- 作者: 京極夏彦
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2006/09/27
- メディア: 新書
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例えば、自作の批評で悪口を書かれて、噴飯やる方ない関口巽に向かって、京極堂が林檎に例えて「書評とはなにか」について語るくだり。「あのね、書評なんていうものは概ね四種類しかないのだ」「ここに林檎があると思い賜え。で、林檎がありますと云う。これが一つ目。で、兎に角この林檎は美味しいですよ食べてみましょうと云う。これが二つ目。それから、実際自分で食べてみたけれど少し硬くて酸っぱかったから好みじゃないとか云う。これが三つ目。最後は、この林檎はこうして作られたと思うとか、この林檎の成分はこうだと思うとか、この林檎の所為で蜜柑が不味くなったとか、そう云う空想を巡らせて愉快なことを云う」。
ここで取り上げられるのは書評ではあるけれども、ここでの京極堂の「書評論」は評論一般に敷衍してもなりたつ射程を持っており、その論陣はこの小説内世界として設定された時代を超えて、作者自身は明示はしないけれど、ロラン・バルトやフーコーなどの構造主義、ポスト構造主義の現代思想と通底している匂いも色濃くあり、現代でも説得力を持つものでもある。
説得力を持つ、というのは言い換えれば一見、奇抜なレトリックをまとっていても、実は意外と常識的なことを言っているのだということでもあって、「作者と作品は全く切り離されるべきものだ」「テクストをどう読み取ろうと、どんな感想を抱こうと、それを何処でどんな形で発表しようと、そりゃ読んだ者の勝手であって書き手がどうこう口を出せる類のものじゃない」などの論議は言ってみればテクスト論、エクリチュール論の常識であってそのこと自体に格別に新味があるわけではないのだが、ミステリ小説の枠組みを借りて、「言語」「認識」「主観/客観」といった現代思想の問題を扱うのが、京極夏彦の「妖怪」ものと本質ではないかと思っているのである。
とここまで書いてきて、こうした文章は京極堂の分類によればこの「邪魅の雫」というテキストなり、「妖怪」シリーズとはなんの関係もない「空想を巡らせて愉快なことを云う」類のことになるのに違いない(笑い)。
これまでのこのシリーズでは関口巽という不完全な認識装置という仕掛けをミステリ小説としてのネタとして展開してきたことが多かったのだが、この「邪魅の雫」は少し違っている。これまでのシリーズでの脇役たちが活躍するなどと言われていて、それはそれで間違ってはいないとは思うが、関口巽、あるいは逆の意味での榎木津といった特権的な認識装置を登場させずに普通(と思わせる)複数の人物の視点を並列的に並べることで、ある特定の事象に対していずれも特権的な立場にはなりえない複数の「主観」を併置することで現れる無数の「ずれ」が引き起こす幻影術というのがこの小説のモチーフではないかと睨んでいるのだが、果たしてどうだろうか。
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