下北沢通信

中西理の下北沢通信

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堀企画「水の駅」(2回目)@アトリエ春風舎

堀企画「水の駅」(2回目)@アトリエ春風舎

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太田省吾の沈黙劇とはいったい何であったのだろうか。堀企画「水の駅」を見ながらいろんなことを考えることになった。実は私が現代演劇に深くかかかわることになったきっかけは平田オリザ*1上海太郎*2の演劇に出会ったことにあった。
現代口語演劇を標榜する平田オリザとダンスパントマイムによる集団パフォーマンスを手掛ける上海太郎には一見何の関係もないように見え、対極的な存在にも見えるが、実は共通点がある。それはノンバーバル(非言語的)なコミュニケーションに対するコミットメントなのではないかと気が付き、深い関心を持ったのだ。
当時の私は現代思想にのめり込んでいた。特にウィトゲンシュタイングレゴリー・ベイトソン*3などの著書を通じ数年にわたり、人間の間のディスコミュニケーションはどうして起こるのかついて考え続けていた。そしてこの問題を突き詰めていくと言語が介在するコミュニケーションには根源的な不可能性があるのではないかとの考えに突き当った。
論理哲学論考」など前期ウィゲンシュタインの思想である写像理論からすると、「世界は言語の写像」であり世界に対する認識はすべて言語に還元できる。ところが言語をいくら洗練させてもそれを媒介としている限りは他我の世界に対する認識が一致することはありそうもない。雑駁な表現だが当時私が世界に対して考えていたことの基本的な流れはそのようなことだった。
 グレゴリー・ベイトソンの著書などを通じて、人間同士の非言語的なコミュニケーションの重要性にも注目した。そして出会ったのが平田オリザ上海太郎の演劇表現だったのだ。

 前を向いて長台詞を滔々と語るような種類の演劇は「語られる言葉」はそのまま作者あるいは少なくとも語る登場人物の何かの内容を伝えようとする意図と直結したものだったが、そうしたコミュニケーションにはリアルさがないと感じていた。
 一方、平田オリザの作品を見て注目したのがセリフを発していない時の俳優の表情や視線などノンバーバルな振る舞いの重視。それはセリフ以上に根源的に登場人物の意図を提示するし、言葉がその人物の真意と乖離していることは普通にある。グレゴリー・ベイトソンダブルバインドに代表されるような概念を用いて、我々が本来持っている身体と言語のずれを認識できなくなったときに引き起こされる葛藤を精密に分析した。
 上海太郎に当時注目したのもその作品が世界の成り立ちや生物の進化の歴史など高度な哲学的な内容を持ちながら、言葉を用いないでそれを表現していることの不思議からだった。
 ところが「水の駅」を見ながらその点については若干の認識のずれがあったかもしれないと今になって気が付いた。というのは上海太郎の演劇は場面の構図の相動性をメタファーとして駆使していて、それは確かにノンバーバルな表現ではあるが、非常に記号的な表現でもあったからだ。
 それに対して、太田省吾の沈黙劇には言語以前の根源的な身体的な表出を感じる。当時考えていた非言語的な表出のモデルには類似性の芸術であるパントマイムを駆使した上海太郎よりも太田省吾の沈黙劇の方がより的確に当てはまるのかもしれないと感じた。
 ただ実はそれはそんなに単純なことではないのかもしれない。「水の駅」も言語と無関係なわけではない。台本に当たるような言語テキストがあり、演者はそれを(言語)をもとにそれぞれの演技を構築しているらしいことが分かったからだ。
 興味をそそられるのは今回の舞台で演者はそれぞれどのように演技を構築しているのであろうかということだ。転形劇場の場合は演技はいくぶん個々の俳優の内面再現的なメソッドにより構築されているように思われた。ただ、今回の上演ではひょっとしたらそうした統一性はなく、個々の俳優の裁量にまかされているのかもしれない。平田オリザ青年団の演技についてそれが戯曲の指定からはずれた演技でない限りは俳優がどのように個々の演技を組み立てたとしてもかまわない、それは俳優の領分だとしている。
 ただ、出来上がったアウトプットは実際に現前しているものがすべてだ。フッサールの現象論を引き合いに出しながら内面や演出的な指示など観客の目から見えないものをそこに見ようとするのは無意味だとしている。
 だとすると平田の解釈に従えばこの「水の駅」でも上演からは分かるはずもない原台本の指定などを問題にすることは無意味だということにもなるのかもしれない。
 もちろん、参照項としての原テクストの内容を知っていればおそらくそういう人の目には舞台は知らない人にとってとは違うものに映るということはあるだろうが、平田はそういうことも無意味だと言っているわけだ。この作品での堀夏子が演出においてこうした平田の思想をそのまま受け継いでいるかどうかは不明なのであるが、仮に受け継いでいるとすればそれぞれの人物の意図というよりは動きにおけるテンポの調整と登場する人物同士の関係性を提示することがこの舞台の主眼ということになるのかもしれない。
 緩やかな動きには意味がある。それは言葉の意味への認識が無時間的なものであるのに対して、人の動きの意味合いの認識には時間的なディレイが生じざるをえず、同じ動きあるいは表情だとしても動きが遅ければそれだけ多くのものをそこから汲み取ることができるからだ。さらに言葉は無時間的なものと書いたが、逆に言葉を言葉としてその意味を汲み取るには継続的な時間が必要だが、人間の言葉によらない身体的な表出は一種の図象として、一瞬でそれを観察するものに情報を伝達することが可能だ。
 そこから汲み取るものに対するハードルが高いために太田省吾の演劇をそのまま受け継ぐものはあまりいないが*4、ここにはまだ汲み尽くされていない豊かな水脈のようなものが眠っているのかもしれない。


作:太田省吾 / 構成・演出:堀 夏子
太田省吾の代表的沈黙劇『水の駅』に挑みます。

取手の壊れた水道。そこから細く流れ続けている水。水場を訪れる様々な人々-沈黙が日常になった現在。アトリエ春風舎自体が水の駅であるかの様に、様々な方が訪れてくださることを願います。
『水の駅』
太田省吾が転形劇場時代に生み出した沈黙劇の代表作。
台詞を排除して人間の〈要約できない〉領域の豊かさを表現した
前衛的な沈黙劇は国際的にも高い評価を受けている。
把手の壊れた水道。流れ続けている水。少女、闇の中へ。

堀 夏子[Natsuko HORI]

演出家・俳優 / 堀企画主宰

2005年劇団青年団入団。青年団の代表作『東京ノート』『ソウル市民』等に多数出演。2019年12月堀企画第一弾『トウキョウノート』で構成・演出を担当。

出演

近藤強* 藤谷みき* 木村巴秋* 黒澤多生* 北村美岬 瀧澤綾音 中條玲   (*)=青年団

スタッフ

舞台監督:海津 忠* 照明:小駒 豪 照明操作:髙野友靖 音楽・演奏:佐々木すーじん
宣伝美術:堀 夏子* 制作:太田久美子*  (*)=青年団


「砂の駅」稽古風景/Creation_TheSandStation

品川徹氏による転形劇場の成り立ち前後の事柄について

*1:simokitazawa.hatenablog.com

*2:simokitazawa.hatenablog.com

*3:simokitazawa.hatenablog.com

*4:アンティゴネーへの旅の記録とその上演』(2012/にしすがも創造舎)など松田正隆とマレビトの会の作品には太田省吾の沈黙劇からの思想的継承があるのかもしれないということに今回の舞台を見ていて初めて気が付いた。