下北沢通信

中西理の下北沢通信

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演劇は震災をどう描いたのか? 東日本大震災から10年 震災劇ベストアクトを選ぶ

演劇は震災をどう描いたのか? 東日本大震災から10年 震災劇ベストアクトを選ぶ

1、谷賢一「福島三部作」(2017・2018年)*1
2、飴屋法水「ブルーシート」(2013年)*2
3、畑澤聖悟「もしイタ~もし高校野球の女子マネージャーが青森の『イタコ』を呼んだら」(2011年)*3
4、岡田利規「現在地」
5、小田尚稔「是でいいのだ」*4
6、快快「SHIBAHAMA」in OSAKA*5
7、柳美里「町の形見」*6
8、伊藤毅「上空に光る」*7
9、平田オリザ「舞台版 幕が上がる」*8
10、三浦直之「BGM」*9

 3月11日で東日本大震災が起こってから10年を迎えた。震災については多くの劇作家がそれに触発された作品を制作してきたが、この機会にその中でも優れた舞台成果と私が個人的に考えているものを選んでみた。

震災劇の代表的な作品として岸田國士戯曲賞も受賞した谷賢一のDULL-COLORED POP「福島三部作」を挙げることに異論をはさむ人はほとんどいないと思われる。とはいえ正確を期するのであれば「福島三部作」は「福島と原発」を主題にした連作なのだ。純粋に震災劇と言えるのは 第三部『2011年:語られたがる言葉たち』のみである。残りの2本はそれ以前の福島第一原発がいかにしてここに立地し惨事を起こすに至るかの歴史を描きだしている。それでも第三部で立場の違いで被災者同士が対立しあう分断化された福島の姿はステレオタイプになりがちな震災描写のなかで白眉をなすものであることは間違いない。作品は現地での取材などを伴い客観的かつ複合的な視点で原発ならびに震災を捉え直しているが、そうした視点が可能になるにはある程度以上の時間経過は必要だったのだろうと思う。
 対照的に震災直後は震災時の個々の直接的な体験に題材をとったものが多かった。やはり岸田國士戯曲賞を受賞した飴屋法水「ブルーシート」がその典型といえる。初演されたのは震災の体験も生々しい2013年である。もともと福島県いわき総合高校のコミュニケーション教育の一環で授業の発表公演として上演されたものだ。東日本大震災原発事故後の風景とそこで生活する高校生たちのたわいのないやりとりを、不在の「11人目」を軸に描き、生と死、その絶望のなかで希望がどこにあるのかを問いかけた。わずか2日間の公演にもかかわらず、飴屋が同作品で岸田戯曲賞を受賞するなどもあって、大きな反響を呼んだ。
 畑澤聖悟作演出の「もしイタ~もし高校野球の女子マネージャーが青森の『イタコ』を呼んだら」も高校生が演じた作品。高校演劇として畑澤が顧問を務める青森中央高校が震災の年である2011年9月に初演。第58回全国高等学校演劇大会(2012年)で最優秀賞を受賞、同校演劇部として3度目の日本一を獲得した。コンクールのための作品でもあったが、その後も毎年、新たなキャストにより再演を繰り返し、八戸市気仙沼市、大船渡市、釜石市久慈市仙台市などの被災地を含む全国各地で上演。2014年11月には東京の「フェスティバル/トーキョー」、同年4月には韓国ソウルで行われた国際芸術祭「フェスティバル・ボム」でも上演され、高校演劇の枠を超えた高い評価を得た。
 とはいえ、「ブルーシート」などと決定的に違うのは畑澤もこれを演じた生徒たちも被災地と同じ東北に暮らすが、青森市周辺は津波による被害はほとんどなく被災者ではなかったことだ。震災劇において難しいのは「当事者性」という問題だ。「もしイタ」は東日本大震災によってチームメイトや家族を失い、青森に転校してきた主人公の成長を描く群像劇だ。青森のイタコが弱小野球部の監督になり、選手にイタコの修行をさせて往年の名投手、沢村栄治の霊を下ろすことにより、青森県予選で連戦連勝の快進撃をするという痛快なスポーツドラマだが、話の展開の面白さに大笑いしているうちに、「なぜイタコなのか」という理由など物語に仕掛けられた隠された趣向に気が付いた時、思わず魂を揺さぶられることになる。
 実はその年は東北地区では多くの高校演劇部が直接的に生徒自らの被災体験を取り入れた舞台を制作、その中にはいわき総合高校演劇部『Final Fantasy for XI.III.MMXI』のように招かれて東京での上演を果たし高い評価を受けた作品もあった。そうしたものの中で畑澤は被災との距離と演劇的なリアルを考え抜いて、被災者ではない自分たちが被災者を装った作品を創作したとしてもそれは決してリアリティーのあるものにはならないと判断。被災者を受け入れた高校野球部を舞台にしたうえで、内容もあえてイタコが監督を務めた高校野球部が地方予選で快進撃を起こすという虚構性の強いものとした。そして、そうでありながらこの作品が私たちの心に届いたのはイタコという仕掛けを活用して、多くの人命が失われた震災によって引き起こされた喪失感そのものに迫ることに成功したからではないかと思う。
 柳美里東日本大震災を機に、福島県宮城県岩手県に通い始め、臨時災害放送局南相馬ひばりエフエム」で「柳美里のふたりとひとり」のパーソナリティを務め、約600人の話を聴いた。2015年4月には鎌倉から南相馬に移住。南相馬市在住作家として劇作活動も再開。そのなかで生まれてきたのが青春五月堂「町の形見」であった。この作品には地元の高齢者が実際に出演して、その人たちの回想をその場で俳優たちがインタビュー風に聞きながら、演じていく。しかも、それは全体が高齢者たちからの聞き取りを基にして柳美里が再構築した演劇的テキストであり、こうした虚構/現実の重層化された構造が魅力なのだ。
 この聞き取りによる再構成は老人らの若かりし時代の体験からはじまり、最終的に3・11の体験へと収斂されていく。単なるドキュメンタリー演劇を超えてスリリングなのはこうした構造により、実際に起きたことを複数の角度から想起させるような仕掛けであり、こうした震災劇では以前にも書いたように「事実性」「当事者性」からの作品の距離のとり方が問題になってくるわけだが、そうした課題に対して柳美里が出した解答がユニークに思えた。
 勘違いしてほしくないのは実際に体験した人が実際に出演しているから、この舞台がリアルというわけではないことだ。そうであるなら、1度だけの試みとして本当のドキュメンタリー(映像)あるいは実際のインタビューと俳優の演技を組み合わせる方法もあったろう。これはそうではなくて、当事者であるはずの体験者が実際にインタビューに答える自分とか昔の自分とかを演技している。ここに先述したように虚構/現実の重層性が見えてくる。
 当事者性ということで言うと小田尚稔の演劇「是でいいのだ」東日本大震災の時の東京の人々をリアルに描いた群像劇でこれは東京在住者の被災体験という新たな視座を与えてくれた。私は震災時に関西という被災地から遠く離れた地にいたせいで、震災についての記憶は津波による被害や福島第一原子力発電所の事故など直接的なものというよりは震災後の特に言説におけるディスコミュニケーションに対する記憶としてより強く残っている。そのため、被災地ではない東京における地震直後の状況をビビッドに描き出したこの舞台はその当時の東京の空気感を知らない私にとっては新鮮なものであった。
 中でも興味深かったのはこの作品の中核部分をなす震災当時就活をするために新宿におり、公共交通機関が止まったために帰宅難民となり、アパートのある国分寺に向けて歩いた若い女性のエピソード。実は当時東京の住民が被災者でもなんでもないのに被災者めいた発言をすることに関西にいて大きな違和感、いらだちに近い感情を抱いていたのだが、実際の被害以上に公共交通機関の停止とこの後原発事故対応で続くことになる計画停電の影響が大きいのかもしれないとこの作品は実感させてくれた。小田尚稔は初演後も3月11日を公演期間の中に入れ込むスケジュールでこの作品を毎年上演し続けており、ともにコロナ禍の下である昨年も今年もその上演は続いており、この主題への思いの深さを感じさせる。
 快快「SHIBAHAMA」in OSAKAを震災劇とすることには異論がでるかもしれない。というのはこの芝居は震災以前に東京で初演されていたからだ。落語「芝浜」を下敷きにしてそのモチーフである「夢」「一攫千金」「働かないだめ人間」……などについてメンバーそれぞれが実際に体験したこと(彼らはフィールドワークと呼んでいる)を基にそれらの体験を作品のなかに落とし込んでいくことで構築される。だが、そこで初演時に体験したことをそのままなぞるのではなく、大阪公演では彼らが「いま・ここで」体験したことを作品化し、そこにはからずも震災体験が大きな影を落とすことになったからだ。
 描かれた体験の内容は「夢」を追体験するために大阪・なんばの合法ドラッグの店で薬を体験したり、SMクラブに行ったり、住之江競艇で「一攫千金」を狙ったり、大阪独特の風俗店である「おっぱいパブ」に出かけたりとなんともバカバカしいものだ。実体験を作品のなかに取り込むためにそれぞれのメンバーが「役柄」としてではなく、本人自身として舞台に登場する。この作品はドイツやハンガリーでも上演されたが、そのたびごとに、「芝浜」という大枠は維持しながらも現地での体験を取り込みご当地作品として再制作されている。つまり、一種のコミュニティーアートとしての性格を持っているのだ。コンセプトとしてこれに近いものは「演劇」の範囲内では稀で、むしろ現代美術の中ハシ克シゲや小沢剛の作品に近しい趣向の作品があるのではないかと思う。
 そして偶然ながら、しかしある意味で必然的に「SHIBAHAMA」in OSAKAは特別な内容が盛り込まれた作品となった。それは作品の創作の一環としてメンバーのそれぞれがフィールドワークを開始したまさにその時に彼らにとっても未曾有の体験である「東日本大震災」が発生したからだ。この舞台自体はもともと震災を前提として構想されたものではなかったのにも関わらずそれぞれの個人的な体験を作品中に取り込んでしまったのだ。 震災についての話題は「恋の大震災」などと観客の乗った台座を揺らして「今の震度は?」と聞いたり、天野が実際に震災の被災地に行った体験を「震災すげーって思った」などと軽薄な口調で語ったり、篠田が「地震の後の東京の雰囲気がいたたまれなくて大阪に逃げてきたようなものだ」などとあえて、いささか不謹慎な筆致で語っていく。「このネタはあまりに不謹慎だから大阪ではぎりぎりセーフでも東京ではアウトだろうな」と思われるようなことをあえてやってみたりもする。だが、一見ふざけたようなタッチで震災を取り上げていくのは、実は実際に地震津波が起きたのは東北で彼らが直接被災したわけではないが、震災が快快のパフォーマーの個人個人に他人事ではない深刻な影を落としているのだということが舞台を最後まで見ると分かってくるのだ。
 実はメンバーのひとりが福島に行ったのは最初に劇中でふざけて語ったように物見遊山で震災見物に行ったわけではなかった。そこに彼女がいて、震災後しばらく連絡がとれなくなったからだったのだ。イタリア人の恋人が合流するはずだった大阪に来られなかったという嘆きも、彼が来ないのは根拠もなく放射能を怖がる能天気な外国人だからというわけではなく、彼の母親がチェルノブイリの事故をかなり近い場所で体験しており、その母親が反対するからそれを振り切って来てくれというようなことができないというようなことも分かる。
 江戸時代の能天気なグータラ男を主人公にした落語を原作にした「SHIBAHAMA」は現代のグータラ男女たちの自画像を自らの姿を重ね合わせるように描いていくが、逆にその時起きた震災は未曽有の出来事として、そんな普通の人間さえも巻き込んでしまう。そのことが震災を主題としない「SHIBAHAMA」が意図せずして浮かび上がり、「震災劇」となってしまった。そこにこの作品の「リアル」があった。
 チェルフィッチュ岡田利規は震災というよりはポスト震災の分断化された日本の状況を繰り返し作品化した作家といっていいだろう。その代表といえそうなのがチェルフィッチュ「現在地」だ。もっともここでも岡田は震災そのものを直接劇中で描くことはしなくて、ある村を襲う危機的な出来事とそれにともなって起きる住民たちの対立を寓話的な筋立てで描きだしている。震災後、岡田は東京から熊本に移住しており、そのことに震災体験が大きく影を落としていることは間違いないとは思うが、それでもそのこと自体を直接作品化するというのではなく、あくまでより客体的な形で距離感をとっていることにこの問題に対する岡田の立ち位置へのこだわりを感じる。
 平田オリザも震災に対する思いに大きく突き動かされた作家であった。震災後「銀河鉄道の夜」を何度も上演したのも震災で亡くなった人への鎮魂の思いからではないかとも思うが、小説「幕が上がる」を原作とした映画「幕が上がる」と続く一連のプロジェクトの一環として本広克行監督の演出で上演された「舞台版 幕が上がる」には平田には珍しく震災にまつわるエピソードが直接描かれた。「幕が上がる」では作品中の高校演劇部の生徒たちが上演する劇中劇として宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」が出てくるのだが、この舞台版でよその学校の名門演劇部をやめて転校してきていた登場人物のひとりが東北で被災地に住んでいたということが明かされる。小説、映画では直接明かされることはなかったのだが、ここで初めて劇中劇の「銀河鉄道の夜」に平田が託していた思いの一端を感じ取ることができた。