下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

東京演劇アンサンブル「トゥランドット姫  あるいは 嘘のウワヌリ大会議」@ブレヒトの芝居小屋

東京演劇アンサンブル「トゥランドット姫  あるいは 嘘のウワヌリ大会議」@ブレヒトの芝居小屋

作 ベルトルト・ブレヒト
訳・ドラマトゥルク 黒田容子
演出 公家義徳

歌・作曲  多良間通朗
音 響  島猛
照 明  真壁知恵子
衣 裳  稲村朋子
映像アドバイザー・撮影 飯名尚人
制 作  小森明子・太田昭

■キャスト
トゥランドット姫      正木ひかり
皇帝            永野愛
太后           志賀澤子
ヤウ・イェル        三木元太
総理大臣          竹口範顕
宮廷学者フィー・イェイ   篠原祐哉
アー・シャー・ゼン(農夫) 伊藤 克
エー・フェー(彼の孫)   山﨑智子
ゴーゲー・ゴーグ(ギャング) 和田響き
マー・ゴーグ(彼の母)   原口久美子
浅井純彦
雨宮大夢
大橋隆一郎
小田勇輔
上條珠理
坂本勇樹
仙石貴久江
永濱渉
奈須弘子
町田聡子
真野季節
洪美玉

チケットの申し込み

2018年9月7日(金)~17(祝)

開 演 7金 8土 9日 10月 11火 12水 13木 14金 15土 16日 17祝
14:00 〇 〇 休 〇 〇 〇
19:00 〇 演 ★ ★ 〇 〇

ブレヒトの芝居小屋

ブレヒトの 「トゥランドット姫  あるいは 嘘のウワヌリ大会議」はプッチーニのオペラ「 トゥーランドット」のパロディーといっていい作品である。トゥーランドット姫への求婚譚という原作の筋立ては残しながらも主役格のダッタン国の王子カラフは登場しない。
 代わりに求婚者として学者(トゥイ)が多数登場し、次々と処刑されてしまう。役人(学者)らが政権への忖度で腐敗したワイマール共和国の状況を中国と重ね合わせて描いたということだが、特に大きく戯曲に書かれたセリフを変更することはなくても、観客の大部分はこれをそのまま安部政権下での政治状況と重ねて見てしまう事は必定であろう。
演出の公家義徳によれば「非常に珍しい演目であり、日本では過去に一度か二度は上演されたこともあったようだが、よく分からない」という。上演があまりされない理由のひとつには戯曲の指定では70人近い出演者が必要であること。それを公家は仮面劇として演出、同じ俳優がいくつもの役柄を兼ねて演じることで、(それでもかなり多いが)出演者22人で上演した。ただ、人数というだけではなく、この仮面には王や学者(トゥイ)や政府の役人たち、群集まで個別の存在と見えて実は入れ替え可能な匿名的人物にすぎないというような象徴的な意味合いを持たせているのではないかと思った。
 興味深いのはそういう中でトゥランドット姫(正木ひかり)、やがて独裁者へと上りつめていくギャングのゴーゲー・ゴーグ(和田響き)、農夫のアー・シャー・ゼン(伊藤克)とその孫(山﨑智子)だけは素顔で演じられていることだ。
 ここで不思議だったのはゴーゲー・ゴーグという人の人物造形。ブレヒトは「アルトゥロ・ウイの興隆」では、ヒトラーナチスがあらゆる手段を使い独裁者としての地位を確立していく過程を、シカゴのギャングの世界に置き換えて描いているので、ある意味ここでも同工異曲の趣向が使われているともいえそうだが、一方でそういう比喩的な趣向だけではなく、ギャングと言う存在に魅力を感じているのではないか。
 考えてみれば「三文オペラ」の主人公であるメッキー・メッサー(マック・ザ・ナイフ)も貧民街の顔役であるギャングであった。
  「トゥランドット姫  あるいは 嘘のウワヌリ大会議」の表題の通りにこの作品での最大の揶揄の対象は政府におもねる学者(トゥイ)だ。さらにトゥランドット姫も軽薄そのものという風に描かれている。
 それに対し、ギャングのゴーゲー・ゴーグはこちらもいずれは独裁者となる危険な存在と描かれているため肯定されているわけではないが、学者とは対比的に描かれている。旧権力を打倒していく重要な役割が振り当てられていることは間違いない。
 原作でトゥーランドット姫に求婚するのはダッタン国の王子カラフ。父が政争に敗れ国を追われたとはいえ、もともとは王族の血を引く存在なのだ。それに対してギャングのゴーゲー・ゴーグは母親が財産家とはいえ、明らかに支配者階級とはいえない成り上がりもの。それゆえ、この作品は原作とは異なり、階級闘争の様相を含んでいる。
 だが、そうだとすればさらに重要なのは農民であるアー・シャー・ゼン(伊藤克)とのその孫と言うことになるかもしれない。
  舞台を中国にしているのも「 トゥーランドット」の原作そのものがそうだからでもあるが、姿を見せない革命の指導者が「カイホー」と呼ばれているのも人民解放軍というか、中国共産党の影を感じざるをえない。とはいえ、ブレヒトはそれにさえ肩入れするわけでもないようだ。
 あえていえば綿花を育てていた農夫だったのが、学識階級に憧れ、都会に出てきた農民であるゼンにその共感は寄せられているように感じる。とはいえ、実際はゼンには世界に対して何の力もなく、呆然と見ているだけで全くの無力なのだ。ただ、それは当時(1953年)のブレヒトの心情そのものの反映なのかもしれない。
 
 
 

吉田寛 × 土居伸彰 × 東浩紀 「ゲーム的リアリズムとアニメーション」@ゲンロンカフェ

吉田寛 × 土居伸彰 × 東浩紀ゲーム的リアリズムとアニメーション」@ゲンロンカフェ

『ゲンロン8』に論考「メタゲーム的リアリズム」を寄せた立命館大学吉田寛さん、『ゲンロン9』にアニメーションとインディ・ゲームに関する論考を掲載予定の土居伸彰さん(アニメーション研究・評論・プロデュース/ニューディアー代表/新千歳空港国際アニメーション映画祭フェスティバル・ディレクター)をお招きし、東浩紀との鼎談を開催。
吉田さんは論文で、自己批評の果てに登場した「ゲームであることを自ら否定するゲーム」が、私たちをとりまく「ゲームのような現実」を塗り替えつつあるという議論を展開。他方で土居さんの論文は、アニメーション作家がインディ・ゲームに接近する理由を、ゲームが「別種のリアリティ」を「追体験」させることに長けていると喝破しています。21世紀の「現実」の特徴がゲームをモデルとすることでどのように分析できるのか、ゲーム研究とアニメ研究の両面から迫ります。
東浩紀が物語分析の延長に「ゲーム的リアリズム」を唱えてから11年。表象文化論の最先端の知見を踏まえた、ゲーム批評の新しい可能性を議論します。文芸批評、映画批評などに関心のあるひとも必見です!
──『ゲンロン8 ゲームの時代』刊行記念イベント #2
土居氏からの論点

▶「追体験
=異質な他者の経験を芸術鑑賞を通じて自らのものとしていきること、『個人的なハーモニー』参照
→ウォーキング・シミュレーターなどのインディ・ゲームでいかに理想的に発揮されるのか

▶「原形質性」
→ドット絵など抽象化された(写実的ではない)インディ・ゲームのビジュアルがもつ原形質性

▶「重なりながら離れている」
→ゲンロン8の吉田さんの論考における「重なりながら離れている」という話
→『マザー』や『アンダーテール』といったRPGにおけるプレイヤーの位置について考えるのに有益では。

▶「触視的平面」
→東さんのゲンロンβにおける映画からゲーム、視覚的平面から触視的平面という話
→『君の名は。』はきわめて触視的平面的な作品。もしかしたらノルシュテインの作品も。
→粘土の話は、アニメーションの新しいモード(山田尚子ウェス・アンダーソン、その先駆者としての押井守)とつながる。
→湯浅さんの近作もそういうモード。リアリティを自分で作る。

吉田氏からの論点

▶「反復」
→(デジタル、アナログを問わず)ゲームの本質は「反復」にある。
ゲーム的リアリズムも、いわゆる「キャラ」の問題も、「メタ化」の現象も、要は「反復」に起因するのでは。
→ゲームプレイは「似て非なるものの反復」。誰も「同一の経験」を共有できないが、みな「同一のゲーム」について了解し、語っているつもりになっている。
→しかしこれはゲームだけの話か?
→土居さんの「追体験」との関係
ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」との関係

▶「ゲーム批評/研究の困難」
→ゲーム研究の壁:分析対象の記述やドキュメンテーションが困難。体験共有ができない(反復の問題)。
→たとえばゲーム研究の教室では、その場で皆でプレイして考察・分析することができない。
→「個人化」された文化としてのゲーム(インタラクティブの別側面)は、 批評/研究を困難にする。
→これもいまや映像メディア一般の特徴では?

▶「ゲーム批評/研究の価値」
→ゲームというメディアに固有なものはなにか?
→最初は視覚面に注目し、その後ルールや物語の側面に。しかしそんな研究は必要か?
ゲーム批評/研究はなにが求められているのか?
→逆に、批評/研究のなかでゲームはどういう存在なのか?

▶「触視的平面」
→コンピュータゲームのデザインがコンピュータインターフェイスGUI)のデザインに応用された
→D・A・ノーマン、クリス・クロフォード、ブレンダ・ローレルなどの研究
→このことを押さえたうえで、「触視的平面」の問題を発展させるとどうなるか?


ウェス・アンダーソン最新作『犬ヶ島』冒頭3分映像!

ウォーキングシミュレーター【NOSTALGIC TRAIN】

ゲンロン8 ゲームの時代

ゲンロン8 ゲームの時代

 最新のアニメとゲームとゲーム的リアリズムについての鼎談だが、アニメとゲームといっても取り上げるのはゲームでは「ノンゲーム(ゲームであることを自ら否定するゲーム)などインディ・ゲームの世界、アニメも新海誠などへの否定的言及はあったものの個人制作アニメのことが中心。問題群としては興味深いこともあったが、通常の人気ゲーム、アニメへの言及はほとんどなかった。

水素74%「ロマン」(2回目)@こまばアゴラ劇場

水素74%「ロマン」(2回目)@こまばアゴラ劇場

作・演出:田川啓介


結婚について考えています。
なにも頑張らないで、自然に結婚できるのならよいのですが、今は結婚するのが難しい時代らしく、すごく頑張って、積極的に行動していかないと叶わないようです。 そこまでして結婚しなくてはならないのか、とも思いますが、人はひとりでは生きていけないと言うし、生涯の伴侶的な人がほしいという気持ちもわかります。そこそこいっしょにいてくれそうな人を乗り換え続けるのもしんどいし、同じ人がずっといてくれるのが好ましいですよね。 まあ、離婚する場合もありますし、確実にずっといっしょにいてくれるわけではないですが、、、。
生涯の伴侶的な人を得るためには、結婚するくらいしか方法が見つからない、というのは不自由だと思います。もっと色々方法があればいいのに。
例えば、同性の友だちとかがいっしょにいてくれて、友だちと生涯を共にするとかそういうのが結婚くらいポピュラーになればいいなあと思ったり。そういう、他の選択肢も選べるようになればなあ、と。
今回は、生涯の伴侶的な人を得るために、今はポピュラーじゃない、自分なりの方法をとろうとする人たちの姿を描こうと思っております。

水素74%
2010年10月に主宰の田川啓介が旗揚げ。劇団員を持たないプロデュースユニットの形式を取る。
第1回公演「謎の球体X」がMITAKA NEXT SELECTION 12thに選出される。
自分の持っている尺度こそ全ての人間に共通する尺度だと思い込み、他人にも自分の考えで生きさせようとする自分勝手な登場人物たちとその関係を描く。

出演

浅井浩介 折原アキラ(青年団) 島田桃依(青年団) 兵藤公美(青年団)日高ボブ美(□字ック) 前原瑞樹(青年団) 用松亮 安川まり

スタッフ

舞台美術:袴田長武 音響:池田野歩 照明:山口久隆 
衣装:正金彩(青年団) 舞台監督:大地洋一
制作:水素74%

Kawai Project 『お気に召すまま』@シタートラム

Kawai Project 『お気に召すまま』@シアタートラム

作:ウィリアム・シェイクスピア
訳:演出:河合祥一郎
出演:太田緑ロランス、玉置玲央、釆澤靖起、小田豊、鳥山昌克、山崎薫、三原玄也、遠山悠介、岸田茜、峰崎亮介、荒巻まりの、玲央バルトナー、Lutherヒロシ市村、後藤浩明(楽士)、川上由美(楽士)
※山崎薫と峰崎亮介の「崎」は立ち崎(たちざき)が正式表記。

シェイクスピアの上演には多種多様な形式がある。男優のみによる上演。女優のみによる上演。現代に時代を移しての上演。特に日本での上演ではそうした傾向は顕著であり、それには翻訳も文語体に近い文体から、さまざまな口語体での翻訳までとりどりみどりということもある。時代を経て翻訳が時代にそぐわなく感じられればより現代語に近い文体にアップデートされてもいく。そのバラエティーの多彩さでは世界屈指ではないかと思う。
 そうした中でKawai Projectの上演はシェイクスピアの研究者であり、翻訳家でもあり河合祥一郎が自ら新訳を手がけ、演出も本人が手がけているのが特色。シェイクスピアの原典を忠実に反映した上演を目指しており、変り種の上演には事欠かないが、こうしたオーソドックスな上演は日本では逆に珍しいかもしれない。
 Kawai Projectはシェイクスピアの原典に忠実な上演を目指すと書いたが、実は実際にシェイクスピア作品を上演したのはまだ旗揚げ公演の「から騒ぎ」と「まちがいの喜劇」、今回の「お気に召すまま」の3本だけだ。
 上演回数の多い「ロミオとジュリエット」や4大悲劇ではなく、いずれもコメディー。しかもこちらも有名で上演が多い「夏の夜の夢」「十二夜」ではないのに河合のこだわりが感じられて面白い。
 私が最初に自分でチケットを買って見に行った舞台がシェイクスピア・シアターの「ロミオとジュリエット」(京都府文化芸術会館)、続けて見た舞台がそとばこまちの「夏の夜の夢」(同志社大学新町講堂)だった。いずれも京都大学在学中のことだから、今から40年近くも前のことである。それにどちらかというと演劇の舞台を見に行くというよりは、それ以前にシェイクスピアの戯曲を読んだり、映像作品を見たりもしていた。シェイクスピアが好きだったので実際の舞台はどのように上演されているのだろうという興味で観劇したのだった。その意味でシェイクスピアは私の観劇体験の原点ともいえ、こだわりも強く、それゆえついつい舞台の評価も厳しくなりがちだ。
 ただ「お気に召すまま」については劇団そとばこまちの上演を映像で見たほか、ケネス・ブラナーによる映像版を見てはいるが、舞台を見る機会はそれほどなかった。国内での上演を見たことは思い出せず、観劇経験はほぼ海外でのことだったかもしれない。そして、それは思ったほどは上演例が多くはないからかもしれない。
 それはなぜかと考えたのだけれど今回見て分かったのは「十二夜」のマルヴォーリオいじめの場面や「夏の夜の夢」のアテネの森の4人の恋人たちの彷徨の場面のような演出のやり方次第では抱腹絶倒といってもいい場面は「お気に召すまま」にはない。喜劇としてはもうひとつ地味だということがあるからかもしれない。そとばこまち版で最初のレスリングの試合の場面をプロレスの試合仕立てにしてタイガーマスクまで登場させたり、笑いを求める関西の若い客を相手に大向こう受けを狙ったような演出であり、研究者の目を顰めさせるような破天荒さはあったが若いつくり手の新鮮な魅力に溢れた舞台でもあった。
 実は最初に多様な演出と言うのを強調したのはこまばアゴラ劇場の演出コンクール*1の二次審査でこの「お気に召すまま」のアーデンの森の場が課題となり、3人の演出家(額田大志=ヌトミック、和田ながら=したため、野村眞人=劇団速度)がそれぞれ上演。演出コンクールという場の性格もあろうが、こちらも正統派から奇を衒った異色の演出までいろんな顔を見せてくれた。そこではロザリンド役の永山由里恵に飛び道具的なエキセントリックな演技をさせた額田がインパクト勝ちのような形で勝利を収めたのだが、一方でその上演はその場面だけの上演としては抜群に面白かったが、全編を通した上演のなかでそれを見たらこの戯曲全体の解釈としては成り立たないのではないかとの評も一部審査員から出ており、それを受けてか額田がその後、こまばアゴラ劇場での「お気に召すまま」の全編上演を決めたという経緯もあった。
 そういうこともあり、額田による上演を見る前に一度比較的オーソドックスな演出による上演を見ておきたいと思ったのだ。
 さて、それで実際にどうなのかというとこれは恋愛コメディとしてよく出来てはいるが、笑いという点では正直言って少しもの足りないのだ。そういう意味ではやり過ぎではと思ったが、自らロザリンドを演じていた上海太郎が演技の部分でもうひと味付け加えようとした気持ちが分からないでもない。
 太田緑ロランスはいい女優だが、美人すぎてロザリンドに合っているかどうかには疑問も感じた。 

舞台「タイヨウのうた~Midnight Sun~」@なかのZERO大ホール

舞台「タイヨウのうた~Midnight Sun~」@なかのZERO大ホール

上演台本:モトイキ シゲキ
演出:佐藤幹夫
出演:辰巳雄大(ふぉ~ゆ~)柏木ひなた(私立恵比寿中学)松崎祐介(ふぉ~ゆ~)/藤原丈一郎(関西ジャニーズJr.)高嶋菜七(東京パフォーマンスドール)諸塚香奈実/ 三戸大久/ 中西良太 海部剛史 黒田こらん 鈴木健介 / 手塚理美/高橋惠子 ほか
企画・製作 :プロデュースNOTE/エイベックス・エンタテインメント
主催:舞台「タイヨウのうた~Midnight Sun~」製作実行委員会
公式HP:https://www.taiyouno-uta.com/

  雨音薫の役は冒頭は子役によって演じられ、その後、柏木ひなたに代わる。これまで映画版ではYUI、ドラマ版では沢尻エリカが演じてきたスターダストプロモーションにとっても大事な配役だが、この舞台で柏木ひなた(私立恵比寿中学)が演じることになった。最初に彼女が雨音薫として歌声を発した瞬間、ある種戦慄のようなものを感じた。彼女の雨音薫は映画ともドラマとも違うけれどもその魂のようなものは受け継がれている。柏木ひなたはスターへの階段をひとつ上ったのではないかと感じたのである。
 ただ、一方で出演している俳優には責任はないのだが、ミュージカル(なのだとは思うが)としては脚本、演出的に作品自体はどうなのだろうと思うところも散見された。一番、疑問を感じたのはラストの場面なのだが、映画やドラマはあんな終わり方をしなかったと思うので、演劇だからこその仕掛けとは思うが、あれはどうなんだろうか。

YUI タイヨウのうた

フェスティバル「これは演劇ではない」関連イベント 「ヌトミックのコンサート」@SCOOL

フェスティバル「これは演劇ではない」関連イベント 「ヌトミックのコンサート」@SCOOL

出演

池田若菜、額田大志、深澤しほ、細井美裕

日程

9月8日(土)15時〜/19時〜
全2公演

チケット

予約:2,500円
当日:3,000円


9.8 15:00 19:00



<プログラム>
・額田大志:舞台俳優のためのピアノソナタ世界初演
・額田大志:ネバーマインド(世界初演
・額田大志:何事もチューン
・額田大志:それからの街
・額田大志:SUPERHUMAN
John Cage:4″33
・Christian Wolff:Sticks
・長井桃子:日本の歌
・池田萌:いちご香るふんわりブッセ/うさぎのまくら クリーム金時
※曲順は未定、なおプログラムは変更の可能性がございます

公演Webサイト・予約:
http://nuthmique.com/post/175927220258/nuthmiqueconcert

<スタッフ>
宣伝美術|タカラマハヤ
制作|河野遥
協力|みんなのひろば、これは演劇ではない
製作・主催|ヌトミック

<お問い合わせ>
ヌトミック
nuthmique@gmail.com(河野)

 演劇の公演ではなくて、演劇のテキストも使った現代音楽のライブ。という風に一応見なすことができるけれど、音楽とは何か、演劇とは何か、現代美術的なパフォーマンスとは何かと考えさせる意味でとても刺激的。
 コンビニのお菓子を古典(竹取り物語)の朗読の最中に無理やり食べさせられるという池田萠の作品が面白かった。タスク系というならこれくらいはやらなくちゃ。さすが天野天街が拠点としている名古屋を本拠地としているアーティストだと思った。

水素74%「ロマン」@こまばアゴラ劇場

水素74%「ロマン」@こまばアゴラ劇場

作・演出:田川啓介


結婚について考えています。
なにも頑張らないで、自然に結婚できるのならよいのですが、今は結婚するのが難しい時代らしく、すごく頑張って、積極的に行動していかないと叶わないようです。 そこまでして結婚しなくてはならないのか、とも思いますが、人はひとりでは生きていけないと言うし、生涯の伴侶的な人がほしいという気持ちもわかります。そこそこいっしょにいてくれそうな人を乗り換え続けるのもしんどいし、同じ人がずっといてくれるのが好ましいですよね。 まあ、離婚する場合もありますし、確実にずっといっしょにいてくれるわけではないですが、、、。
生涯の伴侶的な人を得るためには、結婚するくらいしか方法が見つからない、というのは不自由だと思います。もっと色々方法があればいいのに。
例えば、同性の友だちとかがいっしょにいてくれて、友だちと生涯を共にするとかそういうのが結婚くらいポピュラーになればいいなあと思ったり。そういう、他の選択肢も選べるようになればなあ、と。
今回は、生涯の伴侶的な人を得るために、今はポピュラーじゃない、自分なりの方法をとろうとする人たちの姿を描こうと思っております。

水素74%
2010年10月に主宰の田川啓介が旗揚げ。劇団員を持たないプロデュースユニットの形式を取る。
第1回公演「謎の球体X」がMITAKA NEXT SELECTION 12thに選出される。
自分の持っている尺度こそ全ての人間に共通する尺度だと思い込み、他人にも自分の考えで生きさせようとする自分勝手な登場人物たちとその関係を描く。

出演

浅井浩介 折原アキラ(青年団) 島田桃依(青年団) 兵藤公美(青年団)日高ボブ美(□字ック) 前原瑞樹(青年団) 用松亮 安川まり

スタッフ

舞台美術:袴田長武 音響:池田野歩 照明:山口久隆 
衣装:正金彩(青年団) 舞台監督:大地洋一
制作:水素74%

 ダメ人間しか出てこないのだけど、だからこそいとおしい。そんな舞台だった。水素74%としては最後の公演になるようで、田川啓介自身も当面演劇に関わる活動は白紙。それは今回の一連の経緯からすれば仕方ないことなのだけど、何らかの形で創作活動は継続してほしい。この才能がこのまま失なわれるのは余りに惜しい。 

黒フェス2018~白黒歌合戦~@豊洲PIT

黒フェス2018~白黒歌合戦~@豊洲PIT

2018年9月6日(木)東京都 チームスマイル・豊洲PIT
<出演者>
松崎しげる / ももいろクローバーZ / 杏里 / 打首獄門同好会 / 天童よしみ / BiSH / CHAGE /and more

黒フェスは「黒(96)」がトレードマークの松崎しげるにより毎年9月6日に開催されているフェスで今回が4回目となる。ももクロはこれまでも氣志團万博氣志團)、若大将フェス(加山雄三)、高校生ボランティア・アワードチャリティコンサート(さだまさし)、VAMPS主宰「HALLOWEEN PARTY」など*1、と日頃お世話になった人たちの主催フェスには恒例事業として積極的に参加してきた。この黒フェスもそのひとつとなっている。
実はももクロもフェスの代わりに年越しカウントダウンライブを「ももいろ歌合戦」として開催しており、第1回となった昨年は氣志團加山雄三さだまさしが参加してくれたのだが、今年は松崎しげるも参加することをすでに明らかにしており、こうした相互の深い交流によるネットワーク作りがももクロの活動のひとつの特徴となっている。
今回の黒フェスでのセットリストは以下の通り。

黒フェス2018 ももクロセットリスト
overture
クローバーとダイヤモンド
MC
CONTRADICTION
DECORATION
サラバ、愛しき悲しみたちよ

  アウエー仕様のロッキンとも、フェスの主への挨拶代わりの印象も強く毎年カバー曲を披露している氣志團万博イナズマロックフェスとも異なる。通好みかつ最新アップデートされた楽曲で攻めてきたのが今回のセットリストだろうか。黒フェスは野外フェスとは違い豊洲PITというライブハウスが会場。前方がオールスタンディングということもあり、ダンスも激しく観客も一緒に盛り上がれる曲で構成し、同じアイドルで初の本格的な競演となったBiSHにも目の前でスタジアム公演もこなすももクロパフォーマーとしての存在感を見せ付けるようなライブであった。
  黒フェスの方も似たような形で松崎しげるの個人的なコネクションで新旧さまざまなジャンルのアーティストが集められているが、何と言っても大物アーティストのここでないと聞けないようなライブパフォーマンスが見られるのが魅力なのだ。
 今回まず驚かされたのは天童よしみで演歌歌手の大御所というイメージしかなかったのが、最近演歌にこだわらない曲目を選んだカバーアルバムを出したということもあって、バンドを引き連れて登場、「タイガー & ドラゴン」ややしきたかじんの「やっぱ好きやねん」を圧倒的な声量で歌い上げたことだ。「タイガー & ドラゴン」といえば和田アキ子が杏果と一緒にコラボしたのをどうしても思い出してしまう。杏果が天童よしみと個人的に仲がよかったのも周知の事実なのでどうしても卒業前にコラボが見たかったなあとも思ってしまったのだが、まあ許してほしい。杏果のことは別にして天童よしみにもももいろ歌合戦に来てもらいたいなあと思ったが、よく考えたら天童よしみは昨年も紅白歌合戦に出場していて、現在22回出演中。まあ、無理か。バンド生演奏をバックにしての「大ちゃん数え唄(いなかっぺ大将) 」も大迫力だった。
 杏里が出てきて「キャッツアイ」と「オリビアを聴きながら」の2曲だけを歌ったのにも驚かされた。平日夜なのに出演者が多くて豪華という黒フェスならではの贅沢さだ。
打首獄門同好会も面白かった。 こういうのはモノノフは好きなんじゃないだろうか。実はロッキンで家入レオに向かう途中でLAKE STAGEでやっているのを横目で見ながら素通りしてきたのだが、見たほうがよかったかもなあ。
 新曲「はたらきたくない」が披露されたがこれは「労働讃歌」へのアンサーソングじゃないかと思ってしまったのは私だけだろうか。

【俺の藤井2016・BD】ももいろクローバーZ♪労働讃歌【タイナマイト】


打首獄門同好会「はたらきたくない」
 今回、一番期待していたのはBiSHだった。清掃員(BiSHのファン)というほどではないが、今後アイドルのトップ集団に加わりそうなグループとして以前から注目していてライブにも何度か行った*2ことがあったからだ。実力はもっとあるはずだが、ベテランの大御所なども出演する黒フェスはBiSHがこれまで経験してきた現場と雰囲気が全然違うために気後れしてしまったということもあるのだろうか。こういう現場ではいつもやっていることであってもやっていいこととそうでないことがあるはずだが、その線引きをどこに引くのかにとまどって不完全燃焼に終わってしまったかもしれない。最後に用意した「BiSH-星が瞬く夜に-」はこの集団の一番の切り札であり、盛り上がって終わることはできたけれど、終演後何人かがももクロのパフォーマンスに釘づけになったと書いていたのはこの日の自分たちのパフォーマンスに全面的には満足していなかったという悔しさもあったのではないか。当然、そうした書き込みに対してBiSHのファンは「そんなことはない。あなたたちのパフォーマンスは素晴らしかった」と応じていたが、むしろ、悔しさこそ次のパフォーマンスがより向上していくことへのバネになっていくのではないかと思う。
 個人としての技術なら歌はももクロよりもアイナ・ジ・エンドの方がうまいと思うのだが、やはり全体的なステージングでは差があると感じた。ただ、それが何なのかがよく分らない。BiSHのファンはももクロファンのたわごとだと思うかもしれない。しかし、おそらく、このどれもが単独のライブを見たら素晴らしいと思うだろうあゆくまやチームしゃちほこもそうだと感じたし、日比谷野音で見たたこやきレインボーのパフォーマンスも素晴らしかったが、ももクロとは何か決定的な差があると感じてしまった。
 ただ、そういう意味でいえばこの見たパフォーマンスでももクロなんかともまるでレベルが違う「本物は凄い」感を醸し出したのはCHAGE &MATSU(松崎しげる)の「YAH YAH YAH」 だった。

[MV] YAH YAH YAH / CHAGE and ASKA

 ももクロを含めてもこの日一番盛り上がったのはこの曲だった。それにしても松崎しげるおそるべしというのはただでさえキーが高く原キーで歌うのが簡単ではないはずのこの曲を原曲より1音上げでカバーしており、そのため本家であるはずのCHAGEがそれに合わせてそのキーで歌わざるをえなかったということ(笑)。そんなことがありうるのか。いや、あるとしたらここでだけだろう。
 オーラスはもちろん松崎しげる。フルコーラス、生演奏で聴く「愛のメモリー」はやはり素晴らしかったが、思わずまた笑ってしまったのは最後の新曲でのももクロとのコラボ。曲の途中でももクロがコーラスにはいってきて一緒に歌ったのだが、昨年同様に松崎しげるの声が大きすぎて、ももクロの声はいっさい聞こえなかった(笑)。

*1:イナズマロックフェス(T・M・レボリューション)にも参加していたが、昨年台風のためにももクロが参加するはずだった予定日が中止に今年はミュージカルの日程の関係で不参加となった。

*2:simokitazawa.hatenablog.com

異端×異端(三東瑠璃・武井よしみち)@d-倉庫

異端×異端(三東瑠璃・武井よしみち)@d-倉庫

三東瑠璃『Matou』
武井よしみち+ブルーボウルカンパニー‘96
『I wish you were here 2018-sep 足が耕す表現の世界』

※4日、5日、両日ともに上記2作品、2本立ての上演


三東瑠璃 Mitoh Ruri

-ESQUISSE trailer- Ruri Mitoh
三東瑠璃は10年以上前にレニ・バッソ北村明子振付)のダンサーとして活躍しているのを何度も見ていて、柔軟かつ強靭な身体性は当時から特筆すべきものがあった。
その後、横浜ダンスコレクションで振付作品を見てはいるはずだが、それほど強い印象はなく、直近の舞台で見たのダミアン・ジャレ×名和晃平の作品*1だったが、それはほとんど動くオブジェでダンサーをどうこう論じることができるようなものではなく、まとまった形でのダンス作品を見るのはひさびさのこととなった。
 と書いてから実際に作品を見たら身体をオブジェとして見せるという意味ではかなりの共通項があり驚かされた。ただ、大きな違いもあり、それはジァレのが文字通りに「モノ」を思わせるのに対し三東のは身体の隅々までの細かなディテールの変容に魅力を感じることだ。
 この作品の最大の特徴は頭部を身体のどこかで常に隠れるような姿勢を取り続けることだ。頭のない(隠れた)胴体と手足は人間ではない、何か異形の生き物のように見える。ただ、三東のそれはやはりモノではなく、身体の一部でもあり、それなのに頭がそこにないと普通に頭が見える状態以上に身体のそれぞれの部分がそれぞれ表情を持つかのように見えてくる。
 このように身体の微細の変容のディテールを丁寧に見せていくような表現は従来、舞踏が得意とするところであって、これまで見た舞踊作品の中で類似な方向性を持ったものには室伏鴻の作品や彼の若き追随者である岩渕貞太の作品などが思い起こされた。三東は舞踏のメソッドでこれを創作したわけではないけれども、別の道を通って本来は舞踏系の作家が辿り着くべき境地に先に到着したようにも思われた。

Baobab『FIELD-フィールド-』@吉祥寺シアター

Baobab『FIELD-フィールド-』@吉祥寺シアター

baobab

前作「靴屑の塔」から2年。Baobabの放つ、来る2020年を見据えた圧倒的熱量の舞踊表現!15名を超える過去最大規模のアスリート/ダンサー部隊が集い、挑むのは熱狂の舞台(フィールド)で生まれる“新たなスポーツ” 。物語ることをやめてしまった全ての人たちへ。吉祥寺シアターから望む、リアルと未来の地平。

振付・構成・演出:北尾 亘
[出演] 田中穂先(柿喰う客) 中村蓉 植田崇幸 中川絢音(水中めがね∞)
中村駿(ブッシュマン) 下島礼紗(ケダゴロ) 米田沙織(Baobab)北尾亘(Baobab)
佐藤郁 間瀬奈都美 藤島美乃里 小林利那 原愛絵 長谷川真愛 橋本ロマンス 山田茉琳 伊藤奨

スタッフ
楽曲提供:岡田太郎(悪い芝居) 舞台監督:熊木進 久保田智也
照明:富山貴之 音響:相川 貴 舞台美術:中村友美
衣装:清川敦子(atm) 衣裳・演出助手:入倉麻美 宣伝美術:佐藤翔吾
コピーライティング:深澤 冠 仮チラシデザイン:office NYUU Design
宣伝写真:長野柊太郎 宣伝写真レタッチ:小柴託夢
印刷:堤智奈美 ドラマトゥルク:中瀬俊介(Baobab)
制作:白井美優(Baobab)  高杉夏実
プロデューサー:目澤芙裕子(Baobab)

主催:Baobab
提携:公益財団法人 武蔵野文化事業団
助成:アーツカウンシル東京
(公益財団法人東京都歴史文化財団
公益財団法人アサヒグループ芸術文化財

ワークショップにたまたま参加した学生ダンサーとかではなく、自ら振付家としてのキャリアを持ちダンスコンペでの受賞暦もあるダンサーを十数人集めての本格的ダンス作品を上演したというだけでも北尾亘は現在のダンス界における存在感を示したと思う。
ただ、これだけの数のダンサーが参加するなかで分かりやすいユニゾンによる群舞の組み合わせではなく、個々のダンサーの個性を重視しての振付は評価が難しい部分もあったかもしれない。それぞれのダンサーの動きの魅力を堪能できるところはあり、最近はコンセプトや主題、物語中心の作品が目立つ中でこういう作品は珍しく、そういう部分はおおいに評価したいのだが、動き自体の統一性にも作品のメッセージ性にも欠ける印象が強いため作品における作家性の強さに欠け、淡い印象を受けるのだ。
 逆にいえば作品中のいくつかのソロ、デュオのシーンは忘れがたいインパクトを残した。おそらく、これは全体の枠組みとシーンごとの方向性は示唆しても動きそのものは北尾が振り移したのではなく、それぞれのダンサー、パフォーマーのクリエイティビティーを生かした作りにしたことにあるかもしれない。
作品中でもっとも印象的だったのは横浜ダンスコレクション2017コンペティションII「最優秀新人賞を受賞した下島礼紗(ケダゴロ) と男性ダンサー(田中穂先?)によるデュオ部分。身体を止まった状態で保持している田中に下村がぶら下がり、そこから変形してのコミカルなリフトが続く。下村の作品*1もいくつか見たことがあり確かに彼女の作品にはコミカルなところがあり、それが魅力ではあるのだが、その中にこういうリフトを見た記憶はなく、北尾亘の過去の作品でも類似の振付を見たことはない。おそらく、北尾のシーンについての指示のもとで下島と田中が動いていくなかで生まれてきた動きだと思われるが、この作品にはそれぞれ質感の違うダンサー固有の動きが数多く組み込まれている。
 今回参加している中でもキャリアが長い中村蓉のソロでの動きや北尾自身のソロも際立っていた。ただ、若干気になったのはそうしたソロなどを担ういわばリード役のダンサーは動きの細部まで注意が払われていて魅力的な動きなのだが、それ以外のダンサーがそのソロの動きに合わせてユニゾン的にシンクロしていく動きは最初のソロの劣化コピーのように思われることがあって、ダンスとして練りこみが物足りないと感じることがまだまだあった。出演人数が多いからということもあるにはあるのだろうが、こういうところにどうしても散漫さを感じたことも確かなのだった。
 もうひとつは実際には存在しないけれどあったかもしれない架空のスポーツの選手がいたら見せたかもしれないフィジカルな動きを見せていくというのが作品の主題のようだが、そのスポーツがどういうものかについての明確なコンセプトがあるわけではないためいまいち焦点が定まらない印象があるのだ。