下北沢通信

中西理の下北沢通信

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劇評講座・ままごと「わが星」

氏名:佐藤一成

題:「見守る」ということと立体構造〜「ままごと」の『わが星』を見て〜

 北野武ビートたけし)の作・絵による『ほしのはなし』(ポプラ社刊)という絵本がある。「ぼく」は夏休みに新幹線に乗って、田舎のおじいちゃんに会いに行く。おばあちゃんが亡くなっておじいちゃんは一人で暮らしている。おじいちゃんは夜、空を見上げぼくに星のことについて語り始める。絵本は折り畳み式になっていて、一つ一つ読み進めながら開いてゆくと、最終的には、縦100?×横80cmほど大きな一枚の絵になる。そこには、両面いっぱいに天の川や星の絵が描かれている。一面の星の絵に心奪われる絵本だ。
 おじいちゃんがぼくに語りかける言葉に以下のようなものがある。
 「おまえたちは ちきゅうに 
ただ いきているんじゃない。
だれしもが じぶんの ほしを もっているように、
いつも うちゅうと つながっているんだ。
たくさんの ひとたちが ほしになって、
おまえを みているんだよ」
 宇宙の大きさを絵で目いっぱい表しながら、人間は宇宙と繋がっていることを伝えている。子供向けでありながら、決してファンタジーになりすぎず、星を眺めながら、命の大切さをさりげなく示しているところに、理系である北野武の特徴が良く出ている絵本だ。
 なぜ、いきなりこの本について書いたのかといえば、「ままごと」の『わが星』(作・演出/柴幸男)(二〇一五年五月一六日(土)〜六月一四日(日)、三鷹市芸術文化センター、観劇日は五月二十九日)を観劇した時に、まず、この絵本が頭に浮かんだからだ。『わが星』を見ながら絵本のような優しい感動を覚えた。
 
●『わが星』の概要
三鷹市芸術文化センター 星のホールに円形の演技エリアが示されている。ほぼ素舞台で、装置は時々、ちゃぶ台が出て来る程度だ。その演技エリアをぐるりと囲むようにすり鉢状に客席が設えられている。俳優は、客席に用意されているイスでスタンバイしている。
開演すると、真っ暗な中で、時間も光も何も無いことが伝えられる(ビックバンだ)。
次に照明が当たり、円形の演技エリアを役者たちがリズムに合わせて周りながら、ラップ調でハッピーバースデイのセリフを発する(宇宙の誕生だ)。続いて、やはり円形の演技エリアを役者たちがリズムに合わせて周りながら、ラップ調でちーちゃん(わたし/地球ちゃん・瑞田新菜)の誕生のシーンが語られる(地球の誕生だ)。そして、ちーちゃんとその家族の話へと続いていく。
 小学生のちーちゃんは団地住まいだ。噂話が好きなお婆ちゃん(山内健司)、サラリーマンのお父さん(永井秀樹)、お義母さんに寿命が来るのを待ち望んでる(?)お母さん(黒岩三佳)、妹のちーちゃんを煩わしくも可愛く思っているお姉ちゃん(中島佳子)と暮らしている。ごはん時の会話のシーンが何度も繰り返される。テレビが古くなり映らないチャンネルがあること、冷蔵庫が壊れていること。そしてちーちゃんが誕生日のたびに望遠鏡をおねだりするシーンが何度も繰り返される。ちーちゃんは望遠鏡でなぜか遠くでは無く自分を覗くことが大好きだ。
 そしてちーちゃんには、団地のお隣同士の月ちゃん(斎藤淳子)というお友達がいる。ままごとをしたりして楽しく遊ぶ。地球と月らしく、仲良しながらも決して学校も職場も同じにならないという絶妙の距離感を出しながら、二人の一生をおままごとで演じたりする。
そのちーちゃんを始めとした星たちを、男子生徒(大柿友哉)と先生(寺田剛史)が望遠鏡で見ているという物語である。
 『わが星』は星の一生と人間の一生を重ね合わせた物語だ。上演中は常に時報が流れている。セリフの多くはラップ調で語られ、演技エリアの周縁を周りながらのダンスも多い。とてもスピード感があり、軽やかな舞台だ。

●『わが星』はどのような構成か
 今上演の『わが星』は二〇〇九年の初演、二〇一一年の再演に次いでの再々演である。
二〇一〇年には第五十四回岸田國士戯曲賞を受賞している。
白水社から刊行されている『わが星』の岸田戯曲賞選評を見るととても面白いことが分かる。特徴的なものを二つほど抜粋してみる。

・「(前略)『わが星』は、失礼を承知で言えば、他の候補作との関係では、一種の消去法で一番まともに見えたというのが本当である。「だからなんだ?」と思うことも多々あるし、手垢にまみれたノスタルジア史観だとも思う。(中略)「上演」を意識した台本であることが、この場合は吉と出た。」(坂手洋二
・「(前略)ワイルダーの『わが星』の本歌取りとして、充分な詩情を獲得しているのだが、人物の会話は平板で物足りない。これが意識的なことなのか、このような描き方しかできないのかという疑問は最後まで私を迷わせた。(中略)だが、この立体構造は捨てがたく、設計士としての柴さんが勝利を収めた。」(永井愛)

岩松了宮沢章夫のように評価の高い選評もあるのに、あえて、この二つのコメントを抜粋してみたのは、戯曲の評価と上演の評価という二つの視点を考えた時に、『わが星』の特徴をとてもよく表していると思ったからだ。
 それは、柴自身も当然自覚していて、同じく『わが星』のあとがきの中で、「全編に時報が流れて、半分がラップで、半分がセリフ。こんなわけのわからない戯曲が賞をもらえたことがいまだに信じられません。読むだけで果たしてこの戯曲は面白いのでしょうか」と書いている。
 では『わが星』を評するうえで、どのような視点から考察を行えばよいのだろうか。
 手がかりとなる資料として、中西理のブログ「中西理の下北沢通信」のなかに「シアターアーツ劇評講座第2回 ままごと「わが星」Web講義ノート」の箇所があり、とても参考になった。そこには

「先日岸田戯曲賞を受賞した柴幸男がその受賞作「わが星」について、「わが星の半分は『夢+夜』だと思ってます。残り半分がクチロロで、残り半分がワイルダーですね」とソーントン・ワイルダーの「わが町」や□□□「00:00:00」と同様にこの「夢+夜」に大きな影響を受けて「わが星」を構想したことを明かしている

「興味深いのはともに「わが星」が影響を受けたと柴が自ら明らかにしている口ロロ少年王者舘「夢+夜」が共通点を持つことだ。正確にいえば先に挙げた口ロロ「TONIGHT」と「夢+夜」はどちらも死者あるいは死ぬ行くものがこの世の外からこの世を俯瞰してみるような構造を持っている。そして、より以上に興味深いのはやはり影響を受けたとしているソーントン・ワイルダー「わが町」もやはりこれと同じ構造(死者の視線による生者への幻視)を持っていることだ

と記述されている。

クチロロに関しては、『わが星』の音楽を担当していることもあり、作品と一体化していると考えて特に問題は無いだろう。
だが、『夢+星』や『わが町』の影響とは、どういったものを指しているのだろうか?という疑問が出てくる。特に『わが町』は、題名に『わが星』とつけるほど、影響が強いことは推測できる。だが、どうにも『わが町』と『わが星』では受ける印象が違いすぎるのだ。
乾いている、というのが『わが星』の上演を見た印象だ。それに対して『わが町』はとても重い印象を受ける。
それは死の捉え方の違いとも言えるかもしれない。
 『わが町』は死を描いた作品であるといっても良いだろう。ニュー・ハンプシア州のグローバーズ・コーナーズの少女エミリーの物語。ハイスクール時代→結婚→死という順序を追って話は進む。エミリーが死の世界から生を見つめる第三幕が一番の中心となる。進行役となる舞台監督は、エミリーやグローバーズ・コーナーズの人々が辿る運命を知っている。だが、人々は自分たちの運命を知らない。エミリーも死の世界に来て、初めて生の世界を冷静にみつめる。そして生の世界は「無知と盲目の世界」であると気付き、嘆きすらするのである。
一方、『わが星』は最初から死を認識している。ちーちゃんがラップのリズムでこのように歌う。

わ おぼえてる。全部、おぼえてる。
  はじめて生まれたこと。
  はじめて泣いたこと。
  はじめて燃えたこと。
  はじめて死んだこと。

死を認識しているというよりも、むしろ自ら一生を振り返るような俯瞰の構図であるともいえるのである。その意味では、『わが町』、口ロロ『TONIGHT』、『夢+夜』と同じだ。だが、ちーちゃんは振り返って人生を嘆いたりすることもなく、むしろ淡々といっても良い口調(これはラップ調も関連しているのかもしれないが)で、家族の生活、月ちゃんとの会話と進んでいく。
何より「死」そのものは描いていない。物語の途中でお婆ちゃんも寿命で死んだではないかと言われそうだが、実際は「引退」という言葉を使っている。そして、去るときは「引退」という言葉にふさわしくにっこりと去るだけだ。ちーちゃんが「死ぬとどうなるの」と聞いてお婆ちゃんは「死ぬとね、内側から腐っていって、溶けてぐじゅぐじゅになるんですよ」とオーバーアクションで答える。それに対するちーちゃんの反応も「ぎゃー」とオーバーリアクションだ。ちぃちゃんと月ちゃんの場面でも、月ちゃんが老人になって死ぬシーンがあるが、すぐにお姉ちゃんが呼びに来て「ままごと遊び」だったことが明らかになる。
また、ラスト近く、ちーちゃんが「ねー、明日ってどうやったら来るの?」との問いかけに「明日はもう来ないでしょ」とお母さんが答える。ちーちゃんは「……あぁ、そっか、」とあっさり答えるのである。
死をイメージさせるセリフを語りながらも、やりとりはとても軽やかで、悟りの境地のようなものすら感じる。それがとても乾いた印象を受けるし、戯曲で示せば永井愛のいう「人物の会話は平板で物足りない」セリフということになってしまうのかもしれない。
このような違いは、柴自身のコメントが裏付けになると思う。以下は、『演劇最強論』(飛鳥新社刊)からの引用である。ちなみに藤原は藤原ちからである。

柴 (中略)実は『わが星』を書く時に、天野さんの戯曲の書き方がラップを使った稽古にいいかな、と考えたりしました
―王者舘も繰り返しを多用しますよね。
柴 でも王者舘の繰り返しは複雑すぎるので、最初は構造に関しては意識してなかったですね。ただ『朝がある』(一二年)は王者舘のスタッフさんにお願いしていろいろ訊きましたし、王者舘の役者さんに『あゆみ』に出てもらった時には台本を見せてもらったりして、ちょっと研究しています。
藤原 柴くんは研究欲があるよねえ。
柴 というか、僕は自分の表現欲があるわけじゃないから、研究してその成果を発表したいんですよね。要は研究して発表するという構造自体に憧れます。そういうふうに戯曲を書きたいと思ってしまうんですよね。ひとりの情念とか感情が数千年残るのも素晴らしいけれど、仕組みや構造、数字や発見とかを積み重ねていく作業も、それと同じくらい格好いいと感じるので。

 柴のコメントを読むと、確かに影響を受けたというのは間違いではないが、それは、どちらかというと情念や感情よりも、仕組みや構造といったものに重点を置いているといえる。
 そして、それは岸田戯曲賞の選評とも繋がっている。つまり構成は他の作品の仕組みや構造に影響を受けている。しかし、物語自体は家族の日常を描いた作品で、しかも、情念や感情よりも仕組みを重視している。これを戯曲という文字形式で表せば、新鮮味が少なくなるのも当然で、どんなにト書きで書き表そうが、坂手のように「だからなんだ?」という評になってもおかしくは無い。
だが、上演された『わが星』からは、確かに胸に迫ってくるものがあった。

●柴自身の『わが星』の考えとそこから考えられること
 上演時における『わが星』を考えるときに、ラップが大きな割合が占める。そこで、いくつかの雑誌記事から、柴の考えを引用してみる。
演劇ぶっく』(二〇一一年八月号)の中で、編集部から「この作品(注:『わが星』)は僕の周囲でも圧倒的に評価が高く」、と言われて以下のように答えている。
 「さっき、「特殊な作品だと思う」と言ったのは、やっぱり曲に寄るところが大きいと思うんです。今回、リピーターのお客さんが多いんですけど、それは多分「好きな曲は何回でも繰り返し聴きたい
という感覚に通じると。お芝居なんだけど、音楽の感覚に近い。人にも勧めやすいし、取り扱いやすいというか。」

また、『新潮』(二〇一〇年一〇月号)の中で「小学生がラップを書いたらどうなるか?」と題した文章の中で以下のように述べている。

 「ラッパーは基本、自分で自分の歌詞を書きます。そして、歌い方(フロウ)を考え、自分で歌うわけです。これは、劇作家と演出家と役者をひとりでやっているのと同じです。(中略)だいたい話し言葉を書いてお金をもらうなんて職業は“劇作家”と“ラッパー”だけではないか。物語のある演劇的なラップを書くラッパーもいるのだから、劇作家だって何か日本語ラップへアプローチできるのではないか。そんなことを考えるようになり、趣味の域を超えて、演劇とラップの融合を真剣に考えるようになったのです。」

この二つはとても象徴的であると思う。
音楽が特別であると思っていると同時に、ラップでの言葉の伝え方については、演劇と同じ視点で考えている。そして柴が前提としている演劇とは当然、彼が所属している青年団の演劇、つまり、平田オリザの現代口語演劇と同じ視点で考えているということが分かる。日常会話の表現のひとつの形である、という意識がとても強いのだ。

さらに、『AERA』(二〇一一年三月十四日号)では、「僕にとっては家族も社会も宇宙も、同じようにそこにあるものなんです。だから多くの人が家族ドラマや社会ドラマを作りたいと思うように、僕は宇宙単位で人類を見て芝居を作っていきたいと思う」と述べている。
このあたりの柴の音楽、ラップ、宇宙といった考え方を読んでみるとその考え方が『わが星』にとてもよく反映されていると思うのである。
そのように考えた時に、『わが星』の中で貫かれている「見守る」という行為がとても意味を持ってくるように思える。「見守る」という行為を通して描いているもの自体は情念や感情ではないが、観る者の情念や感情を呼び起こすという意味でキーになると思うからである。

 ちーちゃんが生まれたときのラップ+ダンスの中でこのようなセリフがある。
わ 知ってるの?
他 知ってるよ
わ どうして?
他 すっと見てたから
わ ずっと見てたんだ
男 100 年(同時に)
先 100億年(同時に)
他 すっと見てたから
わ ずっと見ててくれたんだ

次におばあちゃんが引退した時の会話。

わ お婆ちゃん、いなくなっちゃうの?
婆 いなくなりはしませんよ、ただ星になるだけ
わ 星?
婆 星になって、ちーちゃんのこともずっと見てるよ

そして、家庭訪問の場面。

父 そうですか、……先生
先 はい、
父 よろしくお願いします
先 いや、私には、ただ見守ることぐらいしかできませんから
父 それで十分です、どうか見守ってやってください

 そして、ラストは見守ることしかできないことを承知で、男子はちーちゃんに会いに行く。
 それぞれの場面の演技からは、とても優しさが伝わってくる。
 最初のラップからはみんながちーちゃんを見守っていたということが。
 お婆ちゃんも優しく見守ることを伝えるし、家庭訪問の場面では、父はゆっくりと頭を下げ先生に見守ることをお願いする。娘を想う親の優しさがよく演じられていた。
 ちーちゃんが生まれて、成長して、死ぬという人間の一生と星の一生を重ね合わせたこの物語は、見守るという一つの視座の中で描かれている。

●未就学児観劇可能公演から伝わってきたこと
今公演中は「未就学児観劇可能公演」が設定されていた。「未就学児観劇可能公演」。なんだか漢字の並びだけみるとスゴいが、今回上演された『わが星』のなかで、〇歳〜六歳の子供連れでも入場が可能な公演日があり、該当日である五月二十九日の公演を観劇した。
その公演があったことが、計らずも「見守る」ということの意味をより具体化して観客の目の前に示したと思うのだ。
 舞台に近い前方の客席は子供連れ用の客席。上方が大人だけの客の席だ。子供を立ってあやす場所も用意されており、公演中も客席から立ち見スペースやロビーへの移動も可能だ。
 観客は、子供が三十〜四十人くらい。その保護者が五十数人。大人だけの客が六十数人の計一四〇〜一五〇人くらいの観客であろうか(ざっと見た感じ)。
 音楽やラップに合わせて親子で手拍子をしながら見ているのは、上演と一体化していてとてもよかった。後日、通常バージョンを見たときの大人ばかりの会場は、随分、みんな礼儀正しく真面目に見ているんだな、という印象を受けたくらいだ。
しかし、会場に、未就学児が三十数人いるということは、かなりザワザワし続けているということでもある。セリフがはっきりと聞き取れないことも多々出て来る。クライマックスのちーちゃんと男子が出会う場面で、子供が演技ゾーンに入りそうになって、親と会場の係りがバタバタと子供を追いかけるなんてことは、通常バージョンではまずありえない。役者も少しやり難そうにも見えた。
にもかかわらず、深い感動を受けたのは明らかに未就学児観劇可能バージョンだった。
『わが星』は「見守る」ということを描いている。
ちーちゃんは家族から見守られている。その彼らを生徒と先生が見守る。それをぐるりとすり鉢状に囲んだか客から観客が見守る。さらに、一番最後は、月ちゃんが客席より高い位置から、ちーちゃん宛てのお手紙を読むのだが、それが、さらに観客をも見守る構造になっている。
だから、芝居から孤独感は伝わってこない。死というものが背景にあるにも関わらず。
客席には確かにこれから生きていこうとする多くの子供たちがいる。観る者は個人的にも、社会的な立場からも、ちーちゃんと目の前の子どもたちを重ね合わさずにはいられない。この構造が、自分と全く関係もない他人の親子なのに、見守ることの尊さを喚起させる。
人間関係において、親子の関係において、見守るということがどれほど尊いことか。たとえば、近年の親子の関係はとても難しいことはニュースを見ても伝わってくる。子供の貧困も大きな問題だ。子供が惨めな存在に追いやられるのはとても痛々しい。そこでは、愛情や信頼が無ければ見守るという行為は決して成り立たないし、社会的な問題として考えても、セーフティネットも含めて初めて子供を見守るという行為が成り立つということに気付かされるのである。
父と母のラップの場面はクライマックスへ繋がる一つの大きな場面だ。毎日の生活がラップで表現される。繰り返される通勤、家事の事柄がやはり円形の舞台エリアに沿って動きながら、ラップに乗せて歌われる。

父 徒歩11分、鉄筋コンクリート10階建て集合住宅
  駅前から家へとつづく、この並木道を歩いている
  今まで俺はこの道を、何回歩いたことだろう
  そして、これから俺はこの道を何回歩くのだろう
  商店街、コンビニ、公園を抜けると遠くに見えてくる
  上から3番目、左から9番目の、下から7番目
  どんなに遠くからでもわかる、今日も灯りがついている
  あれこそわが家、わが星、今日も星は輝いている

母 徒歩11分、鉄筋コンクリート10階建て集合住宅
  玄関から居間へとつづく、この短い廊下を歩いている
  今まで私はこの道を、何回歩いたことだろう
  そして、これから私はこの道を何回歩くのだろう
  商店街、コンビニ、公園が窓から遠くに見えている
  上から3番目、左から9番目の、下から7番目
  どんなに遠くからもわかるように、今日も灯りをつけている
  こここそわが家、わが星、今日も星は輝いている
 
これは『わが町』の視点からみるならば、狭い世界で満足する「無知と盲目」の世界そのものなのかもしれない。だが、そこからは繰り返される日々のつまらなさや、無意味さなどは感じられない。
団地の我が家の明かりを、「自分の星」と表現している。母は自分の意志で星の明かりを灯している。父はその灯りを自らの星を目指して帰ってくる。そこには、家族を見守るということが根底にある。それは悲壮感を持って家族を守るということとは異なる。ただ、ただ、見守るという行為を大切にするのである。
 
●宇宙的視点と人間の存在
だが、柴の言う宇宙的な視点から『わが星』を見るとき、また別の感情が湧き上がってくる。
科学を通じて物語を描くことは人間の大きな営みである。科学を発展させるのは戦争だということはよく言われるが、空想もまた科学を進歩させる大きな要因である。例えばライト兄弟が鳥のように空を飛びたいと考えたことから飛行機を発明したように。科学と空想は親和性がとても高いのである。
しかし、あまりに科学と空想が乖離すると、観る者は、そこに人間の深い想いを強く忖度せずにはいられなくなる。そんなに“あり得ない”ことを通じてまでも遂げたい想いとは何であったのかと。
『わが星』では、今、男子が見ている星の姿は一万年前のもので今はもうない、と先生は語る。ということは、ちーちゃんに会うことなどは不可能だ。例え会えたとしても見守ることしかできないことを承知で、リスクを冒してまで、男子は光の速度を超えてちーちゃんに会いに行くのである。
科学的なものをはるかに逸脱した空想に、ちーちゃんやちーちゃんの家族も、この男子の心の中、想像の産物に過ぎないのではないかと思えてくる。確かに家族はあまりに典型的な人々でとても優しい。だが、物語は淡々と過ぎる。その一方で男子は焦りにも似た前のめりの演技である。そのズレからもしかしたら、男子の見る夢なのかとも思えてくる。
そんな不可能なことをしてでも、空想や夢であったとしても、そこまでして成し遂げたかったこととは何なのか。そこまでして、ちーちゃんに会いたいこととは何であったのか。もしかしたら、その男子に過去、取り返しのつかない、例えば愛する人の最期に間に合わない等の後悔や過ちでもあったのか。それを空想によってでも、邂逅を果たしたいと思う人がいたのか。彼の過去にはいかなる悔いがあったのか…。様々な思いが観客を刺激する。
柴は情念よりも仕組みや構想に関心があると語っていた。確かに情念そのものは描いていないが、ここに『わが星』特有の情念を見て取ることができるともいえる。それは、この男子のみでなく、先生からも想いを受け継いでいることからも大きな意味をも持つ。
科学を通して人間を考えるとき、そしてその物語が科学と大きく乖離すればするほど、そこには見る者の想像を広げていく要素が大きくなっていく。

●立体構造から考えられること
 『わが星』には特段、結論めいたものは無い。星と人間の一生を重ね合わせた物語。それを男子が見守る。見守ってそして終わる。
 だが、それが、日常会話を伝えるラップと音楽で立ち上がる。そこに「見守る」ということが客席の構造からも、観客席の子供がいることからも情念を刺激される。そこに宇宙的な視点が加わる。表現的な面からもまた劇場の構造からも、観る者に多くの想像力が生まれ、思い入れることの出来る構造である。
立体的に立ち上がっていけばいくほど感動は深まっていく。それは、『わが星』が戯曲の時はそれほど評価が高くなかったのに上演時の感動の証左でもあると同時に、それが、永井愛が言う、捨て難い立体構造ということになるのかもしれない。
それは、冒頭で引用した北野武の絵本にも共通しているように思える。一つずつ絵をめくるたびに星の絵が広がっていく。「だれもがじぶんのほしをもっている」と無数の星の中から自分の存在を明確にしている。亡くなったお婆ちゃんも星になって見守るということもまた、『わが星』と共通している。
『わが星』は見守るという視点をもって、生も死も包括していた。誕生から、日常生活、そして自らが死んでも星となって見守り続けているのである。星を考えることは、自らの生命のあり方を考えることでもある。絵本のような普遍性と美しさを醸し出している。だからこそ、観る者が様々に思い入れることができた。
だが、今まで見てきたように、その思い入れは立体構造によって初めて生まれてくる感情だともいえる。それは演出に委ねる割合がとても大きいということでもある。
それは柴自身も『演劇最強論』の中で、以下のように語っている。
「『わが星』は、戯曲が匿名性を持っているから、演出で固有性を出すんだけど、逆に言えば演出がそこを意識していないと成立しない。今、戯曲だけで成立しないものを出してしまった責任を感じているんです」
 そう考えた時に『わが星』が今後、どのように語り継がれていくのかとても興味深い。『わが町』のように時代も国も超えて幅広く演じられる作品になるのか。それとも、柴の演出で出演者もこの役者たちでないとダメだ、と評される作品になるのか。
『わが星』の立体構造を考えるとき、どのように語られる作品になるのかということまで自然と想いをはせてしまうのである。それが『わが星』の持つ立体構造であると思うのである。
以 上
※文中の敬称は省略した。    。