下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンスなど様々な文化的事象を批評するサイト。

劇団★新感線「阿修羅城の瞳」(旧下北沢通信HPから復刻)

劇団★新感線「阿修羅城の瞳


 「阿修羅城の瞳」(2000年8月観劇)は87年に初演された作品の再演で、劇団★新感線の芝居で1つの系譜を形成する「いのうえ歌舞伎」シリーズに属する作品である。パンフにあるいのうえひでのり自身の言葉を引用すれば「いのうえ歌舞伎というのは、ケレンや見得などの歌舞伎的フレーバーを新感線流に取り込んだチャンバラ活劇」ということになる。もちろん、この言葉は「阿修羅城の瞳」にもそのまま当てはまるのであるが、「阿修羅城の瞳」が他の同系譜の作品に比べて、特筆すべきなのは単にフレーバーというだけではなく、芝居の中に登場人物としての鶴屋南北を媒介として、南北による歌舞伎の名作「四谷怪談」を縦横に引用。その劇構造を換骨奪胎して「四谷怪談」とはまた違った物語に消化させていった中島かずきの作劇術における見立ての趣向が面白いのである。
 ビジュアルを重視した演出と勧善懲悪のストーリー、スターシステムの芝居作り、さらに下座音楽としてのロック音楽とことさら「いのうえ歌舞伎」を持ちださなくてもエンターテインメントとしての新感線が歌舞伎との類縁性を持った延長線上で芝居作りをしているのは明らかなのだが、「阿修羅城の瞳」がその中でも特別なのはその芝居に鶴屋南北をからませていることであろう。


「こうした物の化どもと人間たちとが、シノギをけずりあっている世界、つまり“もののけぶり”と“もものふぶり”とのプロレスリングの世界なのだ。大江戸版黙示録の世界といってもいい。鬼のいれば夜叉もいる。奇形もいれば、半陰陽もいる。英雄もいれば凡夫もいる。乞食もいれば、上臈もいる。幽霊もいれば化物もいる。佞人もいれば聖者もいる。羅刹もいれば菩薩もいる。美男美女もいれば悪人悪女もいる。(中略)彼らは、いずれもが、ほとんどこの世のものならぬ相貌を帯ながら群集し、ひしめきあっている。そして彼らは、おのがじし擬態につぐ擬態、変相につぐ変相をくりかえし、その手腕のほどを誇示しあって乱舞し、跳梁している。怪物集団万国博のお祭り広場――それが南北の舞台である」(「百鬼夜行の楽園 鶴屋南北の世界」落合清彦著)

 いささか長々とした引用となってしまったが、鶴屋南北の舞台について書かれた上記の文章をあえてここで取り上げたのはほかでもない。笑いにまぶすことで目立たなくはなってはいるがこうした要素はそのまま劇団★新感線におけるいのうえひでのり中島かずきの作り上げる世界を書いたと考えてもいいほど南北と新感線には類縁性がはっきりと感じられるからだ。

 冒頭に見立ての面白さと書いたが、今回の再演において、芝居を一層面白いものとしているのはキャスティングの妙であろう。これはあくまで偶然なのであろうが、今回、主役の市川染五郎は94年(シアターコクーン)、92年(歌舞伎座)と2度の「東海道四谷怪談」の舞台を経験している。これは若手役者としては珍しいことで、というのは演目として有名な割には「四谷怪談」という芝居は歌舞伎で上演されることは意外と少なく、「阿修羅城の瞳」が初演された87年以降では5回しか上演されていないからである。もちろん、出演した際に染五郎が演じたのはお梅と直助で、伊右衛門幸四郎橋之助がそれぞれ演じている。だから、この芝居の中でさわりとして語る染五郎伊右衛門役は初役(?)には変わりないが、今回の芝居とほぼ同じ時間に歌舞伎座で上演しているキャストは6年前のコクーンにほぼ準じたものであるから、染五郎がこの芝居に出演していなければ今回、八十助がつとめた直助を再び演じていた可能性はかなりあるといえそうなのである。

 さらに今回の舞台で興趣が増しているのは花組芝居加納幸和が出演して、鶴屋南北を演じていることで、加納自身も花組で「四谷怪談」を幾度も上演しており、この芝居とは浅からぬ縁があるのはもちろんだが、座付き作家南北とその一座に役者としてみをやつしている主人公、病葉出門とによる劇中劇という趣向で、「四谷怪談」(記憶がさだかではないが蛇山庵室の場)のさわりを演じてみせてくれるのが嬉しい。というのは、こういうことでもなければ実現不可能な夢の競演だからだ。

 ここのところなどもっと見ていたいのにと思わせて、ほんの少しだけ見せるというところにいのうえの美学が垣間見える気もするのだが、こういう本編のストーリーとは離れた楽屋落ち的な楽しみというのも南北の当時の歌舞伎の魅力だったらしい。

 この他にもこの芝居ではあちらこちらに「四谷怪談」からの台詞の引用が鏤められている。染五郎が花道から去る場面での「首がとんでも動いてみせるワ」というのは伊右衛門の決め台詞としてよく知られるものだ。

 こういう趣向としての引用だけでなく、いわば本歌取りのように本編にも関係してくるものには「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢わんとぞ思う」の引用がある。これはやはり、蛇山庵室の場の冒頭の伊右衛門の夢の場面に登場する岩と伊右衛門のやりとりに出てくるもので(これは歌舞伎座ではシーンがカットされていて残念ながらでてこない)、これは最初、浅野内匠頭の辞世の句と取り違えるというようなギャグとして登場するのだけれど、最後には出門と闇のつばき(富田靖子)をつなぐ重要なキーワードとしても再度登場することになる。この歌自体が百人一首にある歌を南北がいわと伊右衛門のやりとりに見立てとして取り込んだものであるから、 ここでは中島かずきがそれをまた引きするという重層的な引用の構造になっている。キーワードとしてこの和歌を使っていることや出門がたびたび伊右衛門の台詞を語ることからはっきりと分かるのは南北を登場させたり、劇中劇として南北の芝居を見せるというのにとどまらずに「四谷怪談」と「阿修羅城の瞳」がそれよりも密接な関係にあるのはここで中島は出門/闇のつばきの関係を「四谷怪談」の伊右衛門/お岩の関係に見立てていることが窺えるからだ。

 もちろん、それは直接的な形を取るわけではなく、関係は一見、原形をとどめぬほどに改変され、操作を受けてはいる。それでも、「阿修羅城の瞳」に「四谷怪談」の影を探すことはそれほど難しくはないのである。そのひとつが物語の進行にともなうヒロインの変容(お岩は幽霊に、つばきは阿修羅に)。物語において1、ヒロインは人間を超えたものに変容する 2、死によってしか達成されぬ愛の成就(岩は伊右衛門を呪い殺す、出門もつばきを殺そうとする)。

 3、両者に共通する鏡のモチーフ。お岩は鏡で自らの醜い姿を見て悶死するが安倍晴明のあやつる破魔の鏡(名前は違ったかも)が鬼に威力を発揮するのは「鬼が自らの醜さを見て悶死するから」であった。

 4、髪の関連するモチーフ。「四谷」お岩の抜け落ちる髪、遺品となる櫛。「阿修羅城」さかしまの城から下りてくる髪、つばきのカンザシ。

 こうしてみると両者の間にはイメージの上で様々な照応関係が存在することが窺えるであろう。もっとも、人物造形の面からいえば出門が心に暗闇をかかえながらも歌舞伎でいえばあくまで立ち役的な2枚目の範疇におさまるのに対して、民谷伊右衛門は色悪の代表であるという違いはある。「阿修羅城の瞳」においては古田新太が演じた安倍邪空の性格の方に典型的な色悪的人物像は映されているといえるかもしれない。

 このあたりは鶴屋南北中島かずきとの作家的な資質の違いに帰することもできそうだが、ここで考えなければならないのはこの芝居において、出門と邪空はいずれも東北の飢饉の中で一緒にいるのを拾われた子どもで、安倍晴明はこの2人を含め鬼御門の全員に蠱毒を仕掛けたということである。出門と邪空は背中合わせの鏡のような関係にあるともいえるわけだから、表面上は善と悪という鏡像関係にあるもののそれはある意味双生児的な存在で、それゆえ必然的に2人で1人といっていいからである。それゆえ、染五郎の演技ではそこまでは窺えなかったが、出門は邪空を倒した時、「鬼殺しの鬼」として邪空の存在をその内面に抱え込んだともいえる。物語の設定上、蠱毒の壷にあたる存在がなになのかは描かれていないので、はっきりそうだとはいえないのだが、阿修羅と相打ちだったかに思われた出門は生き残ったので、壷を世界に御するならば生き残った出門は鬼や阿修羅さえ超えたとんでもない存在になっているとも考えられるが、これはどうなのだろうか。

日記風雑記帳
 新感線レビューでは小難しいことを書きすぎたので、今日は役者のことを少し。新感線がスターシステムというのは以前から書いてきたのだけれどその意味では今回は客演で主演にすえた市川染五郎が立ち役としてのカッコイイところを十分に発揮していたのでそれだけで成功というところじゃないでしょうか。それ以外のわき役では桜姫の森奈みはると笑死の新谷真弓が好演。それにしても新谷は客演とはいってもキャリアからいってもっとちょい役なのかと思っていたら、冒頭の登場シーンからして印象的でいい味を引きだしてもらっていたと思う。森奈は「西遊記」から2度目の登場だが、前回の千年人参女王から一変して今回は能天気なお姫さまの役だが、うまくはまっていて脱帽。この人は宝塚出身ということだが、新感線と水が合ってるようだ。

 江波杏子加納幸和も持ち味の生かされたキャスティング。特に加納は様々な語りの技術をこれでもかという形で見せてくれ、これだけ伸び伸びと演じているのは珍しいのではないかと思った。

 さて、問題は富田靖子である。「アイコ16歳」以来の彼女のファンを自認する私ではあるが、今回はちょっと厳しかった。それは第1には頑張りはみせていても彼女が舞台女優としての経験が限定されていて、語りの芝居をやるに際して、技術が致命的に欠けているという問題がある。というのは語りの演劇においては会話劇とは異なり、台詞がある種の様式性を担うことが必要で、それを歌舞伎というフィールドがある染五郎加納幸和は出来ても、あるいは声優でもある新谷真弓や宝塚出身の森奈みはる(この芝居ではそういうシーンはないけれど)はできても、映画やテレビで基本的に等身大の人間の会話劇しか演じたことのない富田には決定的に経験が欠けているからである。

 様式的な質感で台詞が持ちこたえられないとどうしてもその台詞は平板に感じられてしまう。確かに富田はある程度は「語りの演劇」の系譜に含まれるNODA MAPには出演した経験はあるのだが「赤鬼」でも「パンドラの鐘」でも残念ながら彼女が受け持っていたのは基本的に会話劇的な文脈にあたる部分なのである。

 さらにこの芝居においては、彼女が演じた闇のつばきという役柄にはそれ以上の難しさがある。というのはこの人物は最初、等身大の人間として登場しながら、物語の後半で突如として普通の人間を超えた巨大な人物に変容するからである。

 この芝居を一緒に見に行った友人が富田靖子の役柄がもの足りなかった。それは本来あるべき姿としての阿修羅のイメージを玉三郎や美加理が演じる「天守物語」の富姫のようなイメージで捉えていたからだというのを聞いて実は腑に落ちることがあった。というのは本来、阿修羅に変容した後の闇のつばき(=阿修羅)はその存在からして富姫みたいなものといってもいいのだけれど、たとえばここで例にだした玉三郎や美加理に前段のような等身大の娘が演じられるかというとまあ歌舞伎という様式の世界では玉三郎も可能かもしれないが、実際には難しいのである。

 逆に前半のつばきを魅力的に演じられる女優はいても大抵はそのタイプの女優は後半は無理なのだ。松尾スズキが「キレイ!」でやったように前半と後半を分けてしまいという演出もあるだろうが、それもこの芝居の変容のテーマからして面白くないとすればこれは限りなく不可能に近いことを女優に求めていることになる。

 それができるかもしれない女優というのは富田靖子が無理だったことを考えればけっこう厳しいものがあって、新感線だったら羽野晶紀だったらどうだとうかと思わないでもないが「キル」の時のような渾身の演技ならひょっとしたらと思うけど、後半にやや不安が残る。高田聖子はおそらく無理だろう。もちろん、これは女優としての資質の違いを言ってるのであって、羽野の方が富田、高田よりいい女優だといっているのじゃないから間違えないように。

 その他では今となっては前半はかなり苦しい気もするけど毬谷友子だったら成立するかもしれないという程度である。最後の最後にはそういう面を少しは見せる必要はあるのだれど、いくら強くても染五郎の演じる出門は基本的には人間であって、「人間を超えたものじゃない」ので役をキャッチアップする意味では染五郎の方が富田靖子よりは有利な立場にあるわけだ。もっとも、この役柄でも途中まではいいとしても最後の阿修羅を殺すシーン(つまり、神(鬼)と同等なものに登りつめるところ)では一瞬とはいえ、そうした凄みや巨大さを見せなくてはならないので、そこのところからいえば染五郎もそこまではみせきれてないという嫌いもある。

 この芝居に出演している役者でもっともそういう資質を持った俳優は古田新太なのでその意味では古田としてはこの芝居の構造の中ではちょっとそういうところの見せ所がないという感じもある。加納幸和は等身大の人間を超えた妄念というか別のところでそういう部分を見せつけてはいるけれど(笑い)。