下北沢通信

中西理の下北沢通信

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トライストーン・エンタテイメント『少女仮面』(杉原邦生演出)@シアタートラム

トライストーン・エンタテイメント『少女仮面』(杉原邦生演出)@シアタートラム

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少女仮面
 唐十郎の世界を杉原邦生がどうやって料理するのかと注目していたのだけれど、予想外にはまっていたのではないかと思った。ただ、これは普通の唐十郎世界と異なり、間に宝塚の世界が入っているがゆえのフィット感もあったかも知れない。
 そして、もちろんこの作品が成立していたのは宝塚スター春日野八千代をみごとに体現した若村麻由美の「肉体」があってこそであろう。若村の演技は以前も別の舞台で見たことはあったが、その時には男役を演じるようなタイプの女優とは思えなかった。それだけに今回の演技はかなり驚くべきものであった。
 ところで戯曲というか作品自体は唐十郎初期の作品らしい勢いは感じるが、やや整合性に欠ける印象も持った。シーン、シーンはよいのだが、シーン間の繋がりが弱いのだ。特に気になったのは武谷公雄と森田真和が演じる寄席のシーンとメインの喫茶肉体の場面との関係性だ。
こんなことをことさら考えたのは唐十郎の演劇と演出家、杉原邦生の戯曲へのアプローチへの齟齬があったかもしれない。鈴木忠志の早稲田小劇場に書き下ろされた戯曲とはいえ、「少女仮面」には作品自体は「唐的なるもの」が詰まっている。「喫茶肉体」から戦時中の満州の病院への唐突な転換。この劇世界の中でこのふたつの空間と時代は融通無碍につながっている。そこにはいわゆる「アングラ」(アンダーグラウンド演劇)と呼ばれていた演劇スタイルとは異なる舞台空間の在り方があるだろう。
戯曲をテキスト面から分析してみると唐十郎の特徴は比喩的な表現が溢れていることだろう。この舞台全体を覆いつくしているのは演劇に関係する比喩表現で、なかでも中心にあるのが「肉体」と「俳優」、そして「舞台」である。つまり、テーマ(主題)は演劇なのだ。全体としても春日野八千代に託されたのは「俳優」として存在すること(それはファン=観客に見られる存在であること、役を演じる存在であること)により肉体を喪失した亡霊のような存在(=春日野八千代)があつてあった「肉体」を求める物語である。
 劇中で「失われた肉体」の象徴として描かれるのはかつて慰問で尋ねた戦前の満州の病院の病室。そしてここで登場する甘粕中尉もそのもうひとつの象徴となっている。
 この二人の関係は「喫茶肉体」で演じられる「嵐が丘」のヒースクリーフとキャサリンの関係と重なり合ってくるし、時代も場所も違う二つの場所が比喩(メタファー)的なつながりで重層的に重なり合うことで、唐十郎の絢爛とも言える劇世界が展開していく。
 ただ、ここでやや違和感があるのは杉原邦の演出ではこの異なる層はフレームのように重なり合うけれども唐自身が演出し演じた演劇世界がそうであるようには混然一体とは混じり合わない感が強いのだ。

1969年初演、唐十郎鈴木忠志の早稲田小劇場に書き下ろした伝説の傑作戯曲『少女仮面』を2020年幕開け、杉原邦生と若村麻由美が時代を超えて新たに挑む! 必見の舞台、上演決定!

わたしの肉体はどこに在り、いったい誰のものなのか。憧れの宝塚スターを求めて東京の地下=アンダーグラウンドへと迷い込んだ、少女と老婆が見たその “ 貌(かたち)“ とは・・・・。存在の情報化が進む社会へいま投じる、肉体の在りかを見失ったひとりの女の物語。


『少女仮面』特設サイト

作:唐十郎演出・美術:杉原邦生

出演:若村麻由美
   木﨑ゆりあ
   大西多摩恵

   武谷公雄
   井澤勇貴
   水瀬慧人
   田中佑弥
   大堀こういち
   森田真和
*都合により一部出演者が変更になりました。




《 スタッフ 》
照明:齋藤茂男
音楽:国広和毅
音響:鈴木三枝
衣裳:山下和美
ヘアメイク:小林雄美
ドラマトゥルク:稲垣貴俊
演出助手:神野真理亜
舞台監督:田中政秀
制作:米田基
票券:熊谷由子
プロデューサー:佐藤政治, 安部菜穂子, 鳥居紀彦, 笛木園子[fuetree]
エグゼクティブプロデューサー:山本又一朗