下北沢通信

中西理の下北沢通信

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円盤に乗る派「幸福な島の夜」@こまばアゴラ劇場

円盤に乗る派「幸福な島の夜」@こまばアゴラ劇場

円盤に乗る派「幸福な島の夜」@こまばアゴラ劇場を観劇。コロナ禍以降ほぼ見ていなかったこともあり、円盤に乗る派は2020年のカゲヤマ気象台から現在の名称への変更後ではほぼ3年ぶりの観劇となった。
 劇場サイトでのあらすじに「資本主義の行きついた先とも呼べるこの島は荒廃し、未来も希望も失われ、人々はAIやナノマシンといった残された先端テクノロジーだけを頼りにしながら、孤独に余生を送っている」とある通りにテクノロジーに支配されたアンチユートピア的な未来社会を描いているという意味ではお布団*1などにも通じるところがあるのだが、作品から受ける質感はかなり異なる。
 お布団「ザ・キャラクタリスティックス/シンダー・オブ・プロメテウス」が観劇後の感想では「高度な管理社会であるOEN(オリンポス経済ネットワーク)で自らのイニシアティブで『働く』ということを拒否する存在が出てきたときにどのようになるのかという一種のシミュレーションを描いている」としたように物語の設定がやや具体性を欠くとはいえ、はっきりと描かれているのに対して「幸福な島の夜」はそれがほとんど描かれず茫漠としている。物語の背景となる社会はここではほとんど描かれず、5人の登場人物はまるで暗闇から浮かび上がるかのようにそれぞれ孤立したように描かれる。実は5人以外に物語のキーとなる人物としてAI研究者の「スギムラハルコ」なる人物が存在しているのだが、どうやら彼女は「意識」あるいは「内面」を持つAIを研究していたらしいことが分かってくる。さらに鍵を握る人物として「カラヤン」なる人物のことも言及され、登場人物のひとりがそうであると推測されるのだが、描写はあいまいで韜晦し、何が真実でなにが、夢で見せられた幻想かもはっきりしない様相で、最期には視点人物と見なされてきた男も自分のことを内面を持った人間なのか「意識を持たされたAI」に過ぎないのか、懐疑しはじめて、すべてが曖昧模糊とした闇の中に溶け込んでいく。
 

円盤に乗る派「清潔でとても明るい場所を」@北千住BUoY
なかでも、考えさせられたのはカゲヤマ気象台(円盤に乗る派)。フェスの時点では複数回観劇したが、それが目指しているのが何なのかが正直言ってつかみかねた。
 今回の舞台を見て分かったような気がしたのは円盤に乗る派の舞台がテキスト、発話、身体の3つの要素全てにおいて、現代口語演劇(特に平田オリザの演劇の組合せ)を完全に否定し、その逆を意図的に選択しているように見えることだ。
 演劇はセリフによる説明(提示)と身体所作で登場人物が置かれている状況のディティールを観客に想起させようとする。それはリアリズム演劇のスタイルをとらないマレビトの会でさえもそうである。だが、カゲヤマ気象台の作品はそうではない。この作品でも登場人物はトイレ、戸外、レストランなどを行き来するが、この舞台を見ていてもそれが具体的にどんなところなのかのディティールをまったく想起することができない。そして、それは想起できるイメージに幅を持たせることができるということでもある半面、具体的なイメージがほとんど焦点を結ばない場合もある。
 登場人物にしても3人の俳優(キヨスヨネスク、田上碧、日和下駄)が演じる3人の人物は完全に抽象的な存在というわけではなく、それぞれの属性を持ってはいるようなのだが、全員が10歳だという以上のディティールは皆目分からない。そもそもそれだって端的に言ってそう(10歳)には見えないし、俳優も子供に見えるような演技はいっさいしていない。
 カゲヤマ気象台の作品の言語テキストは2つの系列がある。ひとつは舞台が始まる前から壁に映写されている文字としてテキスト。実はアフタートークでこのテキストは舞台装置の一部と見なされており、作品を構成する要素の一部ではあるが、カゲヤマ気象台以外の人間が提供したもので、セリフと響きあってひとつの世界を作るものの、セリフなどと明確に連関しているものではない。
 もうひとつがセリフとして発話される言葉で、こちらも通常の意味での会話体ではない。セリフとして発話はされるが、発話している人物が誰かに向けて話しかけている発話ではなく、俳優は与えられた言語テキストに声を与え、それを提示する。つまり、セリフと話者の間には明確に距離があり、発話された言葉は会話としてではなく、発話者と独立した「言葉」として観客に受容される、ということになる。それゆえ、円盤に乗る派の舞台では3人の登場人物が出てきて、一見会話のようにセリフを交互に発話してもそれは会話ではないし、話者の内面がそのまま表出されるのがモノローグだとすればこれはモノローグでさえもない、ということになる。
 そして、実は円盤に乗る派においてもっとも特異的であるのは実は身体なのかもしれない。身体と発話するセリフは互いに独立していると書いたが、セリフと身体の分離というのはSPACや山の手事情社をあげつらうまでもなく、昔から「語りの演劇」系の集団でよくやられてきた。ところで円盤に乗る派の身体の特徴はパフォーマーが提示する身体に何らかの表出の意思やあるいはそれとは逆の無作為に出てくるノイズ性などがいっさい感じられないことだ。そのあり方は「オブジェ」的*1と評しても間違ってはいないだろう。

作・演出:カゲヤマ気象台
とある架空の島。ここは10年前の革命によって属していた国家から独立し、歴史から断絶された。
資本主義の行きついた先とも呼べるこの島は荒廃し、未来も希望も失われ、人々はAIやナノマシンといった残された先端テクノロジーだけを頼りにしながら、孤独に余生を送っている。
物語は、島で暮らす主人公のもとへ一本の電話がかかってくるところから始まる。最初はただの勘違いのように思われたが、そこから始まる出来事に巻き込まれるにつれ、島にまつわる現実が徐々に明らかになり、次第に自分の存在までもが揺らいでゆく。

自己が不気味な他者として立ち現れてくる、奇妙な「現実」を描く現代の寓話。


カゲヤマ気象台を代表とし、2018年にスタートした演劇プロジェクト。日常生活の中の「自由さ」と「豊かさ」を損なうことなく劇場に立ち上げる作品を追求すると共に、その方法を集団のあり方にまで拡張し、「複数の作家・表現者が一緒にフラットにいられるための時間、あるべきところにいられるような場所」を目指す。現在のプロジェクトチームはカゲヤマの他に日和下駄(俳優)、畠山峻(俳優)、渋木すず(アドバイザー/ウォッチャー)の4人。




出演
串尾一輝(青年団 / グループ・野原)、西山真来(青年団)、畠山峻*(PEOPLE太)、日和下駄*、藤瀬のりこ(青年団

スタッフ
舞台監督:鐘築隼
舞台美術:渡邊織音(グループ・野原)、本間菫子
舞台美術協力:植田晴帆
照明デザイン:吉田一弥
音響デザイン:カゲヤマ気象台=
衣装デザイン:永瀬泰生(隣屋)
制作:呉宮百合香、円盤に乗る派
ウォッチャー:渋木すず*
メインビジュアル:飯島健太朗
フライヤーデザイン:村尾雄太

=円盤に乗る派プロジェクトチーム

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