下北沢通信

中西理の下北沢通信

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ロロ「夏も」@京都アトリエ劇研

【脚本・演出】 三浦直之
【出演】 板橋駿谷、亀島一徳、篠崎大悟、望月綾乃、呉城久美(悪い芝居)、小橋れな、島田桃子
【衣裳】 森本華
【宣伝美術】 玉利樹貴
【制作助手】 幡野萌
【制作】坂本もも
【協力】悪い芝居、こりっち舞台芸術、Knocks、範宙遊泳
【企画製作】ロロ

 ロロ「夏も」は東京公演で一度見ている作品なのだが、舞台の終盤部分を手直しししたのと、今回のgroundP★のためにアトリエ劇研にしつらえられた砂場の舞台装置がうまく嵌ったことなどもあって、面白いところもあったけれど、全体としてはどうなのかとの印象が否めなかった東京公演とはイメージが一変、東京公演と比べると数段完成度の高い舞台に仕上がった。
 「夏も」の主題は映画「転校生」のように男の子と女の子の人格が入れ替わってしまうということにあるのだと、東京公演の感想*1では書いたのだけれど、今回のロロの挑戦はチェルフィッチュの影響を受けたポストゼロ年代演劇において、顕著な特徴である「役者」と「役」の分離が物語上のモチーフである「人格転移」の表現へとパラフレーズされるという演劇的実験にあるといってもいいかもしれない。

 昨年上演された「グレート、ワンダフル、ファンタスティック」では主人公とヒロインの出会う世界が無限にループする世界(円環的構造)として設定されていて、さらに興味深いのはこのループには主人公だけが繰り返しの生の記憶をすべて持って生き続けており、ヒロインとの出会いも世界が更新されるたびに繰り返されるが、ループが繰り返される時には前の出来事はすべてリセットされる、という設定を持っていたことだ。この種の円環的構造は「涼宮ハルヒシリーズ」や「けいおん!!」などゼロ年代のアニメや漫画、小説も出てくるもので、以前に次回作の構想を聞いた時には「涼宮ハルヒ」の「エンドレスエイト」のような話をやりたいと三浦は語っていた。
 ところで今回の「夏も」では無限ループ構造の物語というのは放擲されていて、本人にそれを確かめてみると「そういうのはもう飽きましたから」ということだった。そして、三浦の方法論が興味深いのは無限ループの構造にこだわるのはそれが少しずつディティールは変化しながらも同じことを繰り返すという演劇の上演とループ構造が相似形の構造を持つことに意味を持たせようと考えていたことだ。
 実はそういう演劇への基本的な構えは「夏も」でも変わりはなくて、代わりに出てきた「転校生」というモチーフも「人格の転移」まで範囲を広げるとアニメやライトノベルに無限ループの構造と同じ程度に頻繁に登場するようだ。
 特に「人格転移」の物語のなかでも異性への性転換を扱う物語のことをTSF*2っていうらしいけれども、「転校生」もこれに含まれるのだが、ウィキペディアなどからするとアニメ、漫画、ライトノベルに数多くあるようなのだ。
かしまし〜ガール・ミーツ・ガール〜

先輩とぼく (電撃文庫)

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「人格転移」といえばなにも最近のライトノベルばかりじゃなくて、「転校生」をはじめ以前からあったものだし、TSFに幅を広げればこれは脳移植ものだが、私が大昔に愛読していた弓月光「ボクの初体験」などもこれに入ってしまう。
ボクの初体験 (1) (集英社文庫―コミック版)

ボクの初体験 (1) (集英社文庫―コミック版)

 
 もっとも「人格転移」をネットで検索するとほとんどがエロ関係のサイトが出てくることでも分かるようにこの手の物語では性的なことも含めて男と女の身体の違いなどに関心が向いていることが多いが、ロロ「夏も」はそういうところがほとんどなくて、ある人物の精神が別の人物に宿る(つまり転移してしまう)状態を演劇としてどのように表現するのかに作者・演出家の三浦直之の関心は特化している。ポストゼロ年代の演劇における演技のひとつの特徴として、1人の人物を何人もの俳優で演じ継いでいく(ままごと「あゆみ」)や複数の人物が複数の俳優によって演じられ、それが次々と移動していく(柿喰う客「恋人としては無理」、東京デスロック「3人いる」)など「役」と「俳優」との関係が1対1ではないものが数多く存在するのだが、「夏も」も最初にボーイ(亀島一徳)と少女(望月綾乃)が崖に見立てられた梯子から転げ落ちて、中身(人格)と身体が分離して入れ替わってしまう。この部分が「転校生」なのだが、「夏を」の肝はもう一度転げ落ちた時にもとに戻るのではなくて、今度は少女の精神が分裂してしまい、それがボーイと少女の両方にに宿ることでボーイが一度は消滅するが、今度はまるで輪廻転生かのように次々と登場人物全員にボーイの精神が宿ることになり、これは舞台上で次々と「役」を受け渡していくかのように演じられる。
 それは従来のリアリズム演劇であれば相当以上の演技力を要求されるところだが、ロロの舞台でそうはならないのはここでは「役」自体が着脱可能、受け渡し可能な「キャラ」としてきわめて記号的に演じられているからで、このような演技における方法論と芝居の内容が呼応していくところにロロという集団の最大の特徴があるのだ。