玉城企画「クグツ流離譚」@小竹向原アトリエ春風舎
作・演出:玉城大祐
まき散らされ、漂流する。
我々はだれもが貴種ではなかった。
孤独から、彼は再びはじめる。昨年フェスティバル/トーキョー17での上演で話題を呼んだ『その把駐力で』に続くシリーズ最新作。流浪の芸人、クグツをモチーフに現代における人々の共同、無縁を問いかける。
玉城大祐
1988年9月16日生まれ。大阪府豊中市出身。 京都教育大学教育学部卒業。2011年より京都のライブハウスを拠点にパフォーマンスを発表。3年間で上演した短編11本、長編2本全ての作・演出を担当。2015年活動拠点を東京に移すとともに、創作の拠点を劇場へと移行させる。
2016年から2018年までアゴラ劇場プログラム・オフィサーを務めた。出演
中藤 奨(青年団) 横田僚平 南風盛もえ(無隣館)
スタッフ
照明:黒太剛亮(黒猿)
制作監修:金澤 昭(青年団)
制作:玉城企画
演出助手:山下恵実(無隣館)
宣伝美術:岡本昌也(安住の地)
総合プロデューサー:平田オリザ
制作協力:木元太郎(アゴラ企画)
技術協力:大池容子(アゴラ企画)
2017年の演劇ベストアクトにフェスティバル/トーキョー17での上演で話題を呼んだ玉城大祐の「その把駐力で」を入れた。今回の「クグツ流離譚」はそれ以来の新作で玉城が青年団新世代と考え期待している山田百次、綾門優季、玉田真也らに並びかけるような存在となるのか、注目の新作舞台だった。
それで実際の舞台がどうだったのかというと舞台自体はある意味混沌としていて普通に面白いとか、つまらないとか表現しにくいものだった。ただ、色んな意味で若手の作家たちのなかでも立ち位置の独自性は抜きん出ていて、それは作家としての武器だと思う。
ひとつは劇中で使われる言語テキストが現代口語演劇のようなダイアローグでも、あるいは最近の若手作家によくあるようなモノローグでもなく、ある種の小説や散文詩のような文体であることだ。そのため、この舞台には3人の俳優が登場するけれど誰が何の役ということはない。というかより正確に言えば一応、死に場所を求めてクグツ(人形)と旅する女とか大陸から流れ着いた遺体の生まれ変わりと信じられている男というような人物は出てくるのだが、俳優がそれらの役柄を演じるのではない。
そのため、物語の輪郭のようなものはあってもそれは解像度の低い映像のように漠としている。シャープに焦点を結ぶようなことはないのだ。そして、そういうことが精度の低さから起こるということは往々にしてあるのだが、玉城企画の場合、俳優に対する演出、それを受けての演技は相当以上の精度で行っていることが分かる。つまり、確信犯な訳だが、それが作者が本当に舞台上で具現したいことに対して効果的なのかどうかというのがいまいち分からない。
主題の立て方もユニークだ。クグツというのは「傀儡」と表記して辞書には、操り人形のこと。「くぐつ」「でく」などとも言う。あるいは「傀儡子(くぐつ)」と表記し、日本の中世・近世に、人形芝居を見せるなどして諸国を旅した漂泊の芸能者集団という意味もあるようだ。
玉城大祐は「戎緑地」「その把駐力で」から今回の「クグツ流離譚」と続く3作品を3部作としており、「戎緑地」は大阪に実際にある緑地公園をモデルとしてはいるが一方では西宮や今宮の戎神社につながるような戎信仰とのつながりがこの作品の裏側にはあって、次の「その把駐力で」は「ヒルコ(蛭子)」についての神話がその背景にはあったらしい。今回は「クグツ」になるわけだが、この3つのモチーフにはいずれも海から渡来した「カミ」という共通点があるらしい。こういう民俗学的な考証から主題を立ち上げたようなのだが、こういうアプローチ自体が若手劇団のなかでは異質に感じられた。
演劇としてのスタイルが似ているわけではないのだが、実はこれと似た感覚を一番感じたのが、マレビトの会だった。しかも、今のではなく京都時代のそれだ。ごく初期で「女王A」や「血の婚約」などを上演していた頃である。当時のマレビトの会もその取り組みにはユニークで面白いところはあるけれど、それが成功しているのかというとそうは思われなかった。ただ、そこから何かが出てくるかもしれないという可能性への期待という点で玉城企画との共通点があった。マレビトの会は結局その後大きくその方向性を転換し、当時の作風での可能性の追究は未完となったが、玉城企画はどうなるのだろうか?
そういえばマレビトの会の名前の「マレビト」というの折口信夫の用語で「時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神」のことであり、玉城大祐が主題とした「戎」「ヒルコ(蛭子)」「クグツ」はいずれも「マレビト」であると言っていい。
ちなみに玉城大祐は所属していた青年団演出部はやめて今秋には劇団を旗揚げするということらしい。今後どのような作品を作っていくのか。注目の作家である。