下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

映画「夏の砂の上」(松田正隆原作、玉田真也演出)@シアタス調布

映画「夏の砂の上」(松田正隆原作、玉田真也演出)@シアタス調布

映画「夏の砂の上」松田正隆原作、玉田真也演出)を鑑賞。松田正隆の戯曲作品を玉田真也が映画化。「夏の砂の上」は青年団プロデュースとして平田オリザ演出により初演(1998年)。玉田自身も2022年に演劇として演出上演している*1
 青年団初演の舞台を青年団演出部出身の玉田真也が映画化するというのは自然な流れのようにも思えるけれども、舞台の初演と映画には25年以上の時間差(タイムラグ)があり、その初演を30代後半の玉田は直接は知らなかったのではないかと思えるけれど、私のようにこの作品の初演時から松田、平田作品を見続けている目には今になって次の世代の作家である玉田が新たな担い手となって松田正隆ワールドを映画として具現化してくれたことにはどこか運命的なものさえ感じてしまった。

 長崎では1982年(昭和57年)夏に長崎大水害と呼ばれる豪雨による災害があり、「夏の砂の上」はそれを過去の背景とした物語だ。坂の上の家に住む長男のもとに娘を連れた妹が訪ねてくる。娘と二人で(おそらく東京で)暮らしていたが、博多でやる店(スナック?)を手伝うことになったので、娘をしばらく預かってくれというのだ。その日はたまたま男の妻が息子の位牌(いはい)を取りにやってきていたのだが、二人は別居していて離婚はしていないものの関係はすでに破綻していることが分かってくる。そして、その理由ははっきりとは示されていないが、水害の時の自己で当時4歳だった息子が流されてしまい、目を離したすきになんでそんなことになったのかと互いに自分をそして時には相手を責め、それが夫婦の関係崩壊の引き金になったのではないかということが次第に浮かび上がってくる。

 映画「夏の砂の上」がいいのは「隠蔽された死」とその表出という初期の松田作品に共通するモチーフを丁寧に紐解きながらも、室内での一場固定の会話劇として描かれた原作戯曲を外に連れ出し、坂の上にある家から視た長崎の姿を俯瞰で映し出したような「映画ならでは」の表現に移し替えることに成功していたことだ。
 過去の松田作品の映画化では黒木和雄監督による「紙屋悦子の青春」は素晴らしい作品ではあったけれどあくまで舞台をできるだけ忠実に映像化することにとどまり、映画オリジナルの「美しい夏キリシマ」(黒木和雄監督)には及ばない気がしていたが、「夏の砂の上」には平田オリザによる舞台初演や玉田自身の演出した演劇版を超えて映画オリジナルの素晴らしさに溢れた作品となっていたのではないか。

www.youtube.com

www.youtube.com

 作品には長崎の狭くて急な坂道を歩いて上り下りして移動するカタギリジョー演じる兄の場面が随所に挟み込まれており、それが映画世界の基調低音のようなイメージを構成している。そこが舞台版との大きな違いであり、演劇は「想像の芸術」であるとはいえ、「夏」「砂」「上」のイメージを媒介するようなシーンの数々は演劇だけを見ていた時には及ばない具体像を現前に示してくれた。松田正隆作品と故郷長崎は分かちがたい関係にあることは頭の中では理解していたように考えていたが、映画「夏の砂の上」はそれを大林宣彦監督の描く、尾道と同じように鮮やかに示してくれたように思わされた。
 黒木和雄監督と松田正隆のコンビは名タッグではあったけれども、次回作の構想が進行中に監督の急逝で終わりを迎えた。映画としては1作品を製作したにのみだが、玉田・松田コンビも大きな可能性を孕んでいるのではないか。
 とりあえずこの組み合わせでまずは舞台で「月の岬」や「坂の上の家」「海と日傘」の上演をぜひ見たいし、それを映像化した作品も見たいと思ったのである。

www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com