下北沢通信

中西理の下北沢通信

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ダンスについて考えてみる(演劇の彼岸としてのダンス)

 「ダンスの本質とは何と考えるか」と人に問われた時、私はつい「それはムーブメントである」と答えたくなる。なぜそうなのか。もちろん、私もダンス作品、特に現代芸術であるコンテンポラリーダンスにはそれだけには還元できないいろんな要素を含んでいることを知らないではないし、そのなかからムーブメントの部分だけをとりだして、それを特権化することには若干の躊躇を覚えないわけではない。実はそれは私がどのようにしてコンテンポラリーダンスと出会ったのかという個人史を抜きにしては説明するのが難しい。
 私は演劇を好きで見ていて、その後、演劇について批評めいたことを書くようになったのだが、そのなかで日本の現代演劇を見て、それがいかなるものかを分析するにあたって、2つの基準が援用できるのじゃないかと思いはじめていた。いまから十数年前、1990年代の半ばのことだ。
 2つの基準とは「関係性」と「身体性」で、すべての演劇はこの「関係性」と「身体性」の交差点にあるというのが、私の考えで、この2つを軸にして、当時の日本の演劇をマトリックス化して、マッピングするという作業もやってみた。「東京人」という雑誌の97年11月号*1に掲載された「図解・現代演劇講座」のなかの「1997小劇場分類図」というのがそれで、いつかこれの新世紀版を作らなくちゃと思いながらも、元の雑誌さえも手元にない状態で、そのまま放置された状態になっているのだが、実はこの図には演劇だけではなくある種のコンテンポラリーダンス(ないしパフォーマンス)も小さく提示されている*2
 それはどこにあったのか。実はその図ではページからはみだしそうな外縁部にダンスはあった。つまり、私にとってはダンスとは「演劇という概念の外側にあるもの」だったのである。
 元の図版がここで提示できないので、もどかしいことこのうえないのだが*3、その図というのは当時ダンスも見始めていた私がそれこそまるで教科書のようにいつも持ち歩いていた桜井圭介氏の名著「西麻布ダンス教室」*4に掲載されていたダンスマトリックスに触発されて、演劇でも同様なことができないかと考えているうちに結実してきたものであった。
 演劇の場合、それがいかなるものだとしても多かれ、少なかれ「意味の世界」*5に支配されている。それは主として群像による会話を通じてそこに登場する人物の関係性を提示する「関係性の演劇」*6において、もっとも顕著であるが、一見、通常の台詞劇からは遠く見える鈴木忠志、太田省吾、宮城聰、上海太郎、松本雄吉といったどちらかというと身体表現系*7に分類される作家たちの作品でさえ、やはり演劇であるからには「意味の世界」からは自由なわけではなかった*8
 もちろん、ダンスとて、というよりは実際のダンスは例えばバレエが物語バレエからはじまっていることやモダンダンスが神話的な物語の枠組みを好んで援用することからも分かるように、「演劇的要素」=「関係と身体の交差」から自由なわけではない。ここではあえて、ダンスを「演劇の彼岸」とみなす立場によって、それを純粋のムーブメント(運動性)に還元するというかなり無理を承知のモデル化を行っている。
 実はここでこんなことをあえて書き出したのはよって立つ立場によって、ダンスの見え方はずいぶん違ってくるのではないのだろうかということが、言いたかったのである。例えば「音楽の彼岸としてのダンス」。この立場にたてば演劇の立場から見れば抽象的なダンスであっても、音楽の立場からは人間が実際にその身体で演じるということは無視できない。もちろん、音楽も人間が演奏するものではあるのだが、音楽では一応、演奏する人と演奏される音楽とを分けて、純粋に音としての音楽だけを受容することが可能だと思われるが、ダンスの場合は踊る人とそこで踊られるダンスを腑分けすることは原理的にはできない*9
 ずれてしまった話題を元にもどそう。実はここが問題なのだが、先ほど演劇に分類した「身体性の演劇」と「ダンス」には先ほどの話とは矛盾するようだが、厳密な境界線があるわけではない。
 例えていうならばこれは虹の色がどこからここまでは紫でここからここまでは赤というような境界はなく、なだらかに連続しているようにジャンルとしての演劇とダンスはつながっている。そうであるのにもかかわらず少なくとも境界線でのあいまいなグレーゾーンをはらみながらも、例えばク・ナウカや太田省吾の作品は演劇に見え、ピナ・バウシュはダンスに見えるのはなぜなのか。それは私がたまたま既存のジャンル分けにとらわれているがゆえの幻想にすぎないのか、それとも両者の間にはどこかで明確な姿勢の違いがあるのか。
 実はもっと卑近な例がある。上海太郎舞踏公司という集団は元々、上海太郎=俳優・演出家と中村冬樹(冬樹)=ダンサー・振付家が一緒に旗揚げした集団であり、ふたりがその後、それぞれの集団(上海太郎舞踏公司、冬樹ダンスビジョン)をそれぞれ主宰するようになった後もその要素となる部材(マイム的な動きとダンス的な動き)には共通点が多かったのだが、それでも私が見た印象から言えば、上海太郎舞踏公司はダンス的な要素も多用する演劇であり、冬樹ダンスビジョンは演劇的な要素を持つダンスであった。そして、なぜかははっきりとは分析しかねるが、その違いはすくなくとも私の目には明らかだったのである。
 その意味では最近、ダンスとしての評価も一部では高いチェルフィッチュは私は明確に演劇であり、だからこそ面白いのだ、と思っている。逆に水と油は作品を構成する部材としてはマイムとダンスのミクスチャーとして上海太郎舞踏公司と同じダンスパントマイムに入るのだが、作品によっても違うが動きの連鎖によって「意味性」というよりはある種のイメージを絵画的に伝達するという意味ではどちらかというとダンスに近い風に思われる。
 多分、読んでいる人には私が問題点をうまく整理できていないせいで、重箱の隅をつついてるだけのように思われるかもしれない。自分でも半分以上はそうかもしれないと思いつつも、あえてこだわらざるをえないのはまだはっきりと見取り図は示せないけれど、このぼんやりとしたところに演劇とダンスを考えるうえでの非常に重要なタネのようなものが潜んでいるのではないかと思われるからだ。
 最後にここまで書いてきたこととは直接は関係ないけれど気がついたことがある。それは私がダンスにおいてなぜ即興に興味を持ったのか。それは演劇には即興はない*10からだ。

*1:http://www5.mediagalaxy.co.jp/kyoiku-shuppan/tokyojin/back/97_11/back97_11.html

*2:詳しくは思い出せないが、寺山修司の外側にダムタイプを置き、SCOTの外側にピナ・バウシュを置いた

*3:だれか「東京人」のこの号を持ってる人がいればその図のところだけを画像ファイルにして送ってもらえるとすごく有難いのだが、今のところは手間がかかるからあまり期待はできそうにない第三者の善意にすがるしかない状況である

*4:

西麻布ダンス教室―舞踊鑑賞の手引き

西麻布ダンス教室―舞踊鑑賞の手引き

*5:そこで提示される構造と言い換えることもできる

*6:もっとも典型的なのは平田オリザであるが、当時登場してきた松田正隆長谷川孝治、はせひろいち、長谷基弘といった作家の作品のなかにそれは具体的な形で結実することになった

*7:全員がというわけではないが、これらの作家たちを「関係性」に対置される意味もこめて「身体性の演劇」と名づけた

*8:ダンスの本質は「ムーブメント」であるというのと同等に意味合いで演劇の本質は「関係と身体の交差」にあると考えているので、それはもちろん否定的な意味合いというわけではない

*9:もっとも、ムーブメント=ダンスと定義する立場にたてばディズニーのようなアニメーションの上でのダンスやプログラムされたロボットのダンスをダンスと呼んでもかまわないことになる

*10:即興演劇というものはあるが、個人的には私はあれは違うと思っている