下北沢通信

中西理の下北沢通信

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関西劇信5月

 小劇場系とも言われる現代演劇の状況を東西で比較すると、関西は劇作家が劇団代表・演出も兼ねる例が多い。その分、劇作家主導で演出家の影が薄いと長らく言われてきた。ところが、そうした流れが少しずつ変わりつつある。劇作家・深津篤史(桃園会)が岸田國士の小品集の上演に取り組んだり、遊劇体のキタモトマサヤが泉鏡花の「天守物語」「夜叉ケ池」を連続上演し、いずれも優れた成果を残した。東京から京都に本拠を移した演出家、三浦基の率いる地点がチェホフの四大戯曲の連続上演を試みたのも刺激を与えている。
 五月は関西を代表する劇作家、松田正隆の率いる劇団、マレビトの会が初の試みとして松田戯曲以外の上演に挑戦、こうした傾向に一層の拍車をかけた。シリーズ「戯曲との出会い」vol.1と題しガルシア・ロルカの「血の婚礼」を松田の演出により上演したのである。劇作のくびきから放たれ自由になることで演出家、松田はどんな世界を紡ぎ出すのか。私にはこれは松田の「演出家宣言」にも感じられた。
 「血の婚礼」のあらすじは以下のようなものだ。婚礼の日に花嫁がかつての恋人と逃げ出す。花嫁を連れ去った男は花婿の父親と兄を殺した一族の人間だった。やがて逃げ道もなく、後戻りもできない二人の先には、運命の死が待ち受ける……。
 絵に描いたような悲劇といってもいいが、「登場人物たちの行動の根拠に得体の知れない土着性があり、そこに惹きつけられた」と松田は語る。さらに「その得体の知れなさは、遠く離れた日本に住む私にも理解でき、ある意味とても共感できる」ともいう。「私の生まれ育った集落には、その土地に染みついてとれない血縁によって人間の運命が定められているということを今でも信じている人々がたくさんいるからかもしれない」とこれまで彼が繰り返し描き出してきた長崎の島における閉ざされた共同体の濃密な血縁が引き起こす悲劇という主題と共鳴しあう要素を見出したことが「血の婚礼」を選んだ理由だった。また前衛的演出をほどこしても、戯曲の持つ力が雲散霧消はしないシンプルで力強いテキストが演出家として必要であり「『血の婚礼』にはそれがあった」とも松田は強調した。
 原戯曲の台詞はほぼそのまま使用された。ただ、松田演出では台詞は人間の感情が自然に発するような通常の調子ではなく、意図的に平板、まるで棒読みのように発声された。しかも個々の俳優と役柄ごとにそれぞれが違うスタイルで演技した。俳優が語らず録音されたものが俳優が身に付けたカセットテープから聴こえてきたり、ある俳優は台詞をすべてスペイン語で語ったり、それぞれ違うスタイルで演技しそれがあたかもパッチワークのように組み合わされて、舞台上で展開されていく。
 音も単なる音響効果の範囲を超え舞台を侵犯する。天井にはPETボトルがいくつかひもで吊るされ、そこからはポタポタと音を立てて水滴がしたたり落ち、その下には大きな金だらいが置かれ、そこに落ちる水音を反響させている。音はすべての水が落ちきるまでやむことがなく流れ続ける。スピーカーからは時折、爆撃音のような轟音やフリージャズの演奏のような不協和音が大音量で流れ、これらは物語に通底する不穏な空気やかつてロルカ自身の身に起こった不幸な出来事を連想させる。時に台詞と完全に重なってそれを覆いつくし、観客の耳に台詞をほとんど聞きとれなくする役割も果たしている。
 台詞は聞き取れず、ときには突飛な台詞回しや奇妙な演出に集中を殺がれ、観客は物語に単純に感情移入して没入できない。そこには自明のものとして俳優に張り付いて安っぽいメロドラマになってしまいかねない台詞を意図的に引き剥がすことで、戯曲が潜在的に持つ言葉本来の力を取り戻そうという狙いがあるようだ。
 方向性の異なる身体表現、テキストが同じ舞台に同時に乗せて、それがコラージュされることでそれぞれ単独では得られない複雑かつ微妙な効果をえるという手法は松田が近作である「Cryptograph(クリプトグラフ)」などで行ってきた実験の延長線上にあるが、自作上演の場合は質的に異なるテキストのコラージュということに焦点は当たっていたため、既存の古典戯曲を用いての今回の舞台は演出・演技で松田の目指す表現の方向性がよりはっきりと浮かび上がってきた気がした。
 松田は素材として技術のある俳優もそれがない人の単なる佇まいも同等の重みで面白がり、それをコラージュする。そこでは舞台上における俳優以外の要素(音響・美術)も俳優の存在と同じ重みを持つ。美術や映画(映像作品)にはある手法だが、果たして舞台芸術の場合もそれで作品になるのか。方法論自体は興味深いが、俳優の演技にはやはりある程度の方向付けも必要ではないのかとの疑問も感じたが、同時に新たな可能性も感じた。
 一方、演出家・俳優の谷省吾が主宰するいるかHotelは「からッ騒ぎ」(大阪芸術創造館)と題し、シェイクスピアの「空騒ぎ」を上演した。こちらはマレビトの会の前衛的演出とは対照的な娯楽性の高い舞台だった。いるかHotelとしては昨年の「間違いの新喜劇」(「間違いの喜劇」)に引き続くシェイクスピア作品の上演だが、どちらも全員女優の配役で、関西弁での上演というのが特徴となっている。
 劇団公演とはいうものの、べネディック役に解散した立身出世劇場の主力であった岸本奈津枝を配したほか、谷の所属劇団、遊気舎や指導をしている劇団ひまわりの関係者ら交友範囲の広さを表す幅広い客演陣、さらにはオーディション募集の若い女優たちとオール女優キャストといいながらもベテランから若手まで取り揃えたキャスティングが巧みだ。
 この物語はクローディオとヒーロー、そしてベネディックとベアトリスの二組の恋人たちが陰謀や計略といった波乱をへて最後には結ばれるという恋物語になっている。ただ、一般には後者のカップルが重視されていて、ケネス・ブラナーの映画「から騒ぎ」でブラナー自身が演じたようにこの舞台の主役はべネディックと見なされている。この舞台の最大の魅力はベアトリスとベネディックスの寸鉄人を刺すとでもいわんばかりの舌戦の軽妙なやりとりにあり、それは変わりはないのだけれど、今回の谷演出ではクローディオとヒーローにより焦点を当て、ドン・ジョンの計略により、ヒーローの浮気現場(と見せかけた侍女マーガレットとドン・ジョンの部下ボラチョの密会)をクローディオらが目撃する場面など原作にないいくつかの場面を追加するなどして、作品のドラマ性に重点を置いた。
 それで演出によってはただ騙されている愚かな男とされかねないクローディオを福田恵(Giant Grammy)がシリアスな演技で自分の愚かさから愛する人を亡くした悲劇の人という風に演じさせるなど芝居としての深みを増した。ドタバタ喜劇だった前回の「間違いの新喜劇」が吉本新喜劇だとすればこちらは泣き笑いの松竹新喜劇の趣きか。ただ終演後印象に残るのはやはりべネディックである。関西弁でしゃべくる岸本のべネディックはいくら男装していても、大阪のオバちゃんにしか見えない。シェイクスピアがこんなにベタでいいのかと最初はひどく違和感があり、ミスキャストではとも考えたが、ベアトリスとのやり取りは彼女がやると夫婦漫才のようにも見えてくる。どうにも可笑しいのだ。オール女優キャストはどうしても宝塚を連想するものになりがちだが、彼女のインパクトの強さはそうした印象を一撃で吹っ飛ばした。全体としてはオーソドックで手堅い職人芸を見せる谷演出だが、こういう「創造的な破壊」もあえてできるのがその真骨頂といえるかもしれない。(五月二十二日夜・大阪芸術創造館所見)
 こうした古典作品上演の試みは若手劇団にも広がっている。京都の木ノ下歌舞伎が「三番叟・娘道成寺」を上演した。木ノ下歌舞伎は木ノ下裕一、杉原邦生、木村悠介らを中心に京都造形芸術大の卒業生らによる歌舞伎上演のためのプロデュースユニットである。歌舞伎をその従来のスタイルのまま上演するのではなく、テキストを再構築して、新たな現代演劇として上演するのが大きな特徴だが、歌舞伎劇場である春秋座を持ち、かつて市川猿之助が副学長をつとめる同大だからこそ出現したユニットかもしれない。今回はメンバーの杉原邦生が「三番叟」を演出。「娘道成寺」はやはり同大OBで、トヨタコリオグラフィアワードのファイナリストに二度連続で選出されたきたまりの振付、自身が踊るソロダンスであった。いずれもコンテンポラリーダンスとして見てもかなり面白いものであった。ただ歌舞伎舞踊を下敷きにしただけに日常性を主題とすることが多いダンス作品とは違う風味も加わった。八月に練り直しての東京公演(こまばアゴラ劇場)も予定されており、東京のダンス・演劇ファンにも見てほしい作品だ。(五月二十四日昼・京都アトリエ劇研)
 若手ではパフォーマンス作品を制作してきたヴァンカラバッカがイヨネスコの「二人で狂う」をテキストにした演劇「部屋と二人」を上演した。こちらは白いテープで矩形に区切られた部屋のなかで二人芝居の会話劇を続ける周囲を黒子ならぬパフォーマーらが生で音をだしたり、外で行われているらしいという戦争をパフォーマンスで見せたりするという演出。不安を醸し出すような前半の黒子に徹した演技が優れた効果を発揮したのに対し、後半は目だし帽、迷彩服の衣装など戦争イメージがステレオタイプを感じさせたのが残念だった。(五月十四日夜・ウィングフィールド所見)