下北沢通信

中西理の下北沢通信

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<SCOOL パフォーマンス・シリーズ2017 Vol.3>福留麻里ソロダンス「抽象的に目を閉じる」@三鷹SCOOL

<SCOOL パフォーマンス・シリーズ2017 Vol.3>福留麻里ソロダンス「抽象的に目を閉じる」@三鷹SCOOL

福留麻里ソロダンス公演
振付・ダンス
福留麻里
日程
9/22金 19:30
9/23土 14:00 / 18:00
9/24日 14:00 / 18:00

※ 9/23土 14:00の回の上演後、佐々木敦(HEADZ/ SCOOL主宰)と福留麻里のトークが決定しました。
料金
前売:2000円
当日:2500円 学生:1500円
(+1drinkオーダー)
9.22 - 19:30
9.23 14:00 18:00
9.24 14:00 18:00
開場は開演の30分前になります。
はじまりに目をこらす その練習
からだの中は走っている

 ダンスデュオ「ほうほう堂」の福留麻里によるソロダンス第3弾。実は過去2回の公演はこれまで「川に教わる」@横浜・STSPOT(2014年ダンスベストアクト10位)、 「そこで眠る、これを起こす、ここに起こされる」@世田谷美術館(2015年ダンスべストアクト6位)とともに高い評価をしてきたのだが、ソロ作品以外の出演作品も数多く見ていたために今回のソロダンスが3本目だということにはアフタートークで初めて気が付いた。
 いわゆる「ダンス」のようには踊ることなく、ミニマルな動きを続けてみせたり、ダンスについての言説をパフォーマーが話続けたりすることで「ダンスとは何か」を問い直そうといういうようなタイプのダンス作品がここ数年増えてきている気がするが、スタートからしばらくはこの「抽象的に目を閉じる」という作品もそういう類の作品のように見える。
 福留麻里はある時は直接客席に向けて語りかけたり、あるいはナレーションで世界の中に数学的な抽象性を見つける数学者岡潔の著書を引用しながら、ダンスの動きが日常的な所作を引用したとしても、ダンスの動きである限りにおいて、それは抽象的なもの(表現)なのであり、日常の動きとは違う――などと語る。あるいは国立市にある「庭劇場」に行って首くくり栲象のパフォーマンスを見た時の感想を語ったりする。
 この作品が面白かったのは作品の前半部(というか3分の2ぐらい)はそうした言語的な要素とか普通に立ったような姿勢で身体を小さく動かすようなミニマルなダンス(動き、身体所作)だけを見せていくのだが、最後の部分でピアノソロのBGMが入り、考え方によっては「普通のダンス」のようにも思えるダンスを踊り始めるのだ。
 バレエ、モダンダンス、コンテンポラリーダンスなどと一般的にパフォーミングアーツとしてとらえられてきた「ダンス」というのはその創作段階の試行錯誤や思考などがあったとしてもそれは捨象し、この最後の部分だけを作品として見せるわけだ。そして、おそらくそこの部分だけを切り出されたとしても福留麻里という人は超絶技巧のテクニックなどを持つ類のダンサーではないけれども、ある場を観客への親和力でもって変容させていくという点では高い資質を持つパフォーマーであり、それ相応の作品として見ることができただろう。
 ところが作品の最後の方になってふと気が付いたことというのはその部分を切り出した「完成されたダンス作品」として見ている場合と今回の「抽象的に目を閉じる」の最後の部分としてそこに配置されたのとは観客はかなり違う印象を受けるもの受け取っているのではないのかということなのだ。
 これはどういうことなのかというとダンスは優れて関係的な生成物であって、ダンスそのものはある種の抽象性を含んでいるためにそれがたとえ同じものだとしても置かれたコンテキストに観客の解釈や印象は左右される。すなわち、「抽象的に目を閉じる」というダンス作品は観客を系の中に含むように構成されていて、ダンスの抽象性とそこでそれを見ている観客の具象的な経験の関係を観客のひとりひとりについて具現していくというような作品だったのではないかと思ったのだ。それゆえ、ダンスを語るのが難しいのはその受容が個々の観客の個人的な体験と深く呼応しあったところで生まれるからではないかというようなことも考えさせた。