下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

ムニ「カメラ・ラブズ・ミー!」(『回る顔』『真昼森を抜ける』)@こまばアゴラ劇場

ムニ「カメラ・ラブズ・ミー!」(『回る顔』『真昼森を抜ける』)@こまばアゴラ劇場

f:id:simokitazawa:20210819183911j:plain
ムニは青年団演出部所属の宮崎玲奈の率いる演劇ユニットである。一昨年1月に『つかの間の道』で彼女の作品を初めて見た際に下記のように評した。

青年団演出部にまたアンファンテリブル(恐るべき子供たち)が現れた*1。宮崎は明治大学を卒業したばかりの23歳。まだ若いが人物を描写していくその演出のタッチは極めて繊細で、巧みさに驚かされた。

そして、さらに作品については所属する青年団平田オリザとの比較において以下のように分析した。

会話自体は現代口語演劇であり、平田オリザの系譜にあると考えてもいいが、対象へのフォーカスの当て方はまったく違う。「東京ノート」で平田自身が自らの方法論をフェルメールになぞらえて、カメラオブスキュラの例えを出したように平田のそれは単一のレンズが切り取るフレームのような描写なのだ。
 対して、宮崎の視点の切り取り方は複数のカメラを組み合わせたようにより多視点的である。しかも実際に提示されるのは現実のうちの一部だけであり、「描く部分/描かない(で想像にゆだねる)部分」を作り、さらにそれぞれ時間j軸や空間(場所)が異なる場面をまるでレイヤー(層)を重ね合わせるように同時に提示していく。
 この作品の主題は「存在/不在」ではないかと思う。そして、その主題は「表現すること/表現しないこと」という宮崎の演劇の方法論にも重なり合っているように思えた。

ムニ「カメラ・ラブズ・ミー!」で宮崎はこれまで上演した作品の中から上演時間1時間程度の短編作品3本を再演した。「回真」「須磨」の2つのプログラムがあり、この日上演されたのは「回真」プログラム。『回る顔』『真昼森を抜ける』の2本が連続上演された。
 『回る顔』は予定され公演がコロナで中止となった。映像配信されたものは見たが、観客の前での劇場上演されるのは今回が初めてとなる。黒澤多生演じる男と新田佑梨演じる女が登場。故郷に帰るらしい女に男が付いて行き、列車や車で旅をするというロードムービー的な展開だが。描写はリアルなものとは言い難く、浄瑠璃芝居における「道行き」のような演劇的な仕掛けに近い。
 男はこの旅でゆるやかに「死者の世界」にいざなわれていく。危篤状態の女の父親が入院している病院に行く描写があるが、次の場面では病室で男は意識がないはずの女の父親と会話を交わす。実際にあったことというよりは「死者の世界」における死者との対話に近い。その後、二人は山奥にある川のほとりで何か正体の分からぬ物の怪のようなもの(けもの)とも出会う。ジブリ映画に出てくるトトロのようで正体が分からないが、これも「死者の世界」の象徴とみなすことができる。物の怪はかぶりものをかぶった俳優が演じており、観客の前に実際に姿を現しはするが何もしゃべらず、ただそこにいる。その沈黙に観客は様々な意味合いを投影することになっていく。
 一方、2本目の『真昼森を抜ける』は2021年せんがわ劇場演劇コンクールで初演されたものの再演だが、初演は見ることができず、今回が初見となった。こちらでは南風盛もえ(青年団)、藤家矢麻刀の二人が釣りをする老人と子供、新宿のバッティングセンターで出会う男女、壊れた自転車を引く夫婦などと異なる人物を次々と演じ分けていく。スケッチ風の短い場面がつながり構成されており、それぞれの時系列関係も判然としないが、場面場面のイメージにはどこかで通底したところがあり、そしてなによりも同じ俳優が演じることで完全にバラバラというわけではなく、ゆるやかながらもひとつながりの世界が提示されていく。
 実は今回の当日パンフのなかで宮崎は演劇においてやりたいことを提示しているがその内容が興味深い。
 内容は2つ。1つ目は「景色の想像について」である。ここで宮崎は「意識と声から『景色』の伝播は起こる。ディティールを細かく立ち上げることで、俳優が想像しようとしていることが、観客に伝播する度合いは高まる。(中略)同じものを見ていなくても、想像のボールが届き、響くことによって、私たちは同じ『今ここ』を共有することができる」と記している。つまり、演劇において決定的に重要なのはそこに実際に見えている風景ではなく、見えているもののフレームの外側、あるいは見えているものと二重重ねで、観客が想像力で浮かび上がらせる景色なのだという宣言だ。
 もうひとつは「声、その人としてありながら」という文章。ここで強調されているのは「役になりきるのではなく、その人としてありながら、キャラクターでもあることが私には重要だ」と役柄(キャラクター)と俳優の二重性の重要さを強調している。
 
 今回の2作品にもそのような作者の意思は具現化されている。作者コメントとそれに基づいて構築された実際の舞台を見た時に方法論的近親性を感じたのは松田正隆の率いるマレビトの会とそこから出てきた若手演劇作家である関田育子*2らの舞台であった。
 マレビトの会とムニの共通点はどちらも多くの場合俳優がなにもない舞台で観客の正面を向いて演技をすることで、その演技はそこで実際に行われていることをそのまま映しているわけではなく、観客の想像力が脳内によりリアルな表象を生み出すための一種のトリガーとして作用する。俳優が舞台の外側にある(と想像される)何かを凝視することでそこにある何かを観客に想像させる。『回る顔』では俳優は観客席側にある(と想定されている)川の向こう側に見えている何かを二人で凝視する場面があるが、先に書いたようにここで川の向こう側は死者の世界を象徴している。観客は想像力を喚起させる力により実際に提示された以上のビジョンを幻視することになるのだ。
 ただ、マレビトの会とムニの間にはおおきな差異もある。一番分かりやすい違いは演技において俳優がセリフに込めるニュアンスの違いだ。マレビトの会では俳優の発話は意図的に棒読みのような平板なアクセントで行われることが多い。これは意図的にセリフに込められた様々な感情などを夾雑物と考え排除することで、テキストが想像力を喚起するのにニュートラルに働くことを意図しているのではないかと想像させる。これに対してムニの俳優の演技には特に女優においてそれが顕著なのだが、セリフの「声」の持つそれ自体の力を突き詰めていくことで、セリフには直接テキストとしては書き込まれていない言外のニュアンスを演じる際の表情とともに提示していく。実はこうしたことを突き詰めることができているひとつの要因として 新田佑梨、南風盛もえ、そして今回は出ていないがもうひとつのプログラムに出演している石渡愛*3ら無隣館出身の青年団所属の若手女優の存在が大きいのではないかとも考えている。そういう意味ではもうひとつのプログラムで上演される『須磨浦旅行譚』で石渡愛と南風盛もえがどのような演技をしているのかに注目していきたい。

作・演出:宮崎玲奈


カメラが登場する過去作3作品を一挙上演します。作品の再演自体がはじめてのことなので、ムニのこれまでとこれからの接続点を楽しんでいただけたら嬉しいです。保存された「戯曲」を頼りに、今ここであることと、ここにあるまなざしのために上演します。ワクワクする作品になるようにがんばります。


『須磨浦旅行譚』
兵庫県須磨浦地区を旅行する、変容をテーマにした作品です。宮崎が2019年に大学卒業時に制作し、上演は明治大学校舎内のみでしか行われておりません。(上演時間60分を予定)

『回る顔』
意識をいかに演劇で描くことができるかを主軸に扱いながら、獣に出会ったり、突然別の場所に移動したり、海の上を歩いたりと、不思議な体験が複数起きる作品です。2020年に映像配信作品として制作。(上演時間60分を予定)

『真昼森を抜ける』
二人の俳優が老人、少年、夫婦など、複数のキャラクターを演じ、海、浄水場、新宿バッティングセンターなど複数の場所にも変容する作品です。2021年せんがわ劇場演劇コンクールで発表。(上演時間50分を予定)



ムニ

カンパニーメンバーを持たない形で 2017 年より活動。宮崎企画としても2020年より活動中。「虚構」と「リアル」との歪みに注目して、意識の流れ、演劇における虚構とリアルとの境界を探りながら創作を行う。近年の作品に宮崎企画『忘れる滝の家』、『真昼森を抜ける』で第11回せんがわ劇場演劇コンクール演出家賞。




出演

『須磨浦旅行譚』
石渡愛(青年団)、南風盛もえ(青年団)、藤家矢麻刀

『回る顔』*4
新田佑梨(青年団)、黒澤多生(青年団)、伊藤拓(青年団)、日向子(青年団

『真昼森を抜ける』
南風盛もえ(青年団)、藤家矢麻刀

スタッフ

舞台監督:黒澤多生(青年団
照明:緒方稔記(黒猿)
衣装:坊薗初菜(青年団)
制作:河野遥(ヌトミック)
芸術総監督:平田オリザ
技術協力:蜂巣もも(アゴラ企画)
制作協力:曽根千智(アゴラ企画)


simokitazawa.hatenablog.com
simokitazawa.hatenablog.com

*1:まだと書いたのは作風は違うが綾門優季のことが脳裏にあったからだ。

*2:simokitazawa.hatenablog.com

*3:石渡愛は今回の出演者のなかで唯一マレビトの会にも出演しているのだが、その時の演技のやり方は他のマレビトの会のレギュラー陣とは異なっており、今回の新田佑梨、南風盛もえの演技スタイルに近いものと感じられた。

*4:simokitazawa.hatenablog.com