東京演劇アンサンブル「トゥランドット姫 あるいは 嘘のウワヌリ大会議」@ブレヒトの芝居小屋
作 ベルトルト・ブレヒト
訳・ドラマトゥルク 黒田容子
演出 公家義徳歌・作曲 多良間通朗
音 響 島猛
照 明 真壁知恵子
衣 裳 稲村朋子
映像アドバイザー・撮影 飯名尚人
制 作 小森明子・太田昭■キャスト
トゥランドット姫 正木ひかり
皇帝 永野愛理
皇太后 志賀澤子
ヤウ・イェル 三木元太
総理大臣 竹口範顕
宮廷学者フィー・イェイ 篠原祐哉
アー・シャー・ゼン(農夫) 伊藤 克
エー・フェー(彼の孫) 山﨑智子
ゴーゲー・ゴーグ(ギャング) 和田響き
マー・ゴーグ(彼の母) 原口久美子
浅井純彦
雨宮大夢
大橋隆一郎
小田勇輔
上條珠理
坂本勇樹
仙石貴久江
永濱渉
奈須弘子
町田聡子
真野季節
洪美玉チケットの申し込み
2018年9月7日(金)~17(祝)
開 演 7金 8土 9日 10月 11火 12水 13木 14金 15土 16日 17祝
14:00 〇 〇 休 〇 〇 〇
19:00 〇 演 ★ ★ 〇 〇ブレヒトの芝居小屋
ブレヒトの 「トゥランドット姫 あるいは 嘘のウワヌリ大会議」はプッチーニのオペラ「 トゥーランドット」のパロディーといっていい作品である。トゥーランドット姫への求婚譚という原作の筋立ては残しながらも主役格のダッタン国の王子カラフは登場しない。
代わりに求婚者として学者(トゥイ)が多数登場し、次々と処刑されてしまう。役人(学者)らが政権への忖度で腐敗したワイマール共和国の状況を中国と重ね合わせて描いたということだが、特に大きく戯曲に書かれたセリフを変更することはなくても、観客の大部分はこれをそのまま安部政権下での政治状況と重ねて見てしまう事は必定であろう。
演出の公家義徳によれば「非常に珍しい演目であり、日本では過去に一度か二度は上演されたこともあったようだが、よく分からない」という。上演があまりされない理由のひとつには戯曲の指定では70人近い出演者が必要であること。それを公家は仮面劇として演出、同じ俳優がいくつもの役柄を兼ねて演じることで、(それでもかなり多いが)出演者22人で上演した。ただ、人数というだけではなく、この仮面には王や学者(トゥイ)や政府の役人たち、群集まで個別の存在と見えて実は入れ替え可能な匿名的人物にすぎないというような象徴的な意味合いを持たせているのではないかと思った。
興味深いのはそういう中でトゥランドット姫(正木ひかり)、やがて独裁者へと上りつめていくギャングのゴーゲー・ゴーグ(和田響き)、農夫のアー・シャー・ゼン(伊藤克)とその孫(山﨑智子)だけは素顔で演じられていることだ。
ここで不思議だったのはゴーゲー・ゴーグという人の人物造形。ブレヒトは「アルトゥロ・ウイの興隆」では、ヒトラーとナチスがあらゆる手段を使い独裁者としての地位を確立していく過程を、シカゴのギャングの世界に置き換えて描いているので、ある意味ここでも同工異曲の趣向が使われているともいえそうだが、一方でそういう比喩的な趣向だけではなく、ギャングと言う存在に魅力を感じているのではないか。
考えてみれば「三文オペラ」の主人公であるメッキー・メッサー(マック・ザ・ナイフ)も貧民街の顔役であるギャングであった。
「トゥランドット姫 あるいは 嘘のウワヌリ大会議」の表題の通りにこの作品での最大の揶揄の対象は政府におもねる学者(トゥイ)だ。さらにトゥランドット姫も軽薄そのものという風に描かれている。
それに対し、ギャングのゴーゲー・ゴーグはこちらもいずれは独裁者となる危険な存在と描かれているため肯定されているわけではないが、学者とは対比的に描かれている。旧権力を打倒していく重要な役割が振り当てられていることは間違いない。
原作でトゥーランドット姫に求婚するのはダッタン国の王子カラフ。父が政争に敗れ国を追われたとはいえ、もともとは王族の血を引く存在なのだ。それに対してギャングのゴーゲー・ゴーグは母親が財産家とはいえ、明らかに支配者階級とはいえない成り上がりもの。それゆえ、この作品は原作とは異なり、階級闘争の様相を含んでいる。
だが、そうだとすればさらに重要なのは農民であるアー・シャー・ゼン(伊藤克)とのその孫と言うことになるかもしれない。
舞台を中国にしているのも「 トゥーランドット」の原作そのものがそうだからでもあるが、姿を見せない革命の指導者が「カイホー」と呼ばれているのも人民解放軍というか、中国共産党の影を感じざるをえない。とはいえ、ブレヒトはそれにさえ肩入れするわけでもないようだ。
あえていえば綿花を育てていた農夫だったのが、学識階級に憧れ、都会に出てきた農民であるゼンにその共感は寄せられているように感じる。とはいえ、実際はゼンには世界に対して何の力もなく、呆然と見ているだけで全くの無力なのだ。ただ、それは当時(1953年)のブレヒトの心情そのものの反映なのかもしれない。