イングマール・ベルイマン・レトロスペクティブ(シネ・ヌーヴォ)を観劇。
鏡の中にある如く(1961)=神の沈黙三部作
冬の光(1962)=神の沈黙三部作
沈黙(1963)=神の沈黙三部作
不良少女モニカ(1952)
処女の泉(1960)
イングマール・ベルイマン・レトロスペクティブを九条のシネ・ヌーヴォでやっている。行きたいと思いながらも、最新作「サラバンド」しか見てなかったのだが、この日は特別オールナイトということで5本立て。ベルイマンの世界を堪能した。とはいえ、寄る年波の哀しさ(笑い)、4本まではちゃんと見たのだが、最後の「処女の泉」はいつもまにか映画館の客席の中に沈没してしまったのであった。情けない。
それでもまさに真っ向勝負の剛速球の趣き。その描き出される世界観には圧倒的なものがあったが、良くも悪くも*1主題に対するなんの躊躇もない真正面からの切り込み方にはやや唖然とさせられる。これはいったいなんなんだろうという感じなのである。現代の作家は、あるいは少なくとも日本人ならばこういう風にはやらないで、もっとからめ手から徐々に主題に近づくというアプローチをするのじゃないだろうか。
なかでも神の沈黙三部作の第2作目の作品である「冬の光」は神と信仰の問題を信仰を失った牧師を主人公に描こうというとんでもなく正攻法の作品でこれを見た時には思わず「おいおい」とつっこみをいれたくなった。物語の筋立てを説明するならば信仰を失った牧師がその欺瞞を自分に対して、感じながらもその仕事を続けているが、愛人からの手紙でそのことを指摘され、思い悩むうちに生きる意味に悩む信者にそのことを告白してしまい、その結果、それが引き金を引いたかその信者は猟銃(ライフル?)により自殺してしまう、というもうどうにも救いのない話で、こういう風に書くと陳腐きわまりない話にも見えてくるが、それをちゃんとした悲劇としてどうにか見せきってしまうことには俳優の卓抜たる演技力とそれを引き出したベルイマンの抜きん出た演出力の凄さを感じざるをえない。それにしても自殺の理由などはだれにも本当のことは分からないものではあるけれど、少なくとも表面に出てきただけでは中国の核実験に衝撃を受けたからだということになっているのだが、これはその当時に説得力のあるものであったのだろうか。映画を見ていた時にはそのことに関しては眉につばをつけながら見ていたのだが、ネットでの感想などを見るとこの映画を一種の「反核映画」ととらえているものもあって呆然とさせられた。
ひょっとしたら時代の空気というものもあったのかもしれないけれど、もし現在、北朝鮮の核実験に絶望して自殺するという人の話を書いたら、ブラックジョークとしてしか受け取られないだろう(笑い)。その分、核の傘の下で平和を享受してきた我々は口では「核武装許すまじ」などと叫んでみてもある種の諦念から、それは必要悪と割り切ってしまっているといえなくもないが、時代かベルイマンの個人的な思いかは分からないが、この現代に日本に住む我々は「神の沈黙」の絶望からも核戦争への警鐘からも百万光年も隔たったところで生きているのだという気があらためてさせられた。
いささか逆説的な物言いになることを承知でいえばこの絶望的な距離感にこそ私たちが「いま・ここで」ベルイマンを見るということの意味があるのかもしれないが……。
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*1:あえて良くも悪くもと書いた