下北沢通信

中西理の下北沢通信

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最後に青年団「バルカン動物園」のスペシャルレビューの試み あるいは誤読的深読みレビュー

 青年団の「バルカン動物園」はなんとも企みのある題名が、この作品の本質をよく表現していると感心させられた。バルカンといえばもちろん作中欧州の戦争の引きがねになったと想定されてるバルカン半島のバルカンだろう。文化、宗教、人種といった人間の紛争の原因になりがちな要素が狭い地域内にこれでもかって集まっている。そして動物園はいうまでもなく動物を人間が見るために人為的に集めた施設である。この芝居は研究室に集う研究者らの群像を描きながら、その生態や争いの様相を観客にあたかも動物園の動物を観察するように観察(覗き見)させていく。これが表題「バルカン動物園」の意味するところであろう。
 だから、あえて挑発的に決め付けるがこの芝居の主題(テーマ)はチラシで書かれたように脳とか精神とかでないだろう。「戦争する動物=人間」ということなのだ。(平田は芝居にテーマはいらないというが、ここでのテーマはあくまで私が平田のテキストから読み取った主題の意である)。この芝居で平田は「人はなぜ戦争をするのか」という疑問へのひとつの解答をあたかも動物園で観察される動物のように研室室にたむろする研究者を描くことで見せていく。 
 舞台では欧州の戦争のことがたびたび背景として語られる。しかし、私はだからこの作品は戦争を描いているというのではない。当たり前のことだが、それだけでは戦争の話題を話す人が芝居にでているというだけだ。ここでこんな基本的なことまで指摘するのは、そんな芝居も多いからで、平田の作品でも決してそれは少なくないのだが、ここでは具体的には指摘しない。

 この芝居では戦争はむしろ研究室の内部の人間関係と関連して語られる。具体的に述べよう。欧州の戦争で亡くなり、脳だけの存在になった脳医学者とその婚約者が登場する。それから、研究を取るために欧州に行き、婚約者というか彼を振ってしまう女性研究者のエピソードも語られる。2つの話は一見なんの関係もないように見える。
 だが、ここで平田は周到に仕掛けを仕掛ける。この2つのエピソードは相同な構造を持ち、鏡像のような関係にあるのだ。
  一方は脳生理学者(男性)が研究を振り捨てて、生まれ故郷での戦争のため欧州に出かける。もう一方では女性研究者がよりよい研究の場を求めて、婚約していた同僚の研究者を捨てて欧州(こちらはノルウェーだが)に行く。2つのエピソードの照応関係を示すと「脳生理学者/戦争/研究を振り捨てて欧州に行く」に対して「女性研究者/研究/結婚を捨てて欧州に行く」という関係が提示される。どちらの話も相手の男性(女性)を振り捨てて欧州に行くという点では共通点があり、互いに呼応しあっている。つまり、ここでは「研究/戦争」というひとつのペアができている。ほとんど研究室の中の人間関係についてのみが語られるこの芝居のなかで男女間の関係が語られるエピソードがこの2つだけであることを考えれば作者の意図は明らかであろう。ここでは研究は戦争のメタファー(隠喩)なのだ。
 そして、もう一つ。脳医学者が戦争に参加した理由は妹が戦死したからだと語られる。そして、やはり、肉親について触れられるエピソードがもう一つだけある。自分の息子が自閉症だったために自閉症の原因究明に執念を燃やす女性研究者(山村祟子)の存在である。そしてこの芝居のなかでの最大の山場でもあるのだが、彼女がノックアウトボノボ(人為的に障害を持たせたボノボ)を研究につかおうとするためにそれと感情的に敵対する女性サル学者(安部聡子)と対立する。
 これは単純に考えれば、サルを異常に愛するゆえに感情的になっているサル研究者のわがままにも見えるのだが、ならばサルのクローンではなくて人のクローンを使えとの捨てぜりふは幾分の真実もあって、法律的な問題を別にすれば、人のクローンを実験に使うことの可否について、使えないのはそれを人とみるかどうかという歯止めだけなのであり暗黙の前提としてはサルでは分からないのでボノボを使いたいという研究者の意思のなかには、「本当は人間で研究したいけどそれはできないので」という前提が隠されている。つまり、ここでも研究は戦争のメタファーとして使われる。
 こうした行動はみなそれぞれが自分の自由意志によって積極的に選び取ったものではあるがその選択にいたるには社会や人間関係を含め、被拘束的な情況があり、それを切り離していい悪いを言っても仕方のないものでもある。そして、この作品ではそうした立場から比較的自由な学部生が、大学院生、研究者と進むにつれて、自分の立場というどうにも抜けられない被拘束的情況へと巻き込まれていく様子もしっかりと描きこまれている。研究室の人間関係という「コップのなかの嵐」に見える情況を描いきながらも、それにより戦争におけるバルカン的対立の情況を示唆したこの芝居が「バルカン動物園」という題名なのはぴったりだと思うのである。