下北沢通信

中西理の下北沢通信

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芸劇eyes 劇団あはひレパートリー上演『流れる』と『光環(コロナ)』@東京芸術劇場シアターイースト

芸劇eyes 劇団あはひレパートリー上演『流れる』と『光環(コロナ)』@東京芸術劇場シアターイース

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劇団あはひ「流れる」「光環(コロナ)」(4月9日、東京芸術劇場)の2本立てを観劇した。芸劇eyesの企画による過去上演された秀作の再演なのだが、特に「光環(コロナ)は「Letters」の標題で上演されたものを大幅改定し事実上の新作に作り直した。「Letters」はエドガー・アラン・ポーの探偵小説を原作に換骨奪胎し「生と死のあわひ」を描いた好舞台で私の2021年ベストアクト上位に選んだ作品で、これがどんな風に変わるのかにもっとも注目した。
劇団あはひは早稲田大学出身の若手劇団だが、中心メンバー在学中にすでに本多劇場での公演を行い、続いてKAATでも公演、今回は東京芸術劇場の企画公演にも選ばれた。早稲田にひさびさに現れた次世代のスター劇団候補である。
文学や古典芸能などを素材に能の形式を援用しながら、現代演劇として上演するというのがこの劇団のスタイルであり、この日上演された2本も世阿弥らが考案した複式夢幻能の上演形式に合わせて構築されていた。
しかも、当日配布されたパンフなどによれば様々な作品を引用しながら、それを下敷きとなる作品の筋立てに落とし込んでいくような構造となっており、さらにそこに大塚英二東浩紀らが漫画、アニメ、ライトノベルなどを対象に提唱した新たな表現形式である「アニメ・漫画的リアリズム」「ゲーム的リアリズム」などの手法も意図的に取り入れていると自らの方法論を公開している。
これはある意味批評にとって非常にやっかいなことである。というのは演劇批評は作品に込められた隠された構造や作者の隠された意図を精密な分析によって露わにすることにその本分があると考えているのだが、ここまで作者本人がいわゆる自作解説でそれを明らかにしてしまうと、それに基づいた論考は批評というよりは作者の俎上に乗った単なる作品解説に堕してしまいかねないからだ。そして、この理屈っぱさはそれぞれの方法論はまったく異なるのだが、現代口語演劇として知られる自らの方法論を事細かに開陳した平田オリザ以来の人材ではないかと思わせた。
この日上演された「流れる」「光環(コロナ)」はいずれも複式夢幻能の上演形式に合わせて構築されていると書いたが、それぞれの作風はかなり異なる。
「流れる」は能の「隅田川」を下敷きにした作品であるが、基本的にテキストおよび俳優の演技スタイルは平田らによる現代口語演劇に近く、ところどころ観客の方に向けて話しかけるなどチェルフィッチュを思わせる部分も意図的に取り入れられている。つまり、能の形式を現代口語演劇で構築するという様式なのだ。
隅田川」はいわゆる母親が失った子供を物狂いになって探し求めるといういわゆる「狂女もの」と言われる物語群の原型(プロトタイプ)といってもよいものだが、他の古典芸能にも影響を与えて、歌舞伎でも『出世隅田川』 - 初代市川團十郎作、『隅田川続俤』(法界坊)- 奈河七五三助作、『都鳥廓白浪』(忍の惣太)などの「隅田川もの」と呼ばれる派生作品が作られており、木ノ下歌舞伎による現代化上演もあり、それを見た人も少なくないかもしれない。この「隅田川」自体が伊勢物語東下りの段を引用しているという重層的な構造を持っているのだが、それに加えて能におけるワキのような役割を担う存在として後に「おくのほそ道(奥の細道)」として知られる東北地方への旅に出ようとしている松尾芭蕉と弟子の曾良が登場する。芭蕉がここで登場するのは芭蕉庵が隅田川のほとりにあり、そこから旅立ち「おくのほそ道」冒頭に舟に乗って出立し、千住大橋付近で船を下りて「行く春や 鳥啼なき魚の 目は泪」という句を詠んだ」という記述があり、そこからインスパイアされたものかもしれない。さらにこの作品は同じ能でも「井筒」という別の作品も引用されているのだが、「井筒」も伊勢物語とその作者である在原業平をモデルにした作品なのである。
とはいえ、「流れる」において「隅田川」と同等なほど重要な引用は他にある。それは手塚治虫の漫画「鉄腕アトム」である。若い観客の中には知らない人もいるかもしれないが、「鉄腕アトム」は愛息トビオを事故によって失った天馬博士が息子そっくりのロボット(アトム)を作るが、ロボットであるアトムが人間のように成長しないのに腹を立てて、それを放逐してしまう。アトムはその後、お茶の水博士の手によって、修理され、そこから私たちもよく知るアトムの物語が始まるのだが、その原点にあるのがトビオの死であり、おそらく「流れる」という作品は梅若とトビオという何百年もの時を隔てた二人の男の子の死を重ね合わせたことで成立したのであろうと思う。
能にもよくあることだが、この「流れる」は時代が全く異なり本来は接点がないはずの「梅若の死」「トビオの死」「松尾芭蕉の旅立ち」が船の渡し場という場を借りて、融通無碍につながりあってしまうという構造になっており、このハイコンテクストな接続の仕方こそが大塚が考える「現代の能楽」なのではないかと思った。
出演者ではアトムを演じた古瀬リナオが印象的。ほかの登場人物が現代口語演劇的な演技体なのに対して、古瀬は漫画原作のアトムがそうであるようなまるで人間のように見えるロボットではなく、声のトーンを意図的に平たんにするなどで「ロボットらしさ」を表現しているのだが、それはやはり通常の演劇におけるリアルな肌触りからは距離をとった「アニメ・漫画的リアリズム」として表現されることで、演劇と漫画という異なるメディアを接続しているようなところがあり、そうであっても「愛する人の死」という普遍的な主題が時代や形式の違いを超えて成立し、人の心を動かすのだということを実践した舞台だったのではないかと思う。
ほとんど素舞台の何もない舞台のなかで唯一中央奥に置かれた白い円筒形のオブジェが「井筒」の井戸から「隅田川」の卒塔婆まで舞台上での見立てで変容していく舞台美術(杉山至)が素晴らしかった。
(続く)

『流れる』
作・演出:大塚健太郎
出演:上村聡 中村亮太 鶴田理紗 踊り子あり 古瀬リナオ

『光環(コロナ)』(新作化に伴い『Letters』改題)
作・演出:大塚健太郎
出演:古瀬リナオ 安光隆太郎 渋谷采郁 松尾敢太郎

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ラカンとデリダの「手紙」解釈を巡って。推理小説の始祖エドガー・アラン・ポーの「盗まれた手紙」を舞台化。劇団あはひ「Letters」@KAAT - 中西理の下北沢通信