下北沢通信

中西理の下北沢通信

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下北沢通信Jamci97年6月号 大人計画「愛の罰」

下北沢通信Jamci97年6月号 大人計画「愛の罰」

 松尾スズキの「愛の罰」(四月六 日、パナソニックグローブ座)を見 ながら、それとは全く対照的な芝居 のことを考えた。それは平田オリザ 作演出による「ソウル市民」である。 全く共通点のなさそうなこの二本の 芝居に「差別をする存在である人間」 を描いているという共通点と問題に 対する全く対極的なアプローチがあ り、それが日本現代演劇の表現の幅 を明らかにしているのではないかと 考えたからだ。
 80年代以降の日本文学と90年 代の日本演劇に共通項があるのでは という話を前号でしたのだが、そこ で挙げた「遠周りな表現で語られる 社会問題」「言葉で説明することの 不可能性」など8つの特色に最もよ く当てはまるのは平田オリザの芝居 ではないかと思う。その裏側には過 剰性を嫌う現代の都市生活者に共通 する生活感覚があり、平田の芝居で は静的な関係性を破壊する全ての過 剰性は周到に隠ぺいされているが、 それは現代日本人の他者との関係の とりかたを反映しているともいえる。
 それに対して松尾はそうした現代 的な関係の持ち方にとことん背を向 けて自分の持つ弱さゆえにより弱い 他人を差別することではけぐちを求 めざるをえないという人間の持つど うしようもない過剰性をとことん芝 居の中で突き詰めていく。
 「ファンキー!」について松尾の 世界は「欲望を持つ人間の悲劇」と 書いたが(じゃむちvol.25)、この 「愛の罰」でもその被差別的な境遇 ゆえ、満たされぬ欲望(愛)を持つ 登場人物たちは次々と自滅していく。
 舞台は朝鮮半島が遠くに見える九 州の離島である因南(インナミ)島 である。松尾は好んで都会ではなく たいていは共同体による支配の強い 田舎の町を舞台とする。この芝居で 描かれる離島の村もその典型といえ る。
 松尾演じるチョロは尻尾がある家 系ゆえに村人たちにさげすまれてい る。足が不自由なキヨシ(山本密)、 名前のためからかわれる陳保太(宮 藤官九郎)、朝鮮人のキム・カンヨ ン(正名僕蔵)。ここでも主要な人 物は精神的、肉体的な欠陥をかかえ るため被差別的な境遇にあり、その 愛は満たされることがないが、心に 欲望をかかえこみながら、副題のよ うに「生まれつきならしかたない」 と考えてこうした状況を受け入れて 暮らしている。
 チョロは妊娠した自分の妹と結婚 し、キム・ヨンナンやキヨシ、警官 の学は陳保が連れてきたフィリピー ナと金をだして結婚することで、自 分の欲望の代償とし、この状況を変 えようとする。  だが、学がフィリピーナをエイズ と疑って誤って殺してしまったこと から、それを隠ぺいするため村人み なが共謀して彼女らを皆殺しにしよ うとするうちに村のおかれた状況は 雪だるま的に悪化し、あたかもレミ ングのごとく破滅への道をころげ落 ちていくのである。
 陳保がたつ子に愛を打ち明けるこ とで、文字通りに海で溺れ死ぬのを 手始めに死体が生き返り、生きたも のを襲う「シニアルキ」が現れ、村 人たちは次々と殺されていく。  チョロはこうした極限状態の中で 自分の差別していたチョロから血液 を輸血され助けられたことが、きっ かけで完全に正気を失ってしまった 愛(池津祥子)から、父親として慕 われることになるのだが「どうして こんなに情けないんだろう。九九% 思惑どおりなのに」と嘆かざるえな いのだ。
 いじめや差別などという構造的な 問題についてはそうした行為自体を 描いても問題を描いたことにはなら ない。例えば、平田の「ソウル市民」 の場合、朝鮮人への差別があったと いうことを正面から描写するのでな く、善意の人たちの日常の言動のな かに無意識にやどる差別の構造を描 いていく。
 それに対し、「愛の罰」は差別的 な行為や人間の愚かさを際限なく繰 り返し、最後にその共同体自体が自 滅していくのを描くことで、人間の 持つおろかさを壮大なまでのスケー ルで表現している。皆が「シニアル キ」になって、滅亡することでのみ 愛(欲望)は成就するという皮肉。 うにたもみいちが本誌昨年12月号 で「マシーン日記」を取り上げ、松 尾をニーチェ的な悲劇の実践者と分 析しているが、「愛の罰」は松尾こ そニーチェそして禁忌の侵犯にエロ スを見たバタイユに代表される呪わ れた思想家の直系の弟子と見ること ができるかもしれない。
 だからこそ、あえて予言めいたこ とをいえば、それがいいか悪いかは 別にして平田らフッサール、レビ= ストロースの弟子たちが、主流をな していくであろう現代演劇界のなか で松尾の存在は貴重だと思うのであ る。