下北沢通信

中西理の下北沢通信

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しあわせ学級崩壊「卒業制作」@はなまる学習帳王子小劇場

しあわせ学級崩壊「卒業制作」@はなまる学習帳王子小劇場

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2/6[Wed.]〜2/10[Sun.]
【脚本・演出・演奏】
僻みひなた
【出演】源馬大地(オフィス・イヴ/しあわせ学級崩壊)、福井夏(柿喰う客/しあわせ学級崩壊)
小島明之(カムヰヤッセン)、永田佑衣、中川沙瑛、樋口舞、平山輝樹(東京ジャンクZ)、 槇野晃太郎、中西柚貴(悪い芝居)、野村亮太(やまだのむら/room42)、梢栄(劇26.25団)、鈴木万里絵、きずき
【内容】余りにも逃げ場のない、
余りにも終わりのない日の、終わり。

檻のように囲われた舞台空間の左右に椅子が並べられ、中央には4つの机で作られたテーブルと4客の椅子(いずれも学校の教室に置かれているようなもの)というシンプルなセット。
 爆音のEDM(エレクトロ・ダンス・ミュージック)が鳴り響く中に音楽のビートとシンクロするように複数のパフォーマーが次々と受け渡すかのようにマイクでのセリフがフレージングされていく。それはある時はラップのように韻を踏んで、またある時は詩の朗読のように変化していく。
 音楽の曲構造と戯曲の構造が合致していくところがここちよい疾走感を生み出す。音楽の種類はラップとEDMと異なるのだが、初めて舞台を見た時の「何だこれは」というファーストインパクトは柴幸男の「わが星」を連想させるものがあり、これはポスト柴幸男、ポスト「わが星」の論理的帰結のひとつの好例といえそうな気がする。

2/5 劇団さんいらっしゃい「しあわせ学級崩壊」
とはいえ、同じく音楽劇とはいっても「わが星」と「卒業制作」が大きく異なるとのは音楽とセリフの重なり合いの様相である。家族の間の会話劇的な部分に時折、ラップ的な音楽劇が挿入される「わが星」とは違い、しあわせ学級崩壊ではほぼ全編にわたって、作家自らがDJプレイする大音声のBGMが鳴り響いており、その音楽に重なってマイクによるセリフが重ね合わさるような構造になっている。そのため、セリフは時に音楽によってかき消されて断片的にしか聞こえない時がある。しかも、「卒業制作」の物語の構造は単純なものとはいいがたい。いまだに結局再構成しきれていないところもあるのだが、物語は大きく分けるメインとなる女子高生4人(キリシマカナデ、ミタテヒズミ、ハヤシモニカ、オチグリコ)がいるパート、それを見ている国語の教師(ヒダウツツ)のいるパート(箱庭)、浮浪者らのいるパート、一緒に暮らしている子供のパートと大別して4つぐらいの世界に分けられるのだが、それぞれの世界がどういう関係にあるのかがいくら見ていても判然としない。
 ただ、世界が異なる人物は同じアクティングエリアにいて言葉を交わしたように見えても、よく見ると互いに交わってはおらず、異なる層(フレイアー)に存在しているのだということが分かってくる。全体としてもうすでに死んでしまってこの世にはいないものとこちらの世界にいるものが交わる場として、今回のしあわせ学級崩壊の演劇の場は設定されている。
 そして、よくよく考えるとEDMなどいまどき流行の音楽を多用しているため、そういう風には感じとりにくくはあるが、ダンス音楽(歌舞)を媒介として、生者が死者と邂逅するというこの物語の構造は日本の伝統演劇である能楽と共通性がある。実はオリジナルの戯曲を上演した今回の公演の前の公演ではシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」を今回に似た音楽劇という形式で上演しているのだが、その舞台を見た時には気がつかなかったが、「ロミオとジュリエット」も音楽を媒介として死者であるロミオとジュリエットらが我々の眼前に蘇ってくるというような舞台であった。
 とはいえ、それぞれの世界がどのような関係なのかがはっきりしないと以前に書いたが、登場人物に「生者」と「死者」がいるとしても、かなり目まぐるしく展開が進んでいく、この舞台においてだれがどうなのかということを判別するのはそれほど簡単なことではない。例えばメインであり、まだ判別のしやすい4人の女子高生と教師を取り出してみても、舞台がはじまってしばらくして「箱庭」でヒダが「春、この夜は、あまりにも逃げ場のない、余りにも、終わりのない。春だというのに雪が降っている」などとモノローグで語りだすので、もしかしたらヒダはもう死んでいるのかなと思ったりする。そして、そのことは途中で女子高生の映しているビデオカメラの映像の中だけにヒダの姿が映りこむなどという場面を通じてある種、確信されるにいたるのだ。だとすれば彼がなぜ死んだのか、恐ろしい謎というのはキリシマカナデがヒダは殺してしまったということなのか。このあたりの事実関係が判然としないのだ。
 ヒダがカナデを絞め殺すラストシーンは最大の謎ではある。亡霊に連れていかれてしまったという能楽的な結末なのか、それとも他の解釈もあるのか。