わが星
劇団 ままごと
三鷹市芸術文化センター 星のホール
6月2日(火曜日)
坂崎 真理
「4秒後に始まります。途中4秒間の休憩があります。」と意表をつく解説で劇が始まりました。舞台は、円形に並んだ客席の真ん中に白い円があるだけ。役者さんたちは客席の四方八方に座っていて、そこから真ん中の舞台に集まり、基本は時計と反対まわりに歩き回りながら、音楽に合わせて、ときおり振付のある動作(=踊り?)を行いながら、真ん中に集まってセリフをしゃべります。ときにはちゃぶ台を囲んで、蛍光灯の下にすわって。話はちいちゃんという女の子のいる家族が中心でちいちゃんは地球を意味し、その家族をとりまく世界、つまり宇宙とイメージは発展するようになっている、と思われました。一つの家族を地球と重ねることから、地球という星と宇宙というスケールにつながるというこの劇のモチーフは矮小な世界から無限大のような世界へとスケールを広げて、子供の観客にも楽しめるように作られているのでしょうか。ただ、そのモチーフを、円、地球の回転に歩く、と視覚化することでかえって、その想像を強制しているように私には感じられました。こどもの名前をちいちゃん、つきちゃん、としていることもその一つです。また冒頭の「4秒」の話、また終わりに、「10秒後に再開し5分で劇は終わる。」の説明。これらの時報にたとえるような説明の効果も、宇宙観を具現化しようとしているのでしょうか。 その効果を理解することができませんでした。
地球という星の時の流れがモチーフでありながら、その地球とイメージを重ねているであろう主人公のちいちゃんは、いつまでたっても子供で、家族の他の人物も含めて、ひとりひとりの人間の人物像が浮かびあがらず、人間=星というイメージには繋がっていきませんでした。その点から、柴氏自身の、劇場で配られたチラシに「わが星は演劇か?」という言葉をあらためて考えさせられます。柴氏が「演劇とは自由になることではないか」と述べています。イメージを強制するような「時報の説明」、「地球まわりの動きや踊り」ではなく、台詞から役者が演じる人物をとおして、観客が「自由」になるということが、「演劇とは自由になるということ」であるならば、私という一観客は「自由」になったとは感じられませんでした。 。