひょっとすると世界のコンテンポラリーダンスのなかで東京だけが特殊な状況にあるのではないかということである。最近、日本のコンテンポラリーダンスの海外における評価がいまひとつ芳しくないという声をよく耳にするのだが、これはどういうダンスをよしとするかの評価基準が東京だけが特殊で、それが欧米においては東京においてと同様の普遍性を持たないのではないかという危ぐなのである。別に海外で受けなくたって日本で評価されればいいというのはひとつの選択肢ではあるが、ダンスという芸術が
言葉の壁を持つ演劇などと比較すれば相互の交流も活発で、同じ土俵のなかで評価されうる可能性を持っていることも確かで、これはダンス表現にたずさわる人間にとっては捨て去るに忍びない選択肢である。
 そして、だからこそ海外に向けては無手勝流に行ってもだめでそこで理解ないし、評価をえるには戦略が必要だと思う。モデルはある。現代美術における村上隆である。村上のようなアジテーター的存在が日本のダンスにも必要だと思う。 

*1:個人的には今回の「クーラー」という作品で岡田利規が行った作業は振付といってかまわないと考えるが、例えば舞台上での俳優の立ち位置はもちろん、どういう方向をむいてどのような調子で発話をするかというのを決め細かく演出するともいわれている平田オリザの演出とどこが違うのか。「クーラー」に関しては、動きのフレーズのリフレインがマーラーの音楽の構造によって規定されるなど作品の構造自体がダンス的であるが、演劇公演のスタイルをとる場合にも動きを細かく規定すればそれは振付と呼ぶべきなのか

*2:山下残などは先ほどの2分類によれば東京のダンスと共通した問題意識により刺激的な作品を作り続けている