下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

サンプル『グッド・デス・バイブレーション考』Sample “Good Death Vibration”@KAAT

サンプル『グッド・デス・バイブレーション考』Sample “Good Death Vibration”@KAAT

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劇団から松井周の一人ユニットへと「変態」したサンプル、再始動

現代の「家族」「死」のあり方を問う現代版“楢山節考

現代〜近未来版楢山節考

生演奏により、語られていく物語。

閉ざされた地域に暮らす一つの家族。貧困家庭の六十五歳を過ぎた人間は、肉体を捨てることを強く望まれる社会。

元ポップスターの父と、介護と子育てに疲労する娘と孫が直面する現実とは?

別の集落からやってくる孫の嫁、隣人、謎の男が加わることで、家族の形が少しずつ変化していく。

彼らはどのように生きていくのか?


誰かと少しずつお互いの「変」を認めあう、というよりも触りあうという感覚で何かをつくっていきたい。それが一番楽しいことだし、たとえ苦しくても触りあった感覚を信じてつくっていきたい。それ以外の情報に流されたり、過剰に反応しすぎないように、手触りの感覚を大事にしよう、とサンプルの再始動を決めました。
グッド・デス(安楽死)という考え方は強力です。人類が一気にその方向に傾いていくとしたら、抵抗できないほどの力があるのではないでしょうか。
そんな世界においても、醜態をさらしたり、馬鹿みたいにヘラヘラしながらそんな世の中の流れに逆らわずとものまれない家族をスケッチしたいと思っています。
どうぞお楽しみに。

松井周

"グッド・デス"のためのノート
劇団から松井周の個人ユニットに生まれ変わった”サンプル”

サンプルのこれまでとこれから、

そして5月上演の新作『グッド・デス・バイブレーション考』を

読み解くインタビュー、コラム、対談のコーナーを特設ウェブサイト

に掲載。

ぜひご一読ください!

https://sample-good-death-note.tumblr.com/part3

【作・演出】
 松井周

【出演】
 戸川純 野津あおい 稲継美保 板橋駿谷 椎橋綾那 松井周

サンプルが劇団から松井周ひとりの個人プロデュースユニットに変貌して初めての公演。戸川純をメインキャストに招いたり、これまではサンプル公演では本人は俳優としては出演しなかったのが、今回は出演しているなどキャストの自由度が高まっていることは感じられるが、これまでも前回公演の山田百次ら劇団員以外から客演を招くことはしてきたし、今回の公演では客席から見る限りは大きな変化というのはそれほど感じられない。
 むしろ、辺境の地の共同体を描き出すといういかにも「ザ・松井周ワールド」という趣きである。とはいえ、ずいぶん昔のことにはなるのだけれどケラが劇団健康を解散し、ナイロン100℃を旗揚げしたときも最初の印象は「どこが違うの?」というものだったのだが、それ以降作風の多様性が格段に変化した前例もあるので、松井周あるいはサンプルがどのように変わっていくのかというのはもう少し待たないと分からないのかもしれない。
チェルフィッチュ以降、あるいはままごと(柴幸男)以降の若手演劇作家の作品が平田オリザの現代口語演劇(ダイアローグ)を離れて、身体表現やモノローグを主体とした様式に移行しているなかで、サンプル(松井周)は現代口語的な群像会話劇を基調とするという意味で、自らが依然俳優として所属している青年団の正当な後継者の趣きをそなえている。
 平田オリザは次回公演「日本文学盛衰史」では高橋源一郎の同名小説を原作とするなど、過去の文学、映画作品などをモチーフとすることが多いが、それはいくつかの作品で松井にも受け継がれていて、今回は深沢七郎の「楢山節考」を下敷きとして安楽死あるいは姥捨ての伝承をモチーフとしている。
閉ざされた村落に暮らす一つの家族。この世界では65歳を過ぎた老人は、山に運ばれて遺棄され安楽死させられることがひとつの掟のようになっており、その掟は地の果てのようなこの村の集落においても決して例外ではなかった。もうすぐその期日が迫った祖父のいるこの家に次の世代を生むことを望まれて孫である男の相手としてひとりの女がやってくることから、松井はこの物語をスタートさせる。
 以前、ポツドール三浦大輔を取り上げて京都のフリースペースの機関誌に執筆した劇評に「平田オリザの手法で松尾スズキ的な世界を描く」*1と三浦の劇世界を評して描いたが、今回の「グッド・デス・バイブレーション考」などを見ているとこうした表現は性的な表現に特化した感のある三浦より、より的確に松井周の劇世界に当てはまるのではないかと思った。
 この作品が面白いのは表題から言っても物語の中心に本来なるべきなのは戸川純演じる祖父(祖母?)の存在なのだが、それは物語の途中まではまるで副筋でもあるかのように物語の背後に退いている。代わりに登場するのは孫(板橋駿谷)と孫の嫁として外の集落から村にやってくる女(野津あおい)を巡る物語で、「姨捨」の主題からこの物語のメインモチーフは当然「死」であるべきなのに「性」「産む」というそれとは対蹠的な主題がそこここで登場する。というかこの物語では「生(性)」と「死」は単独のモチーフとして出てくることはあまりなくて、「生」があれば「死」、「死」があれば「生」といういわば1対の概念(表裏のようなもの)として出てくるのだということに途中で気がつく。
 例えば息子の嫁としてこの村に招かれた女は「かつて双子を身ごもったことのあることから多産・豊穣をこの村にもたらすものとして歓迎を受ける」(生の象徴)のだが、実はその双子というのも2人のうちの1人は死産。1対の「生」「死」をその身に担っている。さらに実はこの女は子供を産むことができない体であることが途中で分かるうえに、唯一の「生」の象徴であった息子の死が国家の研究施設の使者から知らされる。
 一方、それとは真逆に息子の母親(稲継美保)はかつて村に来た行きずりの男との間に子供が生まれたものの、その子供は処分していた(「死」の象徴)ことが明らかにされる。ところが実はその子供は処分を依頼した仲介者の手によって施設に売られて生き延びていた。使者として嫁の息子の死を知らせにきた男が、母親の長男で、双子の兄の死とともに自分がまだ生きてここにいるということが伝えられることになる。
『グッド・デス・バイブレーション考』という「楢山節考」を媒介として「安楽死」をモチーフとしているように見える。実はこうした一連の生と死の一対のイメージを通して松井が我々に伝えたいのは実は「死と再生」の物語ではないのか。家族は世間の慣習の通りに最終的に嫌がる老父(戸川純)を遺棄することになるのだが、ここで松井は観客に対しさほどの断りを入れることもなく、さりげなく物語に大きな変更を加えている。老父(老母)が捨てられる場所を「楢山節考」のように「山に捨てる」のではなくて、「大風(台風)の時に海に流す」というように変更していることだ。
 実はちょうど観劇した日のアフタートークのゲストが民俗学者赤坂憲雄がこのラストシーンを「補陀落渡海(ふだらくとかい )」だと言い切った。それに作者の松井も「そうかもしれません」と一応の同意をしているのだが、さらに「中上健次は好きでいろいろ読んでますから」などという謎の返答を付け加えている。赤坂は「補陀落渡海」について触れた際には井上靖の小説「補陀落渡海記」に言及したが、その際にことさら中上のことに触れたわけではなかった。それで氷解されたのは深沢七郎楢山節考」に基づいたように見える(もちろん、そのこと自体は事実である)この作品のモチーフの根底には中上健次の小説もあったのではないかということだ。松井は2016年には新国立劇場中上健次の小説「十九歳のジェイコブズ」を戯曲化(演出は松本雄吉)するなど、これまでにも中上健次との係わり合いはあったが、この「グッド・デス・バイブレーション考」にもいわば表の深沢七郎に対して、裏モチーフは中上健次なのかもしれない。そういう風に考えると辺境あるいは周縁の地とされたこの場所が中上が描くよりはより寓話的・SF的に見えるが、ひょっとしたらこれは中上の描くところの「路地」のような世界なのではないかと思われてくる。
 そこで重要になってくると思われるのは「補陀落渡海」である。補陀落渡海は、日本の中世に行われた、自発的な捨身を行って民衆を先導するという捨身行の一種だ。「補陀落」というのはサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳である。南方の彼方にある観音菩薩の住まう浄土のことで『華厳経』にはインドの南端にあるとされているが、観音信仰の流布とともに、チベットや中国にも想定されていた。チベットではラサ北西に建つ、
観音の化身ダライラマの宮殿をポタラ補陀落)宮と呼び、中国では舟山諸島の2つの島を補陀落としていた。
 日本でも南の海の果てに補陀落浄土はあるとされ、補陀落を目指し船出することを「補陀落渡海」といった。とはいえ実際に補陀落まで流れ着けるということはありえず、実際にはどこかで波にのまれ海の藻屑となり果てたと思われ、それゆえ捨身行の一種というわけだ。
 とはいえ山中への「姥捨て」とは違い、「補陀落渡海」には沖縄などの南島に流れ着いた僧侶が尊い「カミ」のようなものとして崇められたという伝説もあり、「死」だけではなく、「再生」へのイメージも付随している。松井はこうしたエピソードを挿入したような場面を組み入れながらも最終的には祖父と一緒に家族たちが海へと繰り出していく以降の場面を「夢の場」として処理している。
 それゆえ、ここにはもう新たな「生」はなく滅びへと向かうと言う運命は変えられないのだけれど、どことなくただ老人を山に置き去りにしたという「楢山節考」と比べれば明るい終わり方になってはいないか。実は中上健次には「補陀落」という短編小説がある。短編小説集「十七歳の地図」に収録されているというから、若いときに読んではいるはずなのだが、まったく内容を思い出せない。なにか関係があるのか確かめねばならないとは思うのだが……。いずれにせよ読み直してみなくてはいけないか。