下北沢通信

中西理の下北沢通信

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小田尚稔の演劇「是でいいのだ」 “Es ist gut”@SCOOL

小田尚稔の演劇「是でいいのだ」 “Es ist gut”@SCOOL

最近選んだ震災劇ベストアクトにも入れた秀作。

小田尚稔の演劇「是でいいのだ」は東日本大震災の時の東京の人々をリアルに描いた群像劇でこれは東京在住者の被災体験という新たな視座を与えてくれた。私は震災時に関西という被災地から遠く離れた地にいたせいで、震災についての記憶は津波による被害や福島第一原子力発電所の事故など直接的なものというよりは震災後の特に言説におけるディスコミュニケーションに対する記憶としてより強く残っている。そのため、被災地ではない東京における地震直後の状況をビビッドに描き出したこの舞台はその当時の東京の空気感を知らない私にとっては新鮮なものであった。

 初演の当時このような感想を持ち、今回の舞台を見る前に書いた震災劇ベストアクトでもそれを踏襲したが、今回の感想もほぼそのままだ。初演時も東京での震災経験を描いたこの作品は珍しいものであったが、今となっては本当の被災地である東北でも被災経験の風化などが一部出てきているなかで、今後こういうものが再び出てくることはないだろうと思われる。それだけに当時東京の人々がどのように感じたのか、感じることのできるこの作品をこの時期に毎年上演していることは極めて重要だと思う。
 もちろん、震災というのはひとつの契機にしかすぎなくて、この作品の本当の主題は都会に一人暮らしする人たちのどうしようもない孤独感ではないか。そして、そういう普遍に開かれているがゆえにこの作品には震災から10年が経過した今の私たちや震災経験のほとんどない若い人にも共感できるものがあるのではないか。小田尚稔の演劇「是でいいのだ」の恒例として橋本清以外のキャストを毎回入れ替えて上演していたが、今回のキャストでは加賀田玲も続投、新たに加わった3人の中では鈴木睦海が気になった。何か心にささくれを感じさせるというか、たたずまいが気になる俳優であった。

作演出小田尚稔

出演

加賀田玲、鈴木睦海、富髙有紗、中世古真理、橋本清


登場人物のひとりである女は、就職活動の面接の前に立ち寄った新宿のマクドナルドで被災する。電車が動かないので、徒歩で家がある国分寺まで帰宅しようとする。中央線沿いを歩く最中、彼女は当時のさまざまな風景をみて、それらの様子から回想をする。歩き疲れて夜空の星をみながら、震源地からも近い実家に住む両親のことを想う。そのときにみた星空の様子は、カント (Immanuel Kant:1724-1804)『実践理性批判』の「結び」の一節、 「ここに二つの物がある、それは〔略〕感嘆と畏敬の念とをもって我々の心を余すところなく充足する、すなわち私の上なる星をちりばめた空と私のうちなる道徳的法則である」カント『実践理性批判』(岩波書店波多野精一・宮本和吉・篠田英雄訳、1979年、317頁)とともに語られる。

「是でいいのだ」は、イマヌエル・カント『道徳形而上学の基礎づけ』、V・E・フランクル『それでも人生にイエスと言う』という著作を題材にしている作品でもあります。
「君は、みずからの人格と他のすべての人格のうちに存在する人間性を、いつでも、同時に目的として使用しなければならず、いかなる場合にもたんに手段として使用してはならない」カント『道徳形而上学の基礎づけ』(光文社古典新訳文庫中山元訳、2012年、136頁) 。フランクルの上記著作の冒頭には、カントの「道徳法則」についての引用がなされています。V・E・フランクル(Viktor Emil Frankl 1905-1997)は、ホロコーストの際アウシュヴィッツに送られ、強制収容所での体験をもとに著した『夜と霧』の作者でもり、極限的な体験を経て生き残った人物です。
本作では、2011年3月の東京での出来事とカントやフランクルの思索との接続が狙いでもあります。登場人物を通して語られる震災直後の東京の風景。そして、このような逆境や、自らの人生の境遇や環境を受け入れて前に進むことをこの物語で描いています。
感染症の影響で公演を開催すること自体大変な状況では御座いますが、ご観劇頂けるお客様に楽しんで頂けるよう努めます。

音楽:原田裕
音響:久世直樹
演出助手:中世古真理
制作助手:富髙有紗
記録映像撮影:南香好
宣伝美術:渡邊まな実
協力:シバイエンジン、ブルーノプロデュース
企画・制作:小田尚稔