下北沢通信

中西理の下北沢通信

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大槻能楽堂自主公演「隅田川」@大槻能楽堂

大槻能楽堂自主公演「隅田川」大槻能楽堂)を見る。

狂言佐渡狐」 
善竹隆司 善竹忠一郎 善竹隆平
能「隅田川」 
シテ 山本順之 子方 赤松裕一 ワキ 植田隆之亮 ワキツレ 山本順三

 今年は古典ももっと積極的に見てみようと年初に誓ったと書いたが、歌舞伎に続いて古典シリーズ第2弾。能と狂言である。「隅田川」は世阿弥の息子で天才といわれた観世元雅の作品。能というといわゆる複式夢幻能*1に代表されるような複雑な形式が作劇におけるジャンルの1つの特徴となっているのだが、これは「現在能」。最後の場面で梅若丸の亡霊(子方が演じる)が現れることは現れるのだが、これはハムレットにおける父王の亡霊同様にかどかわされて、失われた我が子を求めに求めて、物狂いとなった母の妄執が見せる幻影のようなものと考えることも可能な存在のために複式夢幻能に登場する憑依する存在である亡霊たちとはまったく違ったあり方の存在だと考えることもでき、その意味では様式的に処理された古典劇である能のなかではとっつきやすい作品ということもできるかもしれない。
 さらに子を思う母の気持ちという普遍的な主題を取り上げているせいもあってか、英国の作曲家ブリテンがこれを翻案した「カーリュー・リバー」というオペラを創作したことでも知られている。そういえば、私が行った時にはすでに終了していたが、昨年のエジンバラ国際フェスティバルのオープニング*2がこの能「隅田川」と狂言「蝸牛」のミックスプログラムで、ほぼ同時期にオペラ「カーリュー・リバー」を上演していたのを思い出した。
 「カーリュー・リバー」がどのような作品となっているのかは残念ながら、見たことがないので分からないのだが、西洋の作曲家がこの作品を見て翻案してみようかと考えた理由は分かるような気がした。「隅田川」は劇構造が非常にシンプルでギリシア悲劇を思わせるようなところもあり、また上演を見て思ったのはその構造のシンプルさゆえに能が音楽劇であるということの魅力がストレートに体現されているからだ。能のことには詳しくはないが、この日シテをつとめた決して張り上げたりしている感じはないのに途中で語り的なフレーズから詞華の引用のような唄うようになるところ*3で山本順之は声がすばらしくて、思わず聞き惚れてしまった。
 ただ、残念だったのは大槻能楽堂の場合、正面の席が予約席となっているために、当日券だった今回はサイドの方から見ていたのだけれど、その位置からだと能を見慣れていない私には面づかいをはじめ、細かい身体所作が見えにくかったこと。次回は予約して見ることにしよう。
 そういえば、今回の公演とは直接関係はないけれど、「隅田川」をネット検索していたら、芥川龍之介のこのような文章*4を見つけた。昔、初めて能楽堂にいって私も思ったことと同じことを最後に書いてたので思わず笑ってしまった。

*1:複式夢幻能とは、世阿弥が完成させた能の形式で、前半と後半に分かれ、前半を前場、後半を後場といい、前場のシテ(主人公)を前シテ、後場のシテを後シテという。前シテと後シテは同一人物の亡霊であるが、前場では土地の人間に憑依して現れ、後場では生きていた頃の姿で、ワキ(脇役のことで、旅の僧のことが多い)の夢の中に現れる。この複式夢幻能を成立させる一番大切な条件は、生きている人と死んだ人との魂の会話だという。

*2:http://www.eif.co.uk/E22_Sumidagawa_The_Madwoman_at_the_Sumida_River_Kagyu_The_Snail_.php

*3:オペラに例えたらレチタティーヴォとアリアの違いのようなのを感じたのだが、能楽の世界でどう呼ばれているのかは勉強不足で不明

*4:http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/1134_6760.html