下北沢通信

中西理の下北沢通信

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屋根裏ハイツ 番外演劇公演 B3F 私有地 シリーズ|加害について #部屋と演劇

屋根裏ハイツ 番外演劇公演 B3F 私有地 シリーズ|加害について#部屋と演劇

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 表現にできるだけ、余白を残して観客の側の想起に委ねる演劇というのが、屋根裏ハイツの目指すものようだ。そうした構えとしてはマレビトの会(松田正隆)と共通する意識はあるようだが、発話の調子や演技の際の俳優のあり方には明確な差違がある。例えばマレビトの会がセリフの発話を意図的に平板(いわゆる棒読み)のようにして、セリフの言語としての直接的なニュアンスをほとんど消してしまっているのに対し、屋根裏ハイツの演技は俳優の日常的な発話や身体のあり方と地続きのように振る舞う。ただ、これにより役と俳優の演技の間には一定以上の距離感が生じて、登場人物がどういう年齢の人でどういう性別の人なのかも観客の解釈に委ねられ、意図的にそのゆらぎが生じることさえも仕掛けられているのだ。
平田オリザが「東京ノート」のかつての家庭教師と教え子が再会する場面において、教え子の女性が「妊娠した」というセリフについてこれが本当のことなのか女性の嘘なのかを演技、演出の時点では確定しないで、演じるほうもどちらにも決めずに演技させるということを明かしていたが、屋根裏ハイツの場合はもっと極端に表現上のゆらぎを意図的に起こす。例えば施設に入ることになりそうな人物について、最初は老人なのかと思ってみていたのが、そのうちこの人は子供では疑いだす。さらにそのシーンを眺めているうちに何らかの病気か障害を持った人かもしれないとの可能性が脳裏に浮かび、シーンは結局どの可能性も残しながら、一意に解釈を決めることができないまま終わってしまう。そして、それは演出家、演者の確信犯としてそうなっているのであって、そこが屋根裏ハイツの最大の特色といえそうだ。実はその人物は男優が演じているため男性に見えるのではあるが、性別さえ確定はしていないのである。

作・演出 中村大地
出演
村岡佳奈 渡邉時生(以上、屋根裏ハイツ)
寺田凜(青年団


私有地について
私の物、所有、そういったことに興味がある。これは私の物と思える感覚。しばしば私たちは公共空間を私有地化する。飲食店にてお金を支払い、着いたテーブルの上に書き物や本などを広げて領土を確保する。あるいは電車の中、仲間内で大声で騒いでいるとき、当人たちは無意識であったとしてもそれは周囲から見ると「彼らの領地」のように思える。他者の踏み入れない領域。あるいは、その場を支配する権利を当人が持ち合わせている場所。公共的空間に一時的に生まれるものも含めて、私有地とはそういうものだと考える。
_土地や物に限らず、他者を“所有”することもある。たとえば、恋人や子供(あるいは別にその他の関係のことも考えられるが)、彼/彼女らが自分の意図しない行動をし苛立ったとする。この行為のもとにあるのは「自分の意図しない」と考えている感覚、すなわち「制御することのできるなにか」と他者を捉えている感覚ではないだろうか。制御できるもの、コントロール下におくことができるものと他者を捉えること。それもまた他者を所有する振る舞いの一端のように思う。ここに暴力(的な関係)が潜むことは想像に難くない。その感覚は私物ではないものにも向かう。理解できないこと、私の解釈の外にあること。そうしたものを私に見えるところから排除しようとすることで、私の領地を保とうとする。ふるまいは全く真逆のようで、実のところ相似形にあるのではないだろうか。
_演劇『私有地』は、加害の立場を想像することが必要なのでは、という思いでこれから出発する作品だ。電凸も、放火魔も、障害者の殺害もあるいはその他多くのことも、攻撃を受ける側ではなくて攻撃をする側の感覚を想像することから出発したい。当然それらは私の中に潜んでいて(あるいは表立っていて)、すべてを同列に扱うことはできないけれど、そのどこかに「所有」の考えがある気がする。そんな感覚を手がかりに出発してみたい。

シリーズ|加害について
加害の立場に立つことを想像する。そうなる可能性は常に私の中にある。私は加害の立場に立ち得るし、今までも既に立ってきた。そのことを想像する。
_アニメーションのスタジオに火を付けることや、福祉施設でたくさんの人々を殺める可能性のことを想像する。繰り返すが、そうなる可能性は私の中にある。可能性は可能性のままに留めなくてはならないし、そうなり得る私の身体とうまく付き合っていくことが重要だ。そう思ったのは、日々目にする情報の多くが、被害の目線から語られることの違和感からだ。
「なぜ起こったか」を個人の人格やキャラクターの問題に収斂させ、「彼/彼女は私ではない」と言ってのける言葉の危うさからだ。そうではない「彼/彼女は私であり得る」ことからはじめるほうが、よっぽど正気を保っていられるような気がする。
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そのために演劇でできることはなにかと考える。どうせやるからには数年かけて、シリーズ化していこうと思う。