下北沢通信

中西理の下北沢通信

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青春五月党『静物画』@北千住BUoY

青春五月党『静物画』@北千住BUoY

2018年9月に福島県南相馬市小高区で上演された「静物画」の待望の東京公演。23年ぶりに作家・柳美里主宰の演劇ユニット「青春五月党」が活動再開し、南相馬市小高区で復活公演として上演した本作には、俳優である地元が織り込まれている。震災と原発事故という、人類が体験したことのないような災害に見舞われたこの地区で成長し生活する若き役者達が語るリアルな物語が東京で幕をあける。ふたば未来学園演劇部の高校生自身の声

早朝。誰も居ない教室には、まるで水族館のような光線が漂っている。一人の少女―遠藤はるが教室に入ってくる。はるは学生カバンを置き、窓辺に立つ。窓からは大きな林檎の樹が見える。風が林檎の葉や花を揺らして駆け回っている。はるは、空を問うように見上げる。空は、絵筆に水を含ませすぎて滲んでしまった水彩絵の具のような薄い青―。

作・演出:柳美里
出演:福島県立ふたば未来学園高等学校演劇部
   神奈川県立多摩高等学校 合唱部  ほか

主催:青春五月党 共催:福島民報社 制作:boxes Inc.

東日本大震災なかんずく福島第一原子力発電所の事故といった未曽有の出来事を体験した当事者が語る体験にはそれだけで人の魂を揺さぶるような大きな力があるかもしれない。しかもそれが高校生であって、彼ら彼女ら自身の個人的な体験を自ら表現してそれを演劇の形で上演する。そこには大きな意味がある。しかし、それが演劇としてどうなのかという問題はそれとは別の問題のはずだ。
この舞台に私は確かに心を動かされたわけだが、果たしてそれは何に心を動かしたのか。この舞台の場合、演劇そのものの力というよりはそれが実際にそこで演じている演者が実際に経験したことであるという「事実性」に担保されているところが大きいと感じるからだ。

ふたば未来学園の「数直線」という舞台の感想に上記のようなことを書いた。もちろん、生徒制作の「数直線」とは違い今回の「静物画」は熟練の作家である柳美里の作演出であり、演劇としての完成度は格段に高くはあるが、作品の核は演者が実際に被災地で経験した「事実性」に担保されているというのは同じで、この「事実性」「当事者性」をどのように評価するのかというのは簡単ではない。

おそらく、実際に被災した高校生たちが演じる震災劇であるということ、そしてもうひとつは小説家に専念していて、長らく演劇からは遠ざかっていた柳美里が23年ぶりに演劇界に復帰した話題作であるというニュース価値から、この作品を批判する人はあまりいないのではないかと思う。事実、私も実際の舞台を見ていて心にぐっとくるような場面が何度かあった。ただ、気になるのは冷静になって考えて考えてみるとその感動が演劇そのものの力によるものであるのか、被災の「事実性」から来ているのかがはっきりしないのだ。

とはいえ、この舞台は事実を基にして作ってあるとしても事実そのもののようなドキュメンタリー演劇ではない。むしろ、物語の中核には遠藤はるという少女がいて、彼女が体験したと語ることはこの舞台に登場するほかのメンバーが体験したことと響きあうことはあるにしてもどう考えても幻想的ともいえる想像上の出来事なのだ。
 彼女の体験が何であるとしてもきわめて謎めいていて実際に起こった出来事とは考えにくい。その意味では「数直線」と比べたとき、それは柳美里の作家性が色濃く反映されたものだと言えるのかもしれない。
 
 舞台を見てこの作品にはどこか釈然としないことがあることに気がついた。遠藤はるは教室の窓の外に幾度となく幻を見ていて、最後はそれに誘い出されるように学校のプールに落ちて亡くなるのだが、彼女が語るモノローグによれば彼女が幻視していた「それ」は震災の前から彼女を見ていたものだ。どうやら震災体験のトラウマから生まれたものではないようなのだ。とはいえ、彼女が見る幻には白い防護服を着て、除染作業をしている人たちの姿もある。そうした一連の幻と震災体験とがどのような関係にあるのかが、舞台を見終わった後もよく分からないのだ。これは何かの統一的な解釈ができるものであるのか、それともそういう理路整然とした解釈はそもそも拒絶しているような類の表現であるのか。やはりよく分からない。私にはどうもそういうことが気にかかってしまう性分なのである*1

*1:静物画」=1990年5月、赤坂シアターVアカサカ=という遠藤はるがいう少女が自殺する内容の作品は震災以前にそれとは無関係に柳美里が書き、上演されていたものであるというのが分かった。つまり、今回の上演はそれにふたば未来学園演劇部の高校生自身の震災体験を付け加え、再構成したものということが判明した。作品全体の不整合な印象はそのことが原因なのだろうと思う。