KERAの率いるナイロン100℃と若手劇団猫ニャーの合同公演として企画された新ユニットが猫100℃ーである。このところKERAは劇作家としてはもちろんだが、「ザ・ガンビーズショー」などプロデューサーとしての才能が光る。昨年上演された近過去劇2本立てが平田オリザの「カガクするココロ」「北限の猿」の連続上演にインススパイアーされたというから、これもそうかもしれない。
プロデュース系の舞台が限界を露呈している中で、劇団の集団制という強みを生かしたままで、それまでのそれぞれの活動からフィールドを広げるという意味で、合同公演というのは意外と有効な手であり、今後、もう少しこうしたものが増えてきてもいいだろうと思う。猫100℃ーはそんなことを考えさせる実りの多い舞台だった。
笑いを武器にしての演劇の制度性を次々に破壊していくラジカルな作劇法が猫ニャーのブルースカイの劇世界だ。その方法論は既存の演劇の文脈からの徹底的な逸脱である。ブルースカイ世界では全ての登場人物は役柄から期待される属性を次々と裏切っていく。
「山脈」にはまず山で遭難した3人の女性(島田圭子、安沢千草、仁田原早苗)が登場する。題名から考えて、物語は彼女らを救助するストーリーを中心に展開されることを予想させるのだが、そうした最初の予想は以後、次々と裏切り続けられることとなる。まず、地元のオイスター山岳救助隊は訓練しているだけで、危険が伴うとの理由で実際の山岳救助をしたことがない。今回も行動することなく、救助を断念、しかもそのことを後悔することをテーマにした本を出版する始末。その情けない山岳救助隊に自信満々のアメリカ帰りの新入団者(池田エリコ)が現れる。登場の仕方もなかなかカッコ良く、今度は彼女を中心に展開するかと思わせるが、それも簡単に裏切られ、しばらくすると彼女も単なるその他大勢のわき役的存在になりさがってしまう。
そして、ついに真打ちとして登場するのが、ブラックジャックのように莫大な金額を取って、遭難者を救助する男レスキューガイ(小村裕次郎)とピノコみたいなその助手(新谷真弓)。しかし、友人の3人とはぐれ、ただ1人だけ助かった女(澤田由紀子)の必死の懇願にもかかわらず、ガイも、遭難者を救助しようとはしない。そして、どうこうするうちに女はガイの恐ろしい秘密を知ってしまう。ガイは人間を食べないと長く生きられない体質になっていたのだ。
遭難した3人は喧嘩をはじめて、1人(島田圭子)が離反する。しかし、実はこれは人食いの山婆(池谷のぶえ)から仲間を守るための悲しい嘘だった。一度は見捨てた2人だったが、気を取り直して、救助に向かう。ここで、物語は感動的(?)な友情の話になると一瞬思わせるが2人は簡単に山婆に捕まってしまう。
恐ろしい秘密を持つレスキューガイだが、そのことは無視してストーリーは進んでいく。すき間の開いたトイレが苦手なためアメリカが鬼門であったガイだが、遭難していない人からの救援依頼という難問にあえて挑戦するためアメリカに。その前にいつのまにかいい仲になっていた助かった女はアメリカについた途端に高ビー女に変身。ガイはトイレに閉じ込められ半狂乱に、そこに助手が現れ、救助され、帰国する。
ところで、山婆に捕まった3人は勇気を出して山婆と対決するが、そこで、強い山婆と戦うよりも、山婆を味方につけて救助隊と戦う方が得策である(?)とのアイデアが浮かび、救助隊と遭難者はついに宿命の対決。そこに救助隊を助けにレスキューガイが現れ、驚愕の真実が! 「山婆とレスキューガイは姉弟だった」と垂れ幕。舞台に敷かれたリノリウムをめくるとそこにも同じ言葉が。さらに、芝居が終わって帰る途中の駅までの順路にもいつのまにか「山婆と〜」の張り紙が……。
簡単にあらすじを書き記しながらこれほどむなしくなることもそうはないほど、この芝居において筋書きは無意味なのである。最後の大技の炸裂に思わずのけぞった。
一般にナンセンス系といわれる作品であっても、例えばモンティ・パイソンやそれに影響を受けたラジカル・ガジベリビンバ・システム、劇団「健康」、遊気舎といった笑い系の劇団にしてもいくぶんかは社会に対する風刺の要素を含んでいるのが普通である。しかし、ブルースカイの場合はそれがなく、一環して純粋な笑いのための笑い
なのである。しかも、そのアイデアはいままで、述べたようなストーリー展開上のナンセンスを超えて、メタ演劇的な方向へと進む。「山脈」でもラスト以外にも客をいじらない客いじりとか、意味もなく芝居中に突然、挿入されるドミノ倒しの準備。しかも、これも時間をかけて大勢で芝居が行なわれる横に並べるのでどんな凄いドミノ倒しを見せてくれるのだろうと期待していると、見事にそれを裏切り、ただ、箒のようなもので一瞬のうちに掃き出してしまうのである。
つまり、ここではただ芝居と関係のないナンセンスなことを突然行うというある種のナンセンス芝居の文脈をさらにずらし解体して見せるのだ。こうしたところなどが猫ニャーが今、もっともラジカルな笑いを体現しているといわれる所以だが、実はこれは非常に危険でアクロバティックな綱渡りともいえる。
なぜなら、既存の演劇的文脈に対して過激な解体へと向かう猫ニャーの方向性は必然的に自己表現の解体まで、向かわざるえない必然性を持っていると思われるからである。どこまでも、突き進むと自己のよって立つ方法論までを射程に捉えざるをえない。
通常の表現者がラジカルにスタートしながら、どこかでその歩みを止めて自己の作風の保持に努めざるを得ないのはその可能性の前に思わずしり込みして解体から脱構築へとその方向性を転向するからであろう。宮沢章夫、KERA、松尾スズキ、後藤ひろひとら笑いの旗手といわれていた作家たちが、純粋にラジカルな笑いから転向せざるを得なかったのにはいろんな理由が考えられるだろうが、このことも大きな理由のひとつであるという気がしてならない。そして、笑いというフィールドで考えれば徹底的なラジカルなナンセンス(無意味)の純度だけが、価値を決定づけるわけではもちろんないことも考えなくてはいけない。
さて、この危険な波乗りをブルースカイはいつまで続けることが出来るのか。そんなに長い間とも思えない。それゆえ、逆説的に言えば今しか見ることが出来ないかもしれないという意味でも猫ニャーこそ旬の劇団といえるのかもしれない。次の公演ではイカルスのように墜落する可能性を常に孕んでいるのだから。