下北沢通信

中西理の下北沢通信

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SPAC「夜叉ケ池」@静岡芸術劇場

出演:萩原晃(鐘楼守) 永井健二/百合(娘) 布施安寿香 /山沢学円(文学士) 奥野晃士 /白雪姫(夜叉ヶ池の主) たきいみき /湯尾峠の万年姥(眷属) 舘野百代 /白男の鯉七 池田真紀子 /大蟹五郎 榊原有美 /黒和尚鯰入(剣ヶ峰の使者) 木内琴子 /与十(鹿見村百姓) 吉見亮 /鹿見宅膳(神官) 三島景太 /権藤管八(村会議員) 斉木和洋 /斎田初雄(小学教師) 仲谷智邦 /畑上嘉伝次(村長) 植田大介 /伝吉(博徒) 若宮羊市/穴隈鉱蔵(県の代議士) 吉植荘一郎
演出:宮城聰 作:泉鏡花 音楽:棚川寛子 

 昨年初演され評判がよかった宮城演出版のSPAC「夜叉ケ池」を1年越しの再演でようやく見ることができた。ムーバー・スピーカー分離のク・ナウカ様式ではないけれど、下座音楽にパーカッション演奏を加え、そういうなかでセリフが語られるなど、SPACの宮城演出作品の中では一番ク・ナウカ時代のテイストに似た作品ではあるが、そうであるだけに演技・演出面でク・ナウカとの相違が明らかになった上演でもあった。
 宮城演出による泉鏡花といえばク・ナウカ時代に代表作として国内外で何度も再演された「天守物語」が思い起こされる。宮城が「夜叉ケ池」を演出したと聞いた時に最初にイメージしたのは美加理が富姫を演じてこの世のものならぬ美しさと存在感でワン・アンド・オンリーの魅力を発揮した作品だった。美加理抜きでこの時のようなテイストを再現するのは無理ではないかというのが、実際に舞台を見る前の危惧であったのだが、その心配はたきいみきが美加理とはまったく異なるやんちゃでお転婆な白雪姫を演じきったことで見事なまでに解消された。
 たきいの演じる白雪姫は妖怪ではあるのだけれど、例えば美加理の演じた「天守物語」の富姫のように高貴で近寄りがたい威厳というのはなくて、人間っぽいというかなんとも人懐っこい感じで、親近感を抱かせる印象。終演後に本人をつかまえては「あんみつ姫みたい」と話したのだけれど、どうもそれではしっくりこないなと思って考えていたらふと思いついたことがあった。それは今回の「夜叉ケ池」はなにか宮崎駿の「崖の上のポニョ」そのままじゃないかということであった。宮崎の映画では宗介を好きになった魚の子のポニョはその恋愛を成就させるために海辺の街に大洪水を起こし、海の底に沈めてしまうのだけれど、そんなことは全然気にかけない。それはポニョはまだ子供でその恋愛が「ポニョ、宗介が好き」の一直線だからだ。
 実は泉鏡花の「夜叉ケ池」の白雪姫のいちずな恋も同じではないか。それは白雪が(妖怪だけど)まだ子供だからではないかと感じたのはこの芝居で洪水に沈む村を見ながら自ら太鼓を打ちならしながら、いかにも無邪気に喜びの顔を見せるたきいの白雪を見たからではあるけれど、そう思って改めてそれまでの白雪のセリフを再確認してみると、一見突飛なものとも思われた白雪=ポニョ(子供)の連想は案外的を得ているものかもしれないと逆に思われてきたのだ。

白雪 姥(うば)、どう思うても私は行(ゆ)く。剣ヶ峰へ行かねばならぬ。鐘さえなくば盟約(ちかい)もあるまい……皆が、あの鐘、取って落して、微塵(みじん)になるまで砕いておしまい。
姥 ええええ仰せなればと云うて、いずれも必ずお動きあるな。(眼(まなこ)を光らし、姫を瞻(みつ)めて)まだそのようなわやくをおっしゃる。……身うちの衆をお召出し、お言葉がござりましては、わやくが、わやくになりませぬ。天の神々、きこえも可恐(おそれ)じゃ。……数(かず)の人間の生命(いのち)を断つ事、きっとおたしなみなさりませい。
白雪 人の生命のどうなろうと、それを私が知る事か!……恋には我身の生命も要らぬ。……姥、堪忍して行(ゆ)かしておくれ。
姥 ああ、お最惜(いとし)い。が、なりますまい。……もう多年(しばらく)御辛抱なさりますと、三十年、五十年とは申しますまい。今の世は仏の末法、聖(ひじり)の澆季(ぎょうき)、盟誓(ちかい)も約束も最早や忘れておりまする。やッと信仰を繋(つな)ぎますのも、あの鐘を、鳥の啄(つつ)いた蔓葛(つたかずら)で釣(つる)しましたようなもの、鎖も絆(きずな)も切れますのは、まのあたりでござります。それまでお堪(こら)えなさりまし。
白雪 あんな気の長い事ばかり。あこがれ慕う心には、冥土(よみじ)の関を据えたとて、夜(よ)のあくるのも待たりょうか。可(よ)し、可し、衆(みな)が肯(き)かずば私が自分で。(と気が入る。)
椿 あれ、お姫様。
姥 これは何となされます……取棄てて大事ない鐘なら、お前様のお手は待たぬ……身内に仰せまでもない。何、唐銅(からかね)の八千貫、こう痩(や)せさらぼえた姥が腕でも、指で挟んで棄てましょうが、重いは義理でござりまするもの。
白雪 義理や掟(おきて)は、人間の勝手ずく、我と我が身をいましめの縄よ。……鬼、畜生、夜叉、悪鬼、毒蛇と言わるる私が身に、袖とて、褄(つま)とて、恋路を塞(ふさ)いで、遮る雲の一重(ひとえ)もない!……先祖は先祖よ、親は親、お約束なり、盟誓(ちかい)なり、それは都合で遊ばした。人間とても年が経(た)てば、ないがしろにする約束を、一呼吸(ひといき)早く私が破るに、何に憚(はばか)る事がある! ああ、恋しい人のふみを抱いて、私は心も悩乱した、姥、許して!
(中略)

白雪 (じっと聞いて、聞惚(ききほ)れて、火焔(かえん)の袂(たもと)たよたよとなる。やがて石段の下を呼んで)姥、姥、あの声は?……
姥 社(やしろ)の百合でござります。
白雪 おお、美しいお百合さんか、何をしているのだろうね。
姥 恋人の晃の留守に、人形を抱きまして、心遣(こころや)りに、子守唄をうたいまする。
白雪 恋しい人と分れている時は、うたを唄えば紛れるものかえ。
姥 おおせの通りでござります。
一同 姫様(ひいさま)、遊ばして御覧じませぬか。
白雪 思いせまって、つい忘れた。……私がこの村を沈めたら、美しい人の生命(いのち)もあるまい。鐘を撞(つ)けば仇(あだ)だけれども、(と石段を静(しずか)に下りつつ)この家(や)の二人は、嫉(ねたま)しいが、羨(うらやま)しい。姥、おとなしゅうして、あやかろうな。
姥 (はらはらと落涙して)お嬉しゅう存じまする。
白雪 (椿に)お前も唄うかい。
椿 はい、いろいろのを存じております。
鯉七 いや、お腰元衆、いろいろ知ったは結構だが、近ごろはやる==池の鯉よ、緋鯉(ひごい)よ、早く出て麩(ふ)を食え==なぞと、馬鹿にしたようなのはお唄いなさるな、失礼千万、御機嫌を損じよう。
椿 まあ……お前さんが、身勝手な。
一同 (どっと笑う。)――
白雪 人形抱いて、私も唄おう……剣ヶ峰のおつかい。
鯰入 はあ、はあ、はッ。
白雪 お返事を上げよう……一所に――椿や、文箱(ふばこ)をお預り。――衆(みな)も御苦労であった。
一同敬う。=でんでん太鼓に笙(しょう)の笛、起上り小法師(こぼし)に風車(かざぐるま)==と唄うを聞きつつ、左右に分れて、おいおいに一同入る。陰火全く消ゆ。

 以上は泉鏡花の台本の引用だが、引用冒頭の「姥(うば)、どう思うても私は行(ゆ)く。剣ヶ峰へ行かねばならぬ」というくだりなど擬古文調のセリフ回しだからそうは見えないかもしれないけれど「白雪、剣ヶ峰(の彼のところに)行く」ということで、姥に「数(かず)の人間の生命(いのち)を断つ事、きっとおたしなみなさりませい」と諭されても「人の生命のどうなろうと、それを私が知る事か!……恋には我身の生命も要らぬ。……姥、堪忍して行(ゆ)かしておくれ」とばかり駄々をこねたり、しかし結局は恋人の晃の留守に、人形を抱いて子守唄をうたうお百合に同情して「人形抱いて、私も唄おう」と矛を収めるなど、これは恋の炎を燃やす成熟した女性というより、子供ないしまだ子供っぽさが残る幼い姫君の方がイメージにあうのではないだろうか。つまり、ポニョである(笑)。
 これまでの上演ではこの舞台の2人のヒロインのうちお百合が可憐なタイプに描かれていることから、この白雪は映画そして歌舞伎では坂東玉三郎が演じてるのをはじめ、花組芝居では座長の加納幸和が演じ、最近でも三池崇史演出の舞台では松雪泰子が演じるなど、宮城演出でいえば美加理の演じた「天守物語」の富姫のような造形に近い役柄の印象が強かったのだが、わがままで無邪気でポニョを思わせるようなたきいの白雪は実に魅力的で「こういう解釈もありかも」と思わせる説得力があった。
 さらに言えばこういう等身大の人間っぽい親近感を抱かせるようなキャラクターは「動き」と「セリフ」を分離したク・ナウカのメソッドでは効果的とはいえず、その意味で普遍性のある方法論として提唱してきてはいたが、実はあのシステムは結局は美加理という特異な魅力を持ったパフォーマーをいかに魅力的に見せるかという「美加理」システムのような部分があって、ヒロインが美加理とは全然違う個性を持ったたきいであれば必要ないのではないか。そんな風に思わせるたきいの演技だった。