下北沢通信

中西理の下北沢通信

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劇評講座・ままごと「わが星」4

際限なく広がっていく『想像力』
                        なかむら なおき

 太陽系第3惑星、地球。われわれの住むわが星は、いまのところ、知的生命体が住む唯一の星とされている。暗い暗い広大な宇宙にぽつんと存在するわが星は、なんて孤独な存在なのだろう。

  ままごとの「わが星」は、柴幸男とままごとの名前を不動なものとした作品である。2009年に三鷹の星のホールで生まれたこの作品は、2010年に岸田國士戯曲賞を受賞。2011年には全国ツアー。そして2015年に三度目の上演となっている。

 星のホールに入ると、そこは真っ黒な空間だった。スタッフが舞台の中央を中心に円形に配置されて観客を誘導している。客席はギリシャのコロシアムのように、その円形を覗き込むように配置されている。座席に座り、舞台を覗き込むと、なんだかプラネタリウムにいるような感覚だ。椅子に座ってしばらく待つと制作が諸注意を始める。その諸注意が終わると、劇場内は真っ暗になった。
 そこには『何もない』。ただ言葉だけが、思考だけが存在しているのだ。しかしその『何もない』も、劇場にライトが灯ると終わる。音楽が鳴り出す。役者たちが動き出す。そして関係性が生まれ出す。

ポン、ポン、ポン、ポーン。

そして時が動き出す。
 
 白い円形の舞台が現れた。役者たちはその回りを時報に合わせて歩き出す。ラップを歌いながら、群読しながら歩き出す。宇宙の誕生を語りながら歩き出す。そしてあっという間に『わが星』の上演は修了してしまう。
 
 ポン、ポン、ポン、ポーン。

 100年、または100億年の『わが星』の物語が時間を延ばしたり縮めたりして再稼働する。そこはある家族のお茶の間だ。そこにちーちゃんとお姉さん、お父さん、お母さんにお婆ちゃんが暮らしている。そして今日はちーちゃんのお誕生日。
「お誕生日おめでとう」
ちーちゃんは双眼鏡を自分に向けてのぞき込む。何気ない日常、それが淡々と続いていく。ちーちゃんの家族の回りには、命日を迎えるものが多い。テレビ、郵便局の側に住むお爺さん、お婆さん。そしてちーちゃんの家族とちーちゃん自身。ちーちゃんたちの時間は死に向かって一方向に流れていく。

 ポン、ポン、ポン、ポーン。

 男子は天体望遠鏡を使って『わが星』を見つけた。しかしその星は消えてしまう。その星に触れたい男子は、後ろに進んだことを後悔する先生の導きによって、時間を前に前にと進んでいく。校則を、いや光速を越えて『わが星』 に向かっていく。

 ポン、ポン、ポン、ポーン。

 ちーちゃんが膨張した太陽に乗り込まれそうになった時、男子はちーちゃんと出会う。そしてちーちゃんが消えていく様を見守るのである。 

 ああ、なんというものを観てしまったのだろう。この作品はちーちゃんという女の子の生涯を描いていたのである。いや、ちーちゃんと擬人化された地球の生涯を描いていたのである。いやいや、時間そのものを描いていたのである。いやいや、これらのすべてを描いていたのである。
 この作品には3つのポイントがある。1つ目は、作中に定期的に流れる時報である。これは口ロロの0:00:00の音楽を元にした楽曲で、リズムに合わせて定期的に時報を鳴らす。さらにそのリズムに乗って役者たちがしゃべることで、時間の流れをとても意識させられるのだ。100分、100年、100億年。時間の尺度は不明瞭。ただ時間が流れることだけが提示される。そのため目の前の物語が、100年の家族の物語にも、100億年の星の物語にも感じることができるのだ。人の一生と星の一生。それらが重なり合って見えてくる。それは人と星だけではなく、全ての存在に『ハッピー バースデー トゥー ミー』と『ハッピー デースデー トゥー ミー』が等しくあることを示している。当然われわれにも『ハッピー バースデー トゥー ミー』と『ハッピー デースデー トゥー ミー』がある。ちーちゃんの覗き込んでいる望遠鏡の先に、われわれが見えているのではないか、そんな感覚を抱かせるのである。つまり見えないけれど、われわれもちーちゃんの中に存在しているのだ。この物語は我々の一生を描いているとも言うことができるのだ。
 そして2つ目は、見守る存在がいることである。ちーちゃんには彼女を見守る家族や月ちゃんがいる。別の星の先生、男子がいる。だが、それだけではない。ちーちゃんや月ちゃん、家族、別の星の先生、男子を見守るわれわれがいる。そしてちーちゃんも望遠鏡を使って見えないわれわれを見守っている。ちーちゃんが見守るわれわれと、ちーちゃんを見守るわれわれと。見守り見守られる関係がクロスする。つまりちーちゃんを通してミクロコスモスとマクロコスモスが繋がるのである。それは空間を越えるのである。
 最後の3つ目は、別の星に住む先生と男子の存在である。男子は先生の過去の姿。先生は男子の未来の姿。考えの違う二人が同時に存在することで、あたかも別人のように扱われる。その二人の差に時間の重さが横たわる。先生はちーちゃんと会うことを諦めて、ちーちゃんの姿を見続けるためにちーちゃんからどんどんと遠ざかっていく。男子はちーちゃんと会うことを諦めず、ちーちゃんと出会うために時間を空間を光速を越えてやってくる。時間の流れを感じさせつつ、その時間を越えるのである。
 
 それら3つのポイントが織りなすボーイ・ミーツ・ガール。我々は男子となって、ちーちゃんと出会う。そして我々はちーちゃんとなって、男子と出会う。そして我々は出会えたことに涙する。我々は一人じゃないと涙する。
 それら3つのポイントが織りなすセンチメンタル。われわれは先生となって、男子に出会う。われわれは男子となって、先生と出会う。そしてわれわれは希望を見出す。その希望を諦めた苦みに、その希望に突き進む熱さに思いを馳せる。
 われわれはちーちゃんや家族の『ハッピーバースデー トゥー ユー』と『ハッピーデースデー トゥー ユー』を体感している。そしてちーちゃんや男子、先生や家族に憑依することで『ハッピーバースデー トゥー ミー』と『ハッピーデースデー トゥー ミー』を体感する。それはあたかも『私』でない別の一生を体感させられるのだ。そしてその体感はわれわれの『想像力』から発しているのである。つまり、この作品を通してわれわれの『想像力』の誕生と消滅を体感しているのである。そしてその『想像力』は劇場内に居る人の数だけ存在している。その『想像力』の煌めきは、星の瞬きとも言えるだろう。星の数だけ可能性がある。その可能性を感じることで劇場の中はどこまでも広がっていく無限の宇宙を想像させる。
 
ポン、ポン、ポン、ポーン……。

  時報が止まった。そして世界は収束し、再び『何もない』へと帰っていく。『わが星』という作品で生まれたわれわれの『想像力』も『何もない』へと帰っていく。そして劇場の中で椅子に座る『私』に帰ってくるのである。
 なんという作品なのだろう。まさに生を体感させられた。私だけでなく、色んな生を体感させられたのだ。そしてこの体験は公演される度に繰り返される。これはまさに輪廻じゃないかと想像させられる。100億年の時を思うと、弥勒菩薩が悟りを得るまでの56億7000年なんてさほど遠くない未来と思えてくる。
「もしかすると、あの男子は弥勒菩薩なのかもしれないなぁ」
ふとそんなことも思えてくるのである。

 想像力が広がっていく。時間を、空間を越えて、広がっていく。それはそのまま『わが星』という作品の可能性の広がりなのだ。われわれの想像力が尽きない限り無限なのだ。

 太陽系第3惑星、地球。われわれの住むわが星は、いまのところ、知的生命体の住む唯一の星とされている。暗い暗い広大な宇宙にぽつんと存在するわが星は、なんて孤独な存在なのだろう。
 だけど何処かにあるのだ、男子が住まう彼の星が。そして男子がわが星を見守っている。
『孤独じゃない』
そう想像するだけでわれわれは心安らかでいられるのである。