下北沢通信

中西理の下北沢通信

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HEADZ「を待ちながら」(作:山下澄人・演出:飴屋法水)@こまばアゴラ劇場

HEADZ『を待ちながら』@こまばアゴラ劇場

作:山下澄人
演出:飴屋法水

■出演
飴屋法水山下澄人、荻田忠利、佐久間麻由、くるみ

■スタッフ

プロデュース:佐々木敦
美術:飴屋法水 山下澄人
音楽:宇波拓
音響:牛川紀政
照明:富山貴之
舞台監督:河内崇
舞台監督助手:松本ゆい
衣裳:コロスケ
演出助手:西島亜紀
制作:土屋光 有上麻衣 白迫久美子
芸術総監督:平田オリザ
技術協力:鈴木健介(アゴラ企画)
制作協力:木元太郎(アゴラ企画)

■会場
こまばアゴラ劇場http://www.komaba-agora.com

左半身不随だという男(荻田忠利)がベッドに仰向けに寝ている。傍には少女(くるみ)がいて男に話しかける。どうやら2人は親子らしい。さらにそこにはどこかに出かけようとしてここで待ち合わせたなどと称して小人と呼ばれる大柄な男(山下澄人)と聾唖の男(飴屋法水)がやってくる。ここがどこであるかということについて最初のうちから向かいに「東大電気」という店があるとか、教会があるとか公演会場となったこまばアゴラ劇場を連想される思わせるやり取りが語られるが、全体としてはどうも辻褄が合わない。
そこに一輪車の少女がやってくるが、少女は血だらけでどうやら車に轢かれたらしい。そして次第に彼女はすでに死んでいるということが分かってくる。お腹の部分から内臓に見えるものをずるずると引き出されるなどなかなかにスプラッタなのだ。次に浮かび上がってくる真実は彼女だけでなく「ここにいる人たちは皆すでに死んでいるのではないか」ということなのだ。
父親は「娘に自殺を試みたことがあるのか」と聞かれていた。その場面では「試みたが未遂に終わった」との返答から、生き返ったと単純に考えていたが、もう死んでいるのかもしれない。残りの二人の男たちもどこかに旅に出たいというが、どこにも行けない。やはり亡者だからではないか。
くるみが演じている少女だけは生きているのかとも思ったが、彼女が折に触れて朗読するのが「アンネの日記 増補改訂版」(文春文庫)であるのは彼女もやはり死者であることを暗示しているのではなかろうか。
アンネの日記」のイメージとも重なるが、閉ざされたこの場所には実は外側がないのかもしれない。劇場空間の外側には俳優たちは何度か出かけてはいくが、演劇が始まる前の入場の際に通常は楽屋(つまり劇場の裏側の場)として使われている場所から急な階段を通じて劇場に通された。この場所にはもはや表も裏もなく、内も外もないようなのだ。
 外側がないというのはもはやこの閉ざされた空間以外に世界はないのではないかと感じさせられるということだ。これに少し似た空気感を持つ舞台をだいぶ以前に見たことがあると思い、苦労した揚げ句何とか思い出したのが、深津篤史作演出の「熱帯魚」という作品。断片的な記憶しかないが、倉庫のようなところに閉じ込められた人々がごちゃごちゃと無駄な愚痴を言い合うような舞台で、最後は明示はされないのだけれど世界はとうに滅びてしまっていて、亡者たちの残留思念のようなものだけがそこに集まってきて壊れたテープのような会話を繰り返すというもので、阪神大震災の被災者としてその心象風景の中で創作されたものだが、一方でベケットの「エンドゲーム(勝負の終わり)」を下敷きにしたものでもあった。
「を待ちながら」は芥川賞作家である山下澄人のオリジナル脚本によりベケットの「ゴドーを待ちながら」のような作品をというのが、元々の企画意図だったようだが、出来上がった作品はベケットぽい匂いは残しながらも「ゴドー~」とはかなりかけ離れた設定となっている。山下、飴屋が演じる男たちのウラディミールとエストラゴンの面影がかすかに見受けられる程度であろうか。
 舞台の最後では音楽を担当し舞台上(内)で出演者に入り交じって演奏、オペレーションを行っていた宇波拓ベケットのものの一部と思われるテキスト*1を朗読した。それは何のテクストなのだか判然としないのだが、「ゴドーを待ちながら」ではないことは間違いないしどうも「エンドゲーム」でもなさそうなのだ。
 それゆえ、この舞台の構造の全体もベケットのその作品に準拠しているという可能性は否定できないがやはり私には「エンドゲーム」を下敷きにしているのではないかと思われた。そうなるとますます深津篤史の「深海魚」と比較したくなるのだが、そういう比較になるとやはり自らが遭遇した阪神大震災の記憶を媒介とした深津作品の方に軍配を上げざるを得ない*2のだった。飴屋法水には東日本大震災を背景とした「ブルーシート」という作品もあり、こちらは先述した深津作品と拮抗した作品の強度を持つが、今回の作品からはそこまでの切実さを読み取るのは難しかったのである。

*1:当日パンフの参照文献にサミュエル・ベケット「Fizzles」とあり、それがどういう類のテキストかいまいち判然としないのだが。どうやら朗読されたのはその一部のようだ

*2:こういう書き方をすると単純に当事者性のことを言っているように取られかねないが、言いたいことはそうではないのでそれがどういうことなのかはより深く考えないといけないのかもしれない